美味しく食べるも、傷ませるも

水瀬 彗

美味しく食べるも、傷ませるも

今日のわたしのお弁当箱は小さい。


「それだけでいいの?」

学校で食べるお弁当よりも塾で食べるお弁当のほうが小さくて、そしてその中でも国語の授業の日に食べるお弁当がいちばん小さい。普段は2つ重ねのお弁当箱も塾に来る日は半分になるし、その半分になった1段のお弁当の中身も、今日は半分をフルーツで埋めるようにお母さんに作ってもらった。残りの半分は、小さく丸めて作ったおにぎりと、隙間を埋めるための唐揚げとウインナーが占めている。たったそれだけ。

「あんまり食べないんです。夜は特に」

「そっか。先生、高校生の時は昼ごはんとして2段弁当と菓子パン食べても足りないこととかあったなぁ。部活でサッカーやってたし、それで放課後にまたみんなでコンビニ寄ってパンとかおにぎり買い食いしたりして。夜もがっつり食べてたのに、よく太らなかったなって我ながら思う」


嘘。こんな小さいお弁当じゃ足りない。本当は700kcalくらいある焼き肉弁当くらいなら余裕で食べられてしまいそうなほどにわたしのお腹は空いている。

でも先生はきっと、前の席に座っている春香ちゃんみたいに小柄で細い細い女の子が好きだ。

春香ちゃんが関係しているかどうかは別にしても、先生が目の前にいたらなにを食べたって味がしない。それに、食べるなんていう人間の本能的な部分を見られてしまうこと自体が恥ずかしくて、だから今日もわたしは小さいお弁当をゆっくりゆっくり、女の子らしく見えるように胃の中へと溜めていく。

すると先生はふっと立ち上がって前の席の方へと一歩体をやった。


「春香ちゃん、それどこで買ったの? コンビニ?」

「このジュースですか? コンビニですよ。期間限定だから買っちゃいました」

「美味しそう。先生もあとで買いにいこうかな」

塾は個別指導だから、一人一人の机と机の間には壁がある。もしもその壁が透明だったなら、わたしの目には常に春香ちゃんの華奢な背中が写っているし、ついでに彼女の隣で綺麗に笑う好きなひとの姿だって飛び込んでくることになる。自分以外の女の子と楽しそうに話している片恋相手を眺めることができるほど、高校1年生の心は強くはない。

見えない彼の笑顔を頭の中で再生させながら、うらやましいな、という気持ちがわたしの小さい恋心を支配して締め付けた。たったのジュース1本で先生の気を引いてしまうんだもの。

先生はコンビニでそのジュースとやらを手にとっては春香ちゃんのことを思い出し、レジに持っていってはまた思い出し、ストローをさした瞬間にも、そのジュースを度に流している間も、味を認識した後も春香ちゃんのことを思い出すのだろう。


格好つけて買ったおしゃれなカフェのタンブラーに入った、たいしておしゃれでもない麦茶を飲もうとしていたところへ、急に先生がわたしの隣へと帰ってきた。

「栞ちゃん、フルーツ好き?」

「えっ、好きです。苺が、いちばん好きで……」

自分のお弁当箱に目をやると、苺なんて一粒も入っていない。季節じゃないからといえばそこまでではあるけれど、入っているのは柿に梨に葡萄、いわゆる秋の旬のものばかりだった。

「苺を選ぶあたりかわいいな、確かに似合う」

かわいいという言葉と、自分の好きな苺が似合う女の子であるという印象が嬉しくて反射的に血の色に染まる耳に、そっと横髪をかぶせて隠した。

話題が変わる前に、彼が他の生徒の隣にいってしまう前に、もつれそうになる舌を動かす。

「先生は何が好きですか? フルーツ」

「先生はね、桃が好きかな」

鼻先をくすぐるように桃の香りが膜になってわたしの鼻を覆った。わたしの好きなフルーツが桃ではなかったことへの少しの後悔と、彼のことを少しでも知れた事実に対する嬉しさは混ざって、さらに食欲を失せさせた。桃なんて剥いたらすぐに色が変わってしまうからお弁当に入れてもらうことなんてできない。

次の国語の授業の日には、お弁当の代わりに桃ゼリーを買って食べよう。


「桃って、いい匂いしますよね。みずみずしいかんじの匂い」

桃か苺か、二つの味で悩むことがこれからあるとすれば、わたしはもう後者を選ぶことはないかもしれない。もしかしたらボディミストやハンドクリームを買うときだって、迷わずピーチフレーバーとかかれたものを手に取るのかもしれない。もちろん桃の香りに溢れているだけの女の子が先生の好みだなんて、そんな安直なことを考えているわけではないけれど。

春香ちゃんが桃の香りと弾ける笑顔を振りまいてここに来てしまったりなんかして、そうして滴るほどのみずみずしさに彼が惹かれてどこかへ行ってしまうようなことがあったらどうしよう、なんてことまで考えてしまった。こんなにも単純なわたしと違って彼女はきっと自分を引き出す方法を知っている。

じゅわりと内側からにじみでる色気だって、つるりとした清潔そうな見た目だって、わたしには欠片もない。一周まわって先生が好きな桃のことを嫌いになってしまいそうになる。


「かたいのと柔らかいの、どっちが好きですか?」

「柔らかいののほうがいいな。でろでろにくずれちゃうのも嫌だけど、ほどほどに柔らかさがあるほうが美味しい気がする」

わたしが美味しい桃になっても、先生が気付いて買ってくれないとわたしはでろでろにくずれて処分されてしまうんですよ。そんな言葉は飲み込んで、笑顔で頷くことで返事をした。

「もう、季節終わっちゃいましたね。残念です」

もっと食べたかったなぁと寂しそうに笑う先生の目は心なしか前の座席の方に向いているように思えた。

受験生になるまでに春香ちゃんが塾を辞めるようなことがあっても、わたしはずっとここにいる。だから来年の夏もその次の夏も、わたしの隣に座り続けていてほしい。これからやってくる2度の夏が終わるまでに、わたしは桃みたいな女の子になれるのだろうか。


「そういえば、こんなこと女の子にいったら失礼になるかもしれないけど。栞ちゃん最近痩せた?」

「少しだけですけど……。痩せたように見えますか」

「うん。顔とか、前より大人っぽくなった気がする」

自分の努力が好きな相手に伝わるというのがこんなにも幸せなことだとは思っていなかった。

「もともと、オレンジとか明るいピンク色みたいな子だなって思ってたんだけど、最近薄ピンクっぽくなった。それこそ桃色みたいな」

高校を卒業して、大学生になってもきっとわたしの気持ちを先生に伝えることはない。自らタブーを犯してまで彼との綺麗な思い出を黒く塗りつぶしたりするのは、あまりにも粗末で下品だ。いまのわたしにできることは、先生の結果になることだけ。いい成績をとって、いい大学に入って、忘れられないひとりの生徒になることだけ。

そんなことはわかっているけれど、ただ、あるかないかの可能性を信じて、いまはまだ聞けない疑問がたったひとつ自分の心の中に残っているのを感じた。


桃みたいな女の子になれたら、わたしのことを好きになってくれますか?


このひとに桃だと思ってもらえるための努力を辞めることは絶対にしたくない。わたしの口から好きの す の字も言えなかったとしても、彼の好きな桃に近い女の子として記憶に焼き付けつづけられていたら、わたしの恋は実ったようなものだ。

「ありがとうございます。じゃあ、今度は柔らかい女の子になれるようにがんばりますね」

授業が終わったら近くのドラッグストアに寄って、桃の香りのボディクリームを買おう。髪のトリートメントも桃に近い香りのものに変えよう。またいつか「柔らかい女の子になったね」とこのひとに言ってもらえるように。


「女の子磨きもいいけど、国語の勉強も頑張ってね」

「もちろんです」

次の試験では春香ちゃんよりもずっといい点数をとって先生にみせたい。単純だと思われても、そんなかたちでしか彼の目に映れないわたしに免じて許してほしい。色っぽさも清純っぽさも賢さも手に入れて、処分なんて誰にもさせないような女の子になれば、そこには桃の実がまるくみずみずしく生っているはずだ。

先生、といつもより小さい声で呼ぶと、目線が一直線上に交わる。

「期待しててくださいね」

わたしの桃色に染まった頬と笑顔を彼が捉えたかどうか、というところで次の授業の開始を知らせるチャイムが鳴った。

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