九、
「今日はみんなで海に行こうね」
ある夏の日、朝食を食べている時に、専業主婦の母が言った。
「うん!」
私は思いがけない誘いに元気よく返事をして、小学生にしては大人っぽすぎるワンピースを着てむぎわら帽子をかぶり、父はいつも休みの日ぐらい休ませろといったタイプの人なのに、その日はいつもと違って、
「今日はお父さんといっぱい泳ごうな」
と頭を撫でてくれた。三人で父が運転する車に乗り込み、三人で当時流行っていた夏ソングを大声で歌いながら、海へと向かった。海は砂浜が人で見えないぐらいの人で溢れていた。私は母と迷子にならないように手を繋ぎ、父は場所取りをするためにあちこちを見渡していた。
「あそこだ!」
父は一目散に走り、ほんの少し空いていたスペースにレジャーシートを敷いた。私と母はあまりに必死な父を見て大笑いした。父は、
「父さん、なかなかやるだろ?」
と得意げな顔をしていたので、母が、
「よっ、うちのお父さんは日本一!」
と言ったので、私も、
「お父さん日本一!」
と続けた。父は得意げな顔をしていたくせに、顔を赤らめていた。ごまかすかのように、
「さあ、泳ぐぞ。順番に着替えに行こう」
と言ったので、順番に着替えに行くことになった。まずは私と母から。
「あんなお父さん見たことないね」
「お父さん、初めての家族サービスだから、張り切ってるんじゃないかしら」
ふふっと母は微笑んだ。私たちが着替え終わって陣取った場所に戻ると、次は父が着替えに行ったのだが、とてつもない速さで帰ってきた。私と母はまた目を合わせてクスリと笑った。
「海だー。行くぞー。お父さんと泳ごう!」
「わーい!泳ぐ泳ぐー」
「お母さんはここで見てるわね」
「よし、行くぞ。浮き輪を手放すなよ」
「はーい」
私は父に手を引かれ、海へと向かった。浮き輪を持つのが煩わしかったので、もう海に入る前から頭からすっぽりかぶり、手で持ち上げながら歩いた。海まで辿り着くと、父が海水を私にかけてくる。私も負けじと父にかけ返す。私たちはキャッキャと言いながら海に入って行った。父が、小さい私の足が届かない所まで浮き輪を引っ張って行ってくれる。少し深いところで、私がバタ足をすると、父はそれに合わせて泳いでくれた。
「どうだ、楽しいか」
「うん、とっても楽しいよ」
本当に楽しかった。父は仕事がとても忙しく、休みの日でも会社からの電話がかかってきて、仕事に行かなければならなくなった。という感じだったので、家族旅行にも行ったことがなかったし、友達の家みたいに家族で遊園地に行くといったことも経験がなかったので、今回の海が初めての家族での外出だったのだ。私は父の仕事の関係上このような経験はできないと思っていたので、朝の母の発言にはとても驚いたが、初めて心が躍るという言葉の意味が分かった気がした。かなり長い時間泳いだだろうか。
「そろそろお母さんの所へ戻ろうか」
「うん、私お腹空いた」
「今日はお母さんのスペシャル弁当だぞ」
「本当?」
「あぁ。めちゃくちゃ早く起きて頑張ってたからな」
「そうなんだね。楽しみだな」
私たちは海から出て母の元へと向かう。母はすごい人混みなのに、私たちが泳いでいるところを双眼鏡で見ていたらしく、
「とても楽しそうだったわね」
と笑顔で言ってくれた。そして、母はカバンからお弁当箱を三つ取り出し、スペシャル弁当だと言った。蓋を開けると、もうよだれがこぼれ落ちそうなぐらい私の大好物ばかり入っていた。
「どう?お母さんのスペシャル弁当!」
「とっても嬉しいし、とっても美味しい!」
「おぉ、これはお世辞抜きに美味いな」
私も父も大絶賛だった。お昼ご飯を食べ終わり、三人でレジャーシートに寝転んで、しょうもない話で盛り上がった。そんな楽しい時間を過ごしながら体をこんがり焼き、だいぶ夕方になってきたので、帰ることになった。
「今日は本当にありがとう。私、とっても楽しかった。今日の事は一生忘れないよ」
「そうか。それは良かった。いつも寂しい思いをさせてごめんよ」
父は涙ぐみながらそう言った。
「またみんなで来れるといいね」
「うん!」
母も涙ぐんでいた。私は帰りの車で、疲れ切って眠ってしまった。
これがまさか両親との最後の言葉だとは思わずに。
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