第30話 期待するだろ
◇ ◇ ◇
「おい、ねぼすけ」
ぎゅむっと鼻先をつままれて、六華はびっくりして跳ね起きる。
「ひゃっ……! あっ!」
目の前に大河の顔があった。
しかもかなりの至近距離だ。
「えっ、ここどこ! 夢っ?」
なぜ久我大河と一緒にいるのかわからない六華は一瞬パニックになる。
「俺とふたりきりってどんな夢だよ。夢の中でも仕事してるのか?」
大河があきれたように笑って、ハンドルに乗せた手に額をくっつけて、どこか楽し気に目を細めた。
夢の中でも仕事――。
そう言われると、胸の奥がちくっと痛くなる。
(確かにこの人とと私がオフで会うなんてありえない、よね……)
我ながら重症だと思うが、六華はアハハ……と適当に笑ってごまかすしかない。
「通行止めになってる道があって別の道に入ったんだ。ナビが怪しい。ここからだとどの道が近い?」
大河の説明にようやく六華は、そういえば彼に車で送ってもらっている最中だったことと思い出した。
「す、すみません、ぐっすり寝てしまって……お恥ずかしい……」
恥ずかしさのあまり、顔が熱くなる。
思わず手のひらで顔をパタパタと仰いでしまった。
「気にするな。疲れてたんだろ」
てっきり嫌みの一つでも言われると思ったのに、大河は優しかった。
そのまま六華の頭をぽんぽんと叩いて、またハンドルに手をのせる。
「いえでもその……すみません……」
どう考えても疲れているのは大河のほうだ。
情けないと思いながら、六華は改めて自宅までの道を説明した。
「――あの街灯の下あたりで停めてください」
昔ながらの住宅がずらりと並ぶ一角。街灯の下から50メートルほど進んだ一軒家が矢野目家である。
一時期はどうなることかと思ったが、なんとか無事家に帰ってくることができて、六華はほっと胸を撫で下ろした。
「家の前まで送る」
「えっ……あっ……」
大河は車を停めずそのまま街灯を徐行しながら通り過ぎ、『矢野目』と表札がかかった一軒家の前で停車した。
ちらりと二階を見たが電気は消えていた。
樹はもうひとりで寝ているのかもしれない。
彼は幼稚園児にしてすでに独立心あふれる男子なので、六華がいなくてもぐずることなくさっさと寝てしまうことが多かった。
六華はシートベルトを外したあと、運転席の大河と向き合った。
「お疲れさまでした。その……今日は大変でしたね」
突然山尾に招待状を渡され、大河の友人である飛鳥にドレスを借りに行った。
なかなか迎えに来ない大河にしびれを切らして先に竜宮に行って、すれ違った大河とちょっぴり喧嘩しつつも、一緒にワルツを踊った。
姉の様子を見られたのは大収穫だったが、あやかしの出現でいろいろ吹っ飛んでしまった。
「だな。密度の濃い一日だった」
大河もうなずく。
「ほんとたくさんのことがありすぎて……」
そう言いながら、ふと唐突に大河からされたキスのことを思い出す。
『出会いも最低。お前は俺を嫌ってるし、そもそも俺だってお前のことをよく知らない。なのに独占したいと思っている』
あれは大河の言うとおり、ごっこ遊びが見せた幻覚のようなものだったのだろうか。
大河が薄暗闇の中、じっと六華を見つめている。
磨き上げた黒曜石のような瞳。
彼は六華が今まで出会ってきたどの男よりもきれいだ。
(やだ……思い出しちゃう……困るよ)
六華はごまかすように、自分の唇にふれる。
大河の唇の熱は、忘れようにも忘れられない。強烈なキスだ。
すると大河はかすかに眉根を寄せて、なんとも色っぽい顔をした。
「――そういえば、お前には『待っている男』がいるんだっけか」
「えっ?」
待っている男とはいったいなんのことだ。
六華は目を丸くする。
まるで自分に恋人でもいるかのような発言だが、どういう意味だろう。
「――違うのか」
六華の反応に、大河が怪訝そうに眉を顰ひそめる。
「俺は隊士の連中に、矢野目は家に待っている男がいると聞いたぞ」
「家に待っている男……あっ!」
六華が仕事以外の付き合いを断る理由を、周囲が冗談めかしてそう言っているのだ。
自分的には好都合なのでわざわざ否定していないのだが。
「ああ、いや、それは……」
けれど大河に恋人がいると思われるのは、六華には、どうしても受け入れがたい。
(ずるいな、私……)
母親だから、自分勝手に恋なんか絶対にしちゃいけないと頭では理解しているのに、大河のそばにいると理性が揺らぐ。
「――父親が……いるだけですよ。仕事が仕事だから、心配性なんです。じゃあお疲れさまでした。送ってくださってありがとうございます」
「父親?」
大河がきょとんとする。
「はい」
悟朗は心配性どころかわりと放任主義だし、なにより嘘をついてまで、樹をいないものとするのは辛い。だが子供の父親である大河にだけは絶対に秘密にしなければならない。
六華は作り笑いを浮かべてドアハンドルに手をかけ降りようとしたのだが、横から手が伸びてきてドアがもう一度締まる。
ドアを閉めたのは大河だ。
なぜそんなことをするんだろう。理由を問いかけようとした瞬間、大河が動いた。
六華の首筋に顔を寄せて吐息交じりにささやく。
「お前がそんなだから……自分に都合のいいことばかり考えてしまう」
「え?」
車という密室は、恋人同士なら本当に甘い空間になりえるのだろうが、危うい均衡を何とかキープしているだけの、自分たちはどうなのだろうか。
恋愛経験はほぼ皆無の六華からしたら、大河の一挙手一投足は刺激が強すぎる。
「それってどういう……」
「――」
けれど大河はその質問に答えなかった。
うつむいたまま、六華からゆっくりと距離をとると、
「――いや。なんでもない。明日は遅刻するなよ」
運転席のシートに身を沈め反対側の窓の外を向いてしまった。
「……はい」
後ろ髪引かれる思いだったが、大河がなんでもないというならそうなのだろう。六華はうなずきドアを開けて車から降りる。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
ドアを閉める瞬間、大河の耳から首筋が赤く染まって見えたが、六華は光の加減だろうとそれほど気にしなかった。
実際大河は、『そうか、父親だったのか!』と自分でもびっくりするくらいほっとしていて、そして同時にそんな自分に赤面していたのだが、六華は知る由もない――。
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