異世界オフィスラブ
あさぎ千夜春
第1話 上司を押し倒しました。
うつむいた《彼》の長いまつ毛を見た時、雷に打たれたような気がした。
「すまない……」
打ちひしがれた、かすれた低い声で《彼》が私に体を預けてきたとき、そのぬくもりにすべてを思い出した。
ああ、そうだった。
私は六年前もこうやって彼を支えたんだ。
『お前みたいな女、大嫌いだ……殺してやりたいよ……』
押し殺した苦しそうな声でそう言われて、彼の言葉に心臓を打ち抜かれたような衝撃は、今でも覚えている。
端整な眉を寄せ、長い指で眉間を押さえる彼の体を抱き留めながら、十八の、恋も知らない少女だった私は、《この男に抱かれたい》と感じていた。
男を知らないくせに、私を憎むこの男に、めちゃくちゃにされたいとまで、思ってしまったのだ。
そして6年の月日が経つ――。
背中の中ほどにまで届くふわふわの赤毛を揺らしながら、ひとりの女がカツカツと足音を響かせ、長い廊下を小走りに進んでいた。
「たいへんっ……このままじゃ遅刻するっ……!」
焦りながらそんなことを口にする、彼女の名前は、
時は
竜の王が治めるこの『日本国』で、国のエリート機関である『竜宮警備隊』に所属し、手に職を持つ職業女性である。
年は二十四歳。体にフィットした、白を基調にしたパンツスーツの隊服と、腰には愛刀・珊瑚さんごをベルトから下げている、すらりとした体躯の女性だ。
柔らかく丸い頬に、ハシバミ色をした目には愛嬌があって、なかなかに人好きのする雰囲気があるのだが、本人は自分の容姿にいたって無頓着、常にすっぴんである。
ちなみに現在進行形で職場に遅刻しそうという、社会人としてあるまじき状況だが、
「この、長すぎる廊下がいけないのよ……なんなの、まったく。掃除するのにどれだけ時間がかかるのか、考えただけで怖いんだけど……!」
自分で掃除もしないくせに、ギリギリなのを廊下のせいにしようとしている。
(新しい上司が挨拶に来るから、遅刻だけは気をつけろって言われてたのに……!)
冗談抜きで、今日遅刻するのは本当にまずい。
同僚たちには、先週から念押しされていたのだ。
『六華、遅刻だけはするなよ』と。
悲しいかな、六華は朝に弱い。今日だって目覚ましを五つもかけていたのに起きられなかった。目覚めたらしっかり者の家族は全員出払い、家は無人だった。
結局、遅刻ギリギリである。
本当なら全速力でダッシュしたいところだが、ここ、竜宮りゅうぐうではむやみやたらに走ることが許されていない。
口うるさい女官にでも見られたら、上司にすぐさま連絡が入り、反省文必須だ。
(新しい上司がどんな人かは知らないけれど、遅刻は印象最悪だ……! それはまずい! 有休を使いづらくなってしまう!)
ちらりと左腕にはめた時計を見ると、時計の針は八時三十分に近づいていた。
(大変、朝礼が始まっちゃう!)
このままでは間に合わない。六華は慌てながら、きょろきょろとあたりを見回した。
ふと、廊下を降りた玉砂利の向こうに松の木が見えた。後ろは白い壁だ。高さはおそらく三メートル近くあるだろう。
六華は脳内で竜宮の地図を開く。
まことしやかに『生きている』とさえ言われている、迷路のような建物だ。尊き竜の帝がお住まいになっていることから、本当に建物が生きていてもおかしくはないかもしれない。
竜宮の中は複雑で、六華自身もこの半年で何度も迷子になりかけた。
(でもあの塀の向こう……乗り越えてしまえばショートカットできるのでは?)
そう思ったら、いても立ってもいられなくなった。
廊下を走るところを見られただけでも反省文だとわかっていながら、「いや、見られなければよくないのでは?」と、六華は自分に言い聞かせる。
ひざ丈のロングブーツを履いたすらりとした足をストレッチで軽く伸ばすと、勢いよく走り出した。
「一歩……!」
廊下の端を蹴って、六華の体がひらりと宙に舞う。
竜宮の庭は、毎朝庭師たちが丹念に履き清め、石や砂利で枯山水を模した美しい庭である。絶対に足跡を残すことはできない。
なので最初の一歩は、山を模した石の上だった。
長い廊下からおそらく三メートルはあっただろう。だが六華はそこに無事、片方の足を下ろすと休む間もなく、
「二歩!」
今度は二メートルほど離れた丸い石に飛び移っていた。
身体能力を増加させる術式を展開することもなく、生身でこれをやりとげるのは驚異的と言ってもいい。
これは六華の特殊能力のひとつだ。このおかげで六華は竜宮で働けているのだが、逆にこんな形で能力を使っているところを見られでもしたら、当然大目玉だ。
だが当の六華は遅刻しないために必死だった。
「よしっ、いけるっ!」
さらに勢いをつけ、塀の間際に生えている松の幹に向かって飛び、軽やかな足さばきで松を駆け上がると、体全身を使いバネのように跳ね、塀を飛び越えていた。
(やったね、ショートカット成功!)
三メートルはある塀の向こうは、六華の脳内地図だと、竜宮警備隊の三番隊詰所の裏手あたりに出るはずだった。
実際、そうだった。
時計の針はまだあと三分残っていて、このまま三番隊詰所に行けば、滑り込みセーフのはずだったのだが――。
落ちていく途中で、ひとりの青年と目が合った。
彼はちょうど六華の着地予定のところに立っていて、きっちりした仕立てのよい黒い三つ揃えのスーツ姿だった。
一服を終えたところなのだろう、手に携帯灰皿を持っている。どこか愁いを帯びた美しい顔だちと、たくましい体がミスマッチで人目を引く。
六華が入隊して半年、見たことがない顔だがこの際そんなことはどうでもいい。
「ちょっ、あぶないっ、どいて、どいてー!」
六華は叫ぶ。
「なっ!?」
その声に、男は仰天して硬直してしまった。それはそうだろう。頭上から人が降ってくるなど誰も思っていない。
六華はぎゅっと目を閉じて、叫んでいた。
「ごめんなさーい!」
「うわああ!」
気が付けば、六華は男を下敷きにしてしまっていた。
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