第3話 火の用心のおまじない

 夕暮れ時、普通にお茶をしにきた客が店を出てゆき店内がガランとした時だった。窓辺で夕陽に染まる公園を眺めていたモリーがひと声鳴いてトンと床に降り、入口の扉の前まで歩いて座り込んだ。


「あら? モリーのお客様?」


 洗い物をしていた美波は急いで濡れた手をタオルで拭き、カウンターを回り込んで入口のガラス戸を覗き見た。そこには1匹の三毛猫が行儀よく座り、美波が扉を開けるのを待っていた。


「あら、ご近所のイチカちゃん。ちょっと待ってね」


 イチカと呼ばれた三毛猫は、ニャウと小さく鳴いて返事をした。


「どうかしたの?」


 扉を開けてイチカを店内に招き入れると、イチカはカウンターのスツールの上に飛び乗った。その隣の席にモリーとトンと飛び乗る。

 明らかにオヤツの催促ポーズだった。


「待ってて」


 美波は小皿を2枚取り出し、そこにチュールをのせて2匹の前に差し出した。


「召し上がれ」


 ニャアと返事をしてから2匹は夢中でチュールを舐めはじめた。そんな2匹の様子を美波は楽しそうに見つめていた。

 やがてオヤツが終わり満足したのか、イチカは小声でミャウミャウと話しはじめた。


「火事が続いてるから見回りに来てくれたの? ありがとう」


 イチカの話を聞いた美波は、情報のお礼とばかりにあごの下をひとしきり撫でて、イチカをご満悦の状態にして送り出した。

 昔から幸せに暮らしている三毛猫は防火の能力があると言い伝えられている。イチカは店の近所に住む老夫婦が長く一緒に暮らしている猫で、とても可愛いがられている子だった。


「そんなに火事が続いていたなんて……放火かしら?」


 美波の質問にモリーは小首を傾げた。


「そうね。嫌な感じはするよね……」


 美波はこの店の2階に住んでいるから、店が放火されたら命にかかわる問題になる。もちろん、住んでいなくても、放火されたら一大事なのだが……。


「ちょうどいい季節だし、防火のまじないをしておこうかな」


 美波は店の扉にクローズドの看板をかけてから鍵をかけ、近所の花屋に出かけた。


「いらっしゃい。あれ、美波ちゃん。お店はどうしたの?」


 近所付き合いのある花屋は、40代後半のきっぷの良い快活な女性だった。


「お店に急にお花を飾りたくなっちゃって。プリムローズは入荷してます?」


「鉢植えでよければ、ちょうど早咲きのが入ったばかりよ」


「入口に飾りたいのでちょうどいいです。ひと鉢ください」


「まいど」


 一見するとサクラソウに似た、レモンイエローの可愛らしい小さな花をたくさんつけた鉢植えを花屋から受け取った美波は、その咲き具合に満足したように頷き、料金を払って店を出た。


「早く戻らないと道草食ってたって、ミス・モリーに怒られちゃう」


 カフェに戻った美波はクローズドの看板を下げて店内に入り、入口すぐ脇の棚にプリムローズの鉢植えを飾った。


「外じゃないから効果が薄いかもしれないけど、嫌な来訪者を阻害する力を発揮して欲しいの。軒先に出しておくのは忍びないからよろしくね」


 美波はプリムローズにそう話しかけてから、カウンターの奥に入り、たくさんの引き出しのついた棚に向かった。


「あと、なにを仕込もうかな……」


 美波は下唇に人差し指を軽く当てながら、チラチラと引き出しの前に貼られた小さなラベルに目を走らせてゆく。書かれている文字はすべてラテン語なので、なにが書いてあるのか普通の人には読むことは難しい。


「防火ね……。カラマツの木片はすでにまいてあるし……。ミッドサマー・イヴに採取したセントジョーンズワートはまだ残っていたかな?」


 美波は引き出しのひとつを開けて中身を確認した。中にはミッドサマー(ここでは夏至)の前日夜に採取したセントジョーンズワートを乾燥させた物が入っている。

 それをいくつか取り出してふたつの束に分け、ひとつはガラス瓶に入れて封をする。もうひと束は取手のある鉄鍋に入れて火をつけた。

 美波はそれを持って店と自宅の部屋中を回り、煙をすべての居住空間に振りまいてゆく。

 これらはすべて火事を防ぐことが出来ると伝えられるまじないだった。

 ただ、これらはあくまでも補助的な防火のまじないであり、放火など能動的な悪意に対しての効果はあまり発揮出来ない。

 美波は少し考えてから、ドライフラワー化したケンタウリウム(ベニバナセンブリ)の束を赤いリボンで縛り、店の天井から吊るした。これは悪意あるものや魔術的なものから守ってくれると伝えられているものだった。


「外のハーブにも水をあげてあるし、問題ないかな?」


 店の前に並べられたプランターには、アイブライト、マロウ、マグワート、セントジョーンズワートなどのハーブが植えられており、青々とした小さな葉を広げていた。

 これらはすべて家を守ると言い伝えられている草花だった。


「あとは、お巡りさんがちゃんと巡回してくれていれば問題なしっと」


 美波が店を見回してパンパンと手についた汚れを払った時、店の扉が開かれて制服を着たお巡りさんが顔を見せた。


「最近、この辺で火事が多いので、火の元に注意してください」


「はーい」


 言ってるそばから現れた警官を見て微笑んだ美波は、元気のいい返事をして敬礼して見せた。

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