第19話 夫婦ごっこ


 一瞬、なにを言われたかわからなかった。

 六華は目の前の男をじっと見上げる。


(隊長と呼ぶなって……どういう意味?)


 美しく整えられた髪が、はらりと額に落ちて、涼しげなつり気味の目のふちは、興奮のせいか、うっすらと赤く染まっていた。

 いや、怒っているというよりも、どこか恥ずかしがっているような気がする。

 そこでようやく六華はひとつの可能性にいきあたった。


「――もしかして」


 六華がぽつりとつぶやくと、大河がビクッと肩をゆらす。

 ビンゴだ。あからさまに動揺している。


「わかりましたよ……わかっちゃいましたよ」


 金脈を掘り当てたような気がして、思わずニヤリと笑ってしまった。完全に悪女の笑みである。


「いや、わからなくていい。言うな」


 大河が苦虫をかみ潰したような表情で、すうっと目をそらす。


「いやいや……」


 そんな態度をとられると逆効果だとわからないのだろうか。

 この人にも案外かわいいところがあるのかもしれない。


 六華はにやつく頬を引き締め、ふうと息を吐くと、相変わらず不機嫌そうな久我大河に、いたわるように呼び掛ける。


「私たち夫婦の設定ですもんね。迫真の演技なのにここで隊長って呼ばれたら、せっかくの演技が台無しですもんね」

「――は?」


 鳩が豆鉄砲を食らったような、という慣用句がぴったりな顔で、大河が目を丸くした。


「ちょっと待て、お前はなにを言っている」


 一瞬で真顔になり、訳知り顔で「うんうんわかりました」とうなずく六華を見下ろす。


「だから、久我さんは貿易商で、私は元貴族の奥様なんですよね。おてんばって設定はいいと思います。さっきは学校で一番のお嬢様だった美馬様をイメージして演技してたんです。でも難しくって。おてんばのほうがぼろが出ないと思います」


 そして六華はあたりをきょろきょろと見まわす。


「あと、人目もあるし、お互いの呼び方も決めたほうがいいですよね」


 さっきのちょっとしたごたごたで、自分たちは少し注目を浴びた。念には念を入れたほうがいいだろう。


「私のことは……ここではリツとでも呼んでください」


 そういって大河を見上げる。


「小学生の時のあだ名なんですよ」


 どこか憮然とした態度だった彼は、そこでようやく「はぁ……そうだな」と、深くため息をつき、


「――リツ」


 とつぶやいた。


 六華が自分をリツと呼んでくれといったことに深い意味はなかった。

 招待状にはふたり分の名前が書いてあったが適当な偽名だ。呼ばれて反応できなかったら意味がないと思っただけ――。

 だが久我大河が自分の名前を呼んでくれたと思うと、ぶっきらぼうな声でも、なぜか少し親しみと優しさを感じて、六華の胸は少しあたたかくなる。


「で、久我さんのことはどう呼んだらいいですか?」


 六華の問いかけに、大河は一瞬考えこんだ。

 眼光が一瞬控えめになり、眉間のしわが浅くなる。


「――リン、と」

「リン?」

「ああ。昔……幼いころにそう呼ばれていた」

「へぇ……」


 久我大河でなぜ『リン』なのか、不思議だ。


 だがあだ名とは自分の名前をもじったものだけでなく、思いもよらないところからつくこともある。きっと久我大河もそうなのだろう。


「わかりました。リン」

「敬語じゃなくていい」

「え、でも……」


 演技とはいえ、いきなり上司相手にため口を使えと言われても戸惑ってしまう。

 すると久我大河はふっと笑って柱から体を起こすと、


「おてんばな奥方に、かしこまった敬語は似合わないだろ?」


 六華の額にかかる前髪を指で取り除き、それから六華の顎先を指でひっかけるようにして持ち上げた。


 その自然な動作に、『女性に慣れているのだろうか』と感じてチクりと胸が痛くなったが、飲み込む。

 そして自分を見つめる大河をまっすぐに見返した。


「――いいか。俺は明見あすみリン。英国帰りの貿易商で、爵位を金で買った男だ。そしてお前は、リツ。結婚一年目。俺に金で買われた九州出身のおてんば姫様だ」

「なるほど……」


 昔からよくある政略結婚といえばそうなのだろう。六華の同級生にもそういう女の子はたくさんいた。


「これは夫婦ごっこだ。だがお前は自然に振舞っていればいい。俺がお前に合わせる」

「はい」


 確かに任務とはいえ、いきなり演技をしろと言われても、六華にはハードルが高い。

 だが大河は別だ。

 扱いにくい部下の六華相手でも、あれほどの情熱的な態度を見せたのだ。

 本当に、一瞬――勘違いしそうになったくらい、久我大河の指先は六華を女にしてしまった。


(夫婦ごっこ、かぁ……)


 正直複雑だが、それ以上にどこか嬉しがっている自分がいることを、六華は否定しなかった。

 大河の目は、まっすぐに六華を見つめている。

 樹と同じ目をしている。本当に美しい漆黒だ。

 世界で一番美しい愛する者の目。


(任務が第一だけど、このひと時くらい内心でそう思ってもバチは当たらない……よね。そう、これは任務のためだし……!)


 六華は自分にそう言い聞かせながら、あごさきを持つ大河の手を引いて、背中へと回す。


「では参りましょうか、旦那様」

「ああ、お手柔らかにたのむ」


 久我大河もにやりと笑って、妻のふりをする六華の体を抱き寄せたのだった。


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