短いの詰め合わせ

@myuto

【お題】「透明」「どうしても消せないもの」

 硝子の向こうを小さな滴が伝って落ちた。幾重にも重なり透明な板を濡らすそれは風に煽られ窓を打ちつけ、彼女の心もどんよりと曇らせている。はぁ、と溜息を吐けば硝子は白く曇ったが、すぐに解けて消えてまた雨に滲んだ夜景をその奥に見せていた。

 この街とも今夜でお別れだ。がらんとした部屋にはほとんど荷物は残っておらず、隙間だらけになった家具はちょうど彼女の心のようにも見えた。それさえも明日になれば引っ越しのトラックに積み込まれ、余所の街へと運ばれていく。この部屋には何も残らない。想いも、きっと記憶でさえも。

 この決断をするまでに随分かかった。ここに至るまでの彼女の心情は嵐の如く荒れ、揺らぎ、その度に涙が頬を濡らした。嵐が過ぎ去り目の前の光景とやっと向き合えた時には彼女はすっかり疲れ切っていた。いくつもの手続きをなんとか終えて部屋を片付けはじめる頃にはすっかり涙も出なくなっていた。それで良いのだと思っていた。

 思い出のあるものは全て捨てて行きたかったけれど、家具も食器も服も、部屋にある全てに思い出があったからさすがに全部捨てるわけにはいかなかった。誕生日にプレゼントされたネックレス、遊園地で撮った写真を飾るフォトフレーム、お揃いのキーホルダー。この辺りはもう捨てても良いだろうとゴミ袋にまとめて突っ込んだ。その時でさえ、涙は出なかった。

 だからこの部屋で過ごす最後の夜を迎えても、今更涙が出るとは思っていなかった。胸の奥を鈍く蝕む痛みにももう慣れていたし、瞳の奥が潤む気配も無かった。それなのに。

「……泣いてるみたい」

 思わず呟いた声はひどくしわがれていた。身体も心もすっかり乾ききって萎びているのに、窓に映る彼女の姿は硝子を伝う雨粒と重なってまるで泣いているように見えた。それは滑稽で、馬鹿馬鹿しくて、心の底からくだらないと笑い飛ばしてしまいたいのに、何故か彼女は笑えなかった。

「今日が人生最後の日だったらなぁ……」

 代わりにそんなことを呟いて、また溜息を吐く。硝子が僅かに曇り、一瞬だけ涙に濡れた女の顔を隠したけれど、すぐに白は解けて女の顔が戻ってくる。

 明日は朝早くに引っ越しのトラックがやってくる。そして荷物を詰めたらもうこの部屋とはお別れだ。ここには何も残らない。この部屋のもう一人の住人は今朝早くに出て行った。彼女と同じように自分の荷物を詰め、別れの言葉もほどほどに。

 彼女は深く重く、何度目ともわからぬ溜息を吐いた。全ては過ぎ去り、もうここに留まる意味もしがみ付く理由もないというのにこの惜寂は何だろう。吐息は何度でも硝子を曇らせたが、そこに浮かぶ女の涙顔は消せなかった。

 彼女はふっと短く息を吐くと、女の顔が白く曇った硝子の奥から現れるより早くカーテンを閉めた。

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