第4話 ネイル-03 『傾いた船室』
――変な奴だ。
それがその女を見たネイルの、第一印象だった。
どんな物を人間はありがたがり、ときには命さえ投げ出すのか。ある程度は知っている。女が着ているのは、そんな物の範疇に入る高級な布だ。
しかしそれ以外に、仲間が見当たらない。きらきら光る装飾品や、鼻の曲がる香料の臭いがなかった。
ただネイルに、その辺りへの興味は薄い。これまでの経験則から、変わっているという感想を得ただけだ。
おかしなことをする奴は、おかしな格好をしている。にやと笑いはしたが、それ以上ではない。
どんなものか見てやろうと思った表情も、ぼんやりどこに向いているのかという風でつまらない。その辺りの興味を失えば、人間に思うことは限られた。
だが女の発する体臭は、発情のそれを感じさせない。最初に子どもかと思ったのも、その為だ。
特に見境なしの小鬼たちでさえ、初潮を迎えていない女には意欲を示さなかった。となるとこの女は、食料に分類される。
「バドウ……?」
女の薄い唇が動いた。誰かの名だろうか。
それはどうでも良いが、やはり先ほどの声だ。
「あいにくとオレは、そんな名じゃねえな」
「あら――」
互いに話すのは、
――しかしこの女。
たったそれだけの会話だったが、気付く。
外も夜とはいえ、一つも明かりのない船室よりは明るかろう。それにネイルの目が、青白く光っている筈。なのに女は未だ、顔をどこへ向けたものか落ち着かずにいる。
「お前、目が見えねえのか」
「え。ええ、ごめんなさい。あなたがどこに居るのか、はっきりしなくて。普段は声の方向で分かるのだけど、ここは波の音が大きくて難しいわ」
なるほどそのせいか。姿が見えずともネイルの低く唸るような声は、それだけで人間を怯えさせる。
だのに女には、その様子がなかった。雷轟にも似た声質が、波音に紛れているらしい。
「あの――わたしはフレド侯爵が娘、クレアと申します。きっとこの船は海賊に襲われたのですが、今はどうなっているのでしょう。しばらく誰の声もしなくて、心細く思っていたのです」
夏の盛りを過ぎ、急激に気温の下がった海風。しかしスカートを握る手が震えているのは、そのせいだけではなさそうだ。
一人でどうして良いものやら、不安に陥っているのだろう。
それならさっきの妙な独り言も、分からなくはない。虚勢を張る為に大声を出したりする人間は、たくさん見てきた。
「さあ知らねえな。この船は浅瀬に打ち上げられてんだよ」
「そうなのですね。それではあなたは、土地の方でしょうか」
「間違っちゃいねえが――オレは仲間と、この船の荷を奪いに来たんだ」
今度はさすがに驚いたようだ。「まあ」とひと言漏らして、言葉を失ってしまった。
さてどうするか。処断は、いくつか考えられる。
一つ。このままネイルが喰らうこと。
二つ。獲物のひとつとして、棲み処に持ち帰ること。
三つ。この場に来ている、人間の味を好む仲間に与えること。
かつてネイルも、人間を食ったことがある。だが食いでがなく、脂身の臭さに辟易した。
持ち帰るなら、殺して血抜きをするのが良い。けれどもいつ余所の集団が来るかもしれず、その猶予がない。
「面倒くせえ、食わしちまうか」
「食わす?」
その言葉が自身を対象にしているとは思うまい。首を傾げたクレアは何を思ったか、両手で探るように室内をうろうろし始める。
「何をしてる」
「申しわけありません。この部屋には、たしか水差しくらいしかない筈で。それでも何かないかと探しております」
「何か?」
「お腹が空いていらっしゃるのでは?」
目の前に居るのが、人間とは相容れぬ鬼人だとようやく気付いたのだろうか。自分の代わりに差し出す食料を探そうと。
いやそれにしては、やはり慌てた様子がないけれども。
「オレが言ったのはお前のことだ。オレは食わねえが、仲間は人間を食う」
「わたしを――?」
おそるおそるながらも、動き続けていたクレアが止まる。屈めていた上体を起こし、こちらへ向き直った。
それからたっぷり、三十を数えるほども黙り込む。
いや、いくつか呟いた。「お父さま」とか「バドウ」とか。己が食われようとするときに、神や近しい者を呼ぶ人間は珍しくない。
思ったより普通だったな。と、呆れの息を吐くと同時に、右手を振りかぶる――が。突き出す前にクレアの声がそれを止めた。
「わたしで良いのですか。それなら良かった」
「――ああ?」
「わたしがどなたかの役に立てるというなら、願ってもないことです」
何を言っているのか、理解できない。もちろん言葉の意味は分かるのに、だ。
「役に立つ? 何を勘違いしてるのか知らねえが、お前を食うと言ってるんだ」
「はい。それであなたの空腹が満たされるのでしょう?」
食うのはネイルでない。しかしそこは、さしたる誤りではなかろう。自分が食料とみなされたのは、理解しているのだ。
この島に限った話ではあるが、ネイルも様々な人間を見た。人間が人間を奴隷にしているのも。
そんな奴らがいざ死を前にすると、偉そうにしているほうは奴隷を盾にした。自分に幸福など何もないという顔をした奴隷も、主人に助けを求める。
それをクレアは、さあどうぞと言わんばかりに両腕を広げて待つ。袖先に見える彼女の青白い手は、もう震えていない。
白く濁った目も見開かれ、ネイルとは微妙に違ったほうを見つめた。
「ギィーッ! ギィーッ!」
――来やがったか。
小鬼たちの発する、警戒の声。十中八九は敵襲だろうが、まだ確信でない。
しかしクレアから目を離し、陸を眺めるころには確定した。「来た! 敵!」と、至極シンプルに。
「何か――?」
どう聞いても緊急の叫びと声。クレアも戸惑うように、顔を左右させた。だがそれに構う暇も理由もない。
船の外板を、強く三度叩く。あらかじめ決めていた、撤収の合図だ。
それはいかに屈強であろうとも、人間では出し得ない衝撃と音量。クレアもびくっと肩を竦める。
――ちょっと触ったら折れちまいそうだな。
そんなクレアをどうやって運ぶか。
扱いを決めかねたが、そう思う時点で決まっていたのかもしれない。
運ぶ方法の答えは、彼女の足元にあった。身に巻きつけていたのだろう、分厚い毛布。
「声を上げたら、舌を食うぞ」
ネイルはそれを摘み、一本の巻物を拵えると、軽々と肩に乗せた。
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