上司から誘惑されています。

第26話 接近


 乱雑に脱ぎ捨てられたタキシード。

 相変わらずガラス戸の向こうから聞こえてくるシャワーの水音。


(もしかして私、非常に大胆なことをしてしまったのでは……?)


 六華はすうはあと大きく深呼吸をして、それからぎゅっと目を閉じる。



 ここは三番隊詰所の中にある隊士控室だ。

 詰所は広く、先日歓迎会をした和室以外にも、仮眠をするためのベッドルームやシャワールーム。それ以外に自分たちで簡単に食事をつくることができるキッチンや、憩いの場でもあるリビングルームまで完備している。


 あの後、あやかしの返り血でびっしょりだった大河を六華は強引にフロアから連れ出して、隊士専用のシャワールームに押し込んだ。

 そしてひとりになり、久我大河を抱きしめてしまった重みを思い出して、いまさら激しく動揺している。


「いやいや、これは誰であっても絶対にやったことだし……そう、誰であってもね……!」


 六華はそんなことを口にしながら、落ち着かない動物園のクマのようにうろうろとその場を回っていた。

 誰にとがめられたわけでもない。

 ただ自分に大河に対してやましい気持ちがあるから、こんなことを思うのだ。


 本当にうかつだったと思う。

 だけど過去に戻ってやりなおせたとしても、同じこととしただろう。

 六華は器用な性格ではないので、それこそ人生に失敗は多いが、久我大河に関してはいつも自分の選択は、後悔しない選択なのだ。

 それが『正解』かどうかは別にして――。


「しっかりしないと……」


 両手でぺちぺちと頬を叩きながら、脱衣所に脱ぎ捨てられたタキシードはビニール袋に押し込んで、かわりに予備の隊服やら下着やら一式を置いた。

 普段からあやかしとやりあうこともあるので、こういった備品は十分に備え付けられている。

 少し落ち着こうとキッチンでお茶をを入れていると、ガチャリとバスルームのドアが開く音がした。長いシャワータイムが終わったらしい。


「隊長、お茶飲みますか~?」


 できるだけのんきな声で尋ねた。


「いや、冷たい水を飲む」


 背後から冷蔵庫を開ける音がした。


「体は冷やさないほうがいいですよ。そのあとでいいから熱いお茶を……」


 六華はそう言いながら振り返る。

 てっきり隊服を着ているものと思ったのだ。

 だがなんと久我大河は上半身裸だった。

 500ミリリットルのペットボトルを開けて、ぐびぐびとあおるようにして飲んでいた。

 水を飲むたびに上下するのどぼとけや、唇の端から零れ落ちる水滴が、シャープな顎のラインから厚い胸筋に落ちるところまで、ばっちり見てしまった。


「ちょっ、なんで服!」


 六華の指摘に、大河は手の甲で口元をぬぐいながらあっけらかんと答えた。


「暑い」

「そっ、そうですか! でも早く着てくださいね!」


 六華は顔を真っ赤にして、また急いで手元の急須に集中した。


(確かに樹だって、お風呂上りはすぐにパジャマ着たがらないもんね……って、大人と子供は違うけど……)


 時計の針は八時半を回っていた。

 六華が朝家を出て七時までに帰らないときは、仕事なのだと彼は理解している。

 本当はいつもすぐに帰って、少しでも早く一緒の時間を過ごしてあげたいが、夜勤もあるのでなかなかままならない。

 樹は今頃お風呂に入れてもらっているだろうか。

 竜宮警備隊に入隊したことに後悔はないが、愛する我が子のことを思うと、六華はつい、この仕事を選んだことを申し訳ないと思ってしまうのである。


「――もう着ました?」

「まだ」

「もうっ、早く!」

「わかったわかった……」


 人の気も知らないで!と怒りたくなるが仕方ない。

 少しあきれたような返事の後、「着たぞ」と少し背後から声がした。

 振り返ると、スラックスの上に白いTシャツを着た大河が立っていた。


(久我大河、着やせするタイプなんだ……)


 Tシャツ一枚でも、隊服をきっちり着込んでいるときとは体の厚みが全然違って見える。


(っていうか、裸を見てしまった……いや二回目だけど……)


 六年前の彼はもう少し体が薄かった。

 あのときだって十分鍛えた体をしていたと思うが、今は実戦用の筋肉だ。その男らしさを脳裏から拭い去るには、少々時間がかかりそうだった。


「おい」


 久我大河が半歩前に出る。

 彼の黒い目がじっと自分を見つめている。

 さっきの茫然自失の時とは違う理性のある目だ。

 だがその黒曜石のような目には、熱のようなものが感じられた。


(ここここ、これはまずい!)


 彼にこんな目で見られては自分の理性が持たない。

 とっさに右手に逃げようとしたが、それよりも早く六華の両サイドに久我大河が手を置いた。しっかりとキッチンの縁をつかんでいる。少々のことではびくともしなさそうだ。


(なぜ?)


 気が付けばキッチンと彼の体に挟まれていた。


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