第22話 俺のものだ


「お前とこういうことをするの、初めてじゃない気がする」


 それは六華にとって衝撃の一言だった。


「えっ?」


 彼と向かい合い、抱き合ったことはもちろん一度だけある。

 六年前のあの夜。六華は彼を愛したが大河にとって自分は名すらもたないひとりの女だったはずだ。


(まさか思い出した?)


 そんなはずはないと思ったが、自分だってささいなことで大河を思い出したのだ。彼がなにかをきっかけに六華に気づかないという理由はない。


(ま、ま、ま、まずい!)


 それだけは絶対にまずい。

 六華は真剣に脳みそをフル回転させるが、動揺が大きすぎるのと、体を寄せ合い、見つめあうこの空間に心臓が持たない。


「どこかで……お前を……」


 大河の目が、食い入るように六華を見つめる。


 六華はとにかくこの目に弱い。

 愛する息子と同じ目をされると、無条件で抱きしめたくなる。


(静まれ私の心臓……!)


 六華は平静を装いつつ、さりげなく視線を進行方向にそらす。


「そんなはずないわ。私たちがダンスを踊ったのは初めてだもの」

「それは、そうなんだが」


 大河はぽつりとつぶやき、それから六華の耳元に顔を近づけた。


「どうも今日は、お前を見ると落ち着かない……」

「っ……」


 ささやきが耳に触れて、六華は飛び上がりそうになる。

 甘くて低い声はそれだけで立派な武器だ。


 驚いて彼の顔を見ると、なぜかふわり、とほほ笑まれてしまった。


「お前はどう思う?」


 彼に他意はなく、口説いているつもりもないのだろう。だが彼には十分な威力がある。


(自分の威力を少しは自覚してほしいんですけどー!)


 六華はふうっと息を吐くと、それから大河を振り仰いだ。


「たぶんね、勘違いよ」

「勘違い?」


 きっぱりと言い切った六華の言葉に、大河はかすかに目を見開く。


「そう。夫婦ごっこしてるから。だから勘違いしたの」


 若干口調が強くなったが仕方ない。

 こんなことで動揺していてはこれから先うまく立ち回れないのだ。

 久我大河にはなにも思い出してほしくないし、これからも上司と部下でいたい。

 樹のことを心から愛しているし、彼にも父親がいるのだと教えてあげたいけれど、それはまだ今、この時じゃないはずだ。


「――なるほど」


 六華の言葉に、意外にもあっさりと大河はうなずいた。


「勘違いか」

「そうそう、勘違い! だから――」


 気にしないでと、六華は言いかけたのだが。

 次の瞬間、目の前が暗くなった。


 一瞬、影が差して、ただ大河の目だけが夜空の星のようにきらりと光って。


(あれ?)


 と思ったら、ゆっくりと大河の長いまつ毛が伏せられ、そのまま唇が重なった。




 ゆっくりと大河の唇が動いて、六華の小さな唇が軽く吸われた。

 しびれるような甘い快感が体全体に広がって、めまいがする。


(キス……?)


 六華は今自分がなにをしているのか、果たしてこれは現実なのか、訳が分からなくなっている。

 相変わらずオーケストラの演奏は続いているし、自分の体は久我大河に導かれるままワルツを踊っている。

 大河はゆっくりと顔を離し、ワルツで少しだけ乱れた六華の前髪を指先で整え、そのままおくれ毛を耳にかけて、どこか楽しげにささやいた。


「俺はドレス姿のお前が見知らぬ男にかまられているのを見てからずっと、すっかりその気になってる」

「そっ……その気っ……?」


 いったいこの男はなにを言っているのだろう。

 顔が熱い。火が出そうだ。

 自分の顔にどんどん熱が集まって、耳まで真っ赤になっていくのがわかる。


「この女は俺のものだと」


 大河は燃え上がる感情を押し殺したような声で、言葉を続ける。


「出会いも最低。お前は俺を嫌ってるし、そもそも俺だってお前のことをよく知らない。なのに独占したいと思っている」


 もう驚きすぎて声も出ない。


「これがごっこ遊びのせいなら、ほどほどにするべきだな」


 そして大河は、何事もなかったかのように真顔に戻り、皇太子夫妻がいる方向を振り返った。


(ちょっとちょっとー!)


 六華は激怒した。

 人をこれだけドキドキさせておいて、キスまでしておいて、それはないのではないか。

 やりたいようにやって若干すっきりした大河を見ると、おいてけぼりにされた感はいなめない。


「あのですね――」


 キスされて舞い上がったことはとりあえず横に置いて、大河に抗議の声を上げようとしたその時。


 ドォォォォォォン!!!!


 下から突き上げるような衝撃が、突如フロア全体を襲ったのだった。


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