三周目の猫
安藤 政
三周目の猫 1
「お主、我の下僕となれ。」
初めて聞いた猫の言葉がそれだった。
***
冷たい風が吹き始めた日曜日。犬養は実家に来ていた。
特に用事もなく、また予定もなく、そして妻も子供も居らず、暇を実家で潰していた。
縁側に自分で買ってきたビールとつまみを置き、そこから見える雲の多い空を見つめるわけでもなく、ただ、眺めていた。
二時間ほど前にお昼に呼ばれて、近くに住む両親を訪ねた。その後、二人とも用事があり、こうして犬養は一人で酒を片手に自堕落な暇を満喫していた。
実家では猫を飼っていた。名前はたま。平仮名で、たま、だそうだ。
彼はとても気まぐれ、というよりは家に帰らないことが多く、犬養も滅多に会わなかった。猫は犬養が家を出てから飼われたのだった。
ごく稀に遭遇しても、餌をおねだりするばかり。彼と犬養の関係は単なる顔見知り以外の何物でもなかった。
そして、今日は珍しく、昼過ぎのこの時間に犬養はたまを目にすることになった。
少しもやが掛かった脳を半分ほど働かせ、空からたまへと視線を移した。
たまは犬養を見つけると、小走りに駆け出す。いつもこんな感じであれば可愛らしいのに、と犬養は皮肉げな目で追いかけた。
庭の砂利を鳴らし、たまは縁側に跳び乗る。酒を置いた盆が音をたて、つまみの煎餅が庭に落ちた。
「っ、こらっ、たま。」
犬養は若干の苛立ちを含んだささやき声でたまを叱る。たまは、聞く耳持たず、つんとそっぽを向く。
犬養は叱り、言うことを聞かそうとするのを諦めて、大人しくビールの缶を持ち直した。煎餅はまだ奥にあったはずだ。これを呑んだら、追加の酒と煎餅を持っていこう。
犬養は、残りの温くなったビールを一気に口に含む。苦味が日々の乱れた心をかき集めて喉の奥に投げ捨てるかのように広がった。
はぁ、と溜め息に近い吐息を吐くと、犬養は立ち上がった。
たまと目が合う。犬養は
「お主、我の下僕となれ。」
「……、はぁ?」
最初はどこから聞こえてきたのかが分からなかった。幻聴かな、と犬養は頭をかく。しかし、重厚な声色で、だが透き通るような男性の声はまたもや、はっきりと犬養の耳に届いたのだった。
「どうした、聞こえておらぬのか」
犬養は見た。人の口のように細やかに動くたまの口元を。証拠は全て出揃った。
この声は、たまか。
犬養は手にもったビール缶を、盆の上に置いて、たまの正面に屈んだ。
たまは、猫にしては細い目を犬養の瞳に合わせる。
「お前なのか…」
「いかにも」
「なんでしゃべれるんだ、お前」
「三回目だからだ」
「三回目?なにがだ?」
「それよりも、どうするのだ」
「どうするって、下僕になるか、ということ?」
たまはゆっくりと頷く。その動作は気品さえも感じられた。
「具体的に何をして欲しいわけ?」
「我の世話を」
「いつもやってもらってるじゃないか」
「もうすぐお前の番になる。今のうちに頼んどこうと思ってな」
「どういうこと?」
「時が来れば分かる」
犬養は肺の空気を全て吐き出す様な溜め息を吐いた。現状に頭が追い付いてはいないが、なんとなく、しょうがなく、どうでもよく、といった適当な気持ちになった。
猫が喋ろうが対した問題でないことのように思えた。
「じゃあ、引き受けるよ」
「うむ。よろしく頼む」
たまは右腕を犬養の方に差し出した。握手でもしようというのだろう。
その時犬養は少しだけ、この人の様な猫に既視感を抱いた。
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