赤き鬼人と笑わざる乙女の青
須能 雪羽
第一章:交叉する島
第1話 クレア‐01 『笑わない娘』
大陸の東に、果てなどないような海が広がる。夕刻の近付いた水面はその青さを濃くして、走る風が船の帆を力強く張った。
そんな光景を、クレアは見ることが出来ない。上甲板へ立っているのにだ。
彼女は生まれつき、目が見えなかった。来年には二十歳になるが、ずっと。
自身の纏う、絹製の真っ白な外出着でさえ、どんな形だか知らない。白というのが、どんな色なのかも。
ひだのない長いスカートが、風をはらむ。それと長い金髪とを、同時に手で押さえた。
「……全て心得たと返事を」
執事のバドウは誰かと話している。手を引いてもらわねば動けないクレアは、じっとしているしかなかった。
――バドウが何も言わないのだから、一人で居ても大丈夫ってことだもの。平気よ、平気。
「かしこまりました。もうすぐ潮流が難しくなりますので、ご注意を」
「知っているに決まってるだろう」
へへっ。と意味ありげに笑って、執事と話していた男は去った。結んでいたロープを伝い、乗ってきた快速挺に戻ったのだ。
バドウは乱れてもいない燕尾服の裾を整え、油で撫でつけた藍の髪を直し、仕える娘に振り返った。
もちろんクレアに、それらは何も見えていないが。
「お嬢さま。そのように風に向かわれては、肌を痛めます」
「そうなのね、でも気持ちいいの。
「柔らかい、ですか。そのように感じたことはありませんが、そうかもしれません」
バドウがクレアと話すとき、他に対してよりもゆっくりと喋る。視線の向き、表情、唇の動きを見られない彼女の為だ。
それは彼の配慮で、優しいと思う。できればもっと優しげに、笑みでも交えながら言ってほしいものだが。
しかしそこまで言っては高望みだ。バドウは十分以上に尽くしてくれるし、笑ってもらってもその顔は見えない。
――笑う。って、どんな顔なのかしら。人の顔って、どんな形をしているのかしら。
「さ、そろそろ日が落ちます。ここから先は波が荒れますし、船室へお戻りを」
「ねえバドウ。あなたはいま、笑ってる?」
「笑う? いえ今は、お嬢さまのお身体を思って、私なりの真面目な表情をしていると思いますが」
脈絡のない唐突な質問だ。それは分かっている。けれども彼はそんな我がままに、いつも必ず答えてくれた。
「笑ったことは、ある?」
「――もちろんです。最近いつだったかと問われれば、少々記憶を探らねばなりませんが。何かご懸念でも?」
バドウと話すと、安心する。
包み込むような話し方、ということはない。それは八年も前に亡くなった、母がそうだった。
彼は何というか、揺るがない。物ごとをよく知っているのだろう。父と話すのを聞いてもそうだ。
どんな問い、どんな頼みも「かしこまりました」と即答し、応じる。
「わたし、笑ったことがないもの。笑顔って、どう作るのか知らない。どんなものが笑顔なのかも」
いつも同じ表情で、笑うことも泣くこともない。クレアは陰で、そう呼ばれている。いやさ面と向かって言う者も、少なくはない。
「なるほど、不安なのですね。私の言では保証にもなりませんが、男爵家は穏やかな方ばかりですよ」
「保証にならないなんて、そんなこと」
目の見えないクレアを、どうしてもと。男爵家が婚姻を求めてきた。そう聞いたのは、五日前のことだ。
すぐに出発の準備を整え、二日後にはこの船に乗っていた。
「では信じてください。男爵家にどう思われるかなど、無用の心配です」
彼が力強く言うと、それはもうこの世の理であるかにさえ思えた。そうと決まって、動くことはないのだと。
「分かったわ、いつもありがとう。この旅の間、あなたを独り占めできるのが嬉しいわ」
「侯爵閣下から、くれぐれもと言い付かっておりますので」
父の身の回りを世話する、複数の執事の一人。バドウは、いつでもクレアの傍へ居るわけでない。
だが普段から、彼女専属の使用人も居なかった。それを合間をみて、世話してくれるのが彼だ。着替えも、風呂も、用を足すのも。バドウが最も多く手伝ってくれた。
そんな彼が、もう三日も付きっきりで居てくれる。それだけでも素晴らしい結婚祝いだと、クレアは贅沢を満喫しているところだ。
「それだけ?」
「それだけ、と仰いますと?」
「お父さまに言われたから、だけとは思えないわ。あなたはとても、優しいもの」
「優しい。私が、ですか」
数拍の間があって、バドウは堪えるように笑った。声を抑え、くくっと。
「あ、いや。申しわけありません」
「申しわけなくなんかない。あなたの笑った声を、初めて聞いたもの。もっと聞きたいくらい」
――そうよ、遠慮をせずに大きな声で笑ってほしい。
しかし何を思っているのか、バドウは少しの間、答えない。我がままが過ぎただろうかと、クレアは不安に思った。
「そうですね、何もなく笑えと仰られても困りますが。なぜ私がここに居るのかくらいは、お話しできます。お嬢さまの門出にお祝いと申しては、甚だ場違いでしょうけれども」
それは普段、父と話すときの声だと思った。クレアには難しくて分からない、政治向きの話をよく相談されていた。
「そんなことを教えてくれるの? ええ、嬉しい。ぜひ聞きたいわ」
「選んだのです。どの家にお仕えするか、私は選ぶことが出来た。どの分野においても、私が最上ということはありません。しかし誰よりも多くのことを学ぼうと努めました」
さもありなん。バドウのように優秀な執事ならば、他のどの家に行っても通じるだろう。他を知らないながらも、そうと信じられる。
「あなたでも最上にはなれなかったの?」
「もちろんです。アーにはアーの得意な者。エーにはエーに適した者が居ります。私はその次かそのまた次くらいを、どうにか歩いてきただけです」
脚をふらつかせながらですよ、と。話しながら船室へ向かう。言われた通り、船が少し揺れ始めた気がする。
「そういう平凡な私がやるべきは、私に向いた
「間違いなく選んだら、わたしのお世話をすることに?」
それならば嬉しい。そうだと言ってほしい。クレアのささやかな願いは、すぐに現実となった。
「そうなります。私にとって生きることとは、誤りなく選ぶこと。その目の前に、お嬢さまはいらっしゃる」
「良かったわ。それが間違いじゃなかったってこれからも言ってもらえるように、わたし頑張るわ」
船室に造り付けられたベッドへ、クレアは座らせてもらう。この部屋の中ならば、水差しを取ることも寝転ぶことも、何とか一人で出来る。
「ではしばらく、ここでおくつろぎください」
「ええ。バドウは何か用事があるの?」
「そうなのです。先ほど連絡員が来た件で」
やれやれと、困った風にため息が吐かれる。彼の手が、こめかみに添えられる気配があった。
しかしクレアは知っている。その素振りは振りだけで、本当には困っていないときだ。
それではと退室したバドウは、船が大きく揺れ始めても帰ってこなかった。夕食の頃合いを大幅に過ぎてもだ。
「バドウ、そんなに難しいことになっているのかしら」
帆船で移動中さえ追いかけて、用事を言いつけられる。それは彼の優秀さを物語るが、大変だなとも思う。
どれだけ思いやっても、その苦労をどうもしてやれない自分が、腹立たしくもあった。
「いいわ。戻ったら『おつかれさま』って、たくさん言ってあげよう」
そう決めた直後。クレアはベッドから投げ出された。部屋の中ほどへ、べしゃりと落ちて、激痛が走る。
「どうっ……!?」
声を出そうとしたところでもう一度、衝撃があった。最初ほどではないが、舌を噛みそうになる。
船に乗るのはこの旅が初めてだが、これまでの揺れとは明らかに違う。嵐にでも遭ったのだろうか。下手に身体を起こせば、また揺れて怪我をするかもしれない。床に這いつくばったまま、しばらく耐える。
だがそれほど大きな衝撃は、もうなかった。代わりに頭上から、叫び声が聞こえる。微かに聞こえるのは「奪え」「殺せ」などと、穏やかならぬ言葉。
「海賊だわ……」
高ぶる鼓動を深呼吸で鎮め、クレアはベッドに向かって這う。辿り着くとそこに肘を乗せ、両手を組んだ。
バドウが無事に戻ること。それだけを神に祈り始める。
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