第29話 大河の焦燥


 まずいな、と感じた。

 安易に触れてしまった自分を心の中でいさめる。


 だがこの焦燥はいったいなんなのだろう。

 燃えるような、焦れるような、そんな感情。

 自分にはない強さを持つ彼女に憧れているだけではない。同時に、この女が欲しいと自分の中の獣じみた欲望が叫んでいるのだ。


(ああ……いやだ……本当に、いやだ……)


 自己嫌悪で大河は唇をかむ。

 大河は自分が嫌いだった。

 物心ついた時からずっと、自分という存在が疎ましくてたまらなかった。

 己の中にある心の醜さが恐ろしかった。


 大河がまだ元服前で『リン』と呼ばれていたころ。

 リンは己の力を制御できず、異性をとことん惹きつけるような魔性を持っていた。

 ただそこに立っているだけで女性たちはふらふらと寄ってきて、己の体を差し出そうとする。いつもそこに心はなかった。

 元服する二十歳までずっと、女性たちの欲望に振り回され心と体を蝕まれてきた。


 なにも女性が一方的に悪いわけではない。

 自分がそういう体質だったのだと、頭ではわかっている。

 だがそれが耐えられなかった。

 自分の体質が異性を引き付けているのだとしても、ひとりの男として愛されているわけではないと、物のように扱われるのが辛かった。


 特に、成人する前のおおよそ半年、リンの記憶はあいまいだ。

 毎日朝から晩まで酒浸りで、酒が覚めているときは倒れるまで剣の素振りをしていた。

 道場で意識がなくなるまで素振りをし、ある日は酒を飲んで酔いつぶれ……その繰り返しだ。

 周囲にも死ぬほど迷惑と心配をかけたはずだが、酒に酔っている間と、鍛錬に励んでいいるときだけ何も考えずに済んだ。肉体の快楽ですら感じたくないから、肉体を苛め抜く鍛錬と酒に逃げたのだ。

 死ねるものなら死にたいとずっと死にたかった。


(結局、決断する勇気もなかったけどな……)


 元服して『久我大河』になり、竜宮から離れて昔よりは落ち着いたが、大河は相変わらず心に獣をかっている。

 それは死ぬまでずっと向き合わねばならない問題だろう。

 大河は自嘲しながら、相変わらずすうすうと寝ている六華の顔を見下ろす。

 この女が欲しいと思う。

 それはよくない感情だと、自分が一番わかっている。

 律さなければ自分は獣になってしまう。

 いつだって食うか食われるかの瀬戸際で大河は自分と戦っているのだ。

 実際、霊感のある人間などは、正体は分からずとも大河に『近寄りがたさ』を感じるはずだ。


 なのに六華は、なぜかそんな自分にぐいぐいと近づいてくる。

 なにも知らないくせに、無条件で信じて大河の存在を丸ごと受け止めようとする。

 熱に浮かれているようで、それだけじゃない。

 何よりも驚いたのだが、あやかしを倒しひどい状態だった自分を正面から見つめて、『大丈夫だ』と言ってくれたことだ。

 あの時、必死で呼吸を整えていたとき、彼女に背中を抱きしめられて、一瞬泣きそうになってしまった。

 いつも自分に言い聞かせている言葉でも、他人に言ってもらうと、こんなに安心できるものかと言われて初めて気が付いた。

 そう、大河は誰かに『大丈夫』と言われたかったのだ。ずっと。


 けれど優しくされると、人として、男として、思われているような気までしてくるのは正直困る。


(俺の勘違いなんだろうが……)


 彼女に惹かれているから、そんな都合のいいことを考えてしまうのだろう。


「女なんか……大嫌いだったはずなんだがな……」


 本当に自分でも意味が分からない。

 大河はゆっくりと親指を唇の上にのせて、うつむき加減の六華の顎先を持ち上げる。


「なぜ、俺に近づくんだ……」


 返事があるとは思っていない。

 ただそう問いかけながら、六華に触れたいだけだ。


「六華」


(ドレスアップしたお前を見て、目がくらんだよ)


 冗談のつもりで『まともな女にしてもらえ』と言ったのは自分だが、彼女が大変身する予測をまるでしていなかった。

 本当に我ながら馬鹿だ。彼女が魅力的な女性であることを忘れてしまっていた。

 美しく装った彼女に男たちが目を奪われて、群がるところを見て頭にきた。

 そんな目で俺の女を見るなと激高してしまった。


(俺の女か、聞いてあきれる)


 いつから彼女が自分のものになったというんだ。

 そんな権利が自分にあるはずがない。


「六華……」


 もし、自分が普通の男だったら。

 普通の家に生まれて、普通に成長した、ただの平凡な男だったら。

 きっと彼女を放ってはおかないだろう。

 素直に彼女に好意を伝えていただろう。

 だがそれはできない。

 大河は竜宮で生まれ育ち、そしてそこから逃げた男なのだ。

 自分の勝手な欲望で、この純粋でまっすぐな娘を不幸にするわけにはいかない。面倒に巻き込むわけにはいかない。


「――でも……」


 そう、わかっているのに、感情が追いつかない。

 理性が働いてくれそうにない。

 彼女が欲しくてたまらない――。


「くそっ……」


 大河は一瞬六華から目をそらして、深呼吸をする。

 それからゆっくりと顔を寄せ、六華の額に唇を寄せた。

 触れたかどうかわからない程度の、つつましい額へのキス。

 それは理性と感情がせめぎ立ってなんとか譲歩した結果で。


(我慢したら、爆発してたな……たぶん)


 そう、爆発しないための適度なガス抜きなのだと自分に言い聞かせながら、大河は呼吸を整えたのだった。


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