7
メガネを外した黄泉寺は横目で様子を窺った。絖瀬の煙を吐きだす仕草が、無性に羨ましくなった。まるで煙と一緒に何もかもを吐き出せているような。そんな簡単な話でないのは、わかっているが。
黄泉寺は人差し指を伸ばして、絖瀬がつまみ持つそれを指さした。
「それ、美味い、とか、あるんですか?」
「……吸ってみるッスか?」
言って、絖瀬はVAPEをもつ手を伸ばした。差し出す前に見せた彼女の僅かな逡巡と、口元に浮かべた苦々しい笑みが、それがどういうものかを語っている。
それでも、黄泉寺は小さく会釈しVAPEを受け取った。絖瀬の説明を聞きながら銀色のパイプを咥える。深く、深く吸って、湿気った空気と共に肺に入れる。
咽た。
苦しくて、痛くて、甘かった。
何度も咳き込んでいる内に、涙腺にこびりついた錆が剥がれてくれた。それだけで吸った甲斐があると思う。
盛大に咳き込み、涙を流しながら、黄泉寺はそれを絖瀬に返した。
へへへ、と笑う絖瀬の声は、少し明るくなっていた。
「どうッスか?」と問う声に、合わないかもと答えようとしたときだった。
絖瀬が唇を少し突き出して、ちゅ、とついばむような微かな音を立てた。
「――間接キスのお味は」
「……っな、んとも、こう」
黄泉寺は瞬時に沸騰し、しどろもどろになりながらも面白い返しをしようと粘るも、
「……甘かったです」
掘り出せたセリフがクサすぎた。
ほうほうと頷いた絖瀬は猫のような笑みを浮かべる。いたずらっぽい瞳で黄泉寺を見つめながら、まるで試すかのように舌先で吸口に触れ、咥えた。
「――んんぅ、たしかに、ちょっと甘いかもッスねぇ」
「か、からかわないでくださいよ」
艶めかしさすら漂う仕草に黄泉寺は思わず目を逸す。いったい、何が彼女をそうさせるのかわからない。自分が躰を熱くしている意味もわからない。
ただ意味分からず混乱する黄泉寺の眼の前を、ふわり、と甘い香りの煙が過ぎった。
「自分、パートナーが黄泉寺さんで、良かったって思うッスよ」
「えっ?」
また、からかわれているのだろうかと瞬時に疑心暗鬼にかられた黄泉寺だったが、絖瀬の目を見て考えを改める。いくばくかの生気を取り戻した顔貌は、真剣そのものだった。
「今日会ったばっかで言われても、って思うかもッスけど――ホント、自分、黄泉寺さんで良かったッス」
「なんで、そう思うんですか?」
「それは――」
口を開きかけた絖瀬は瞳を宙に彷徨わせ、ぷいとそっぽを向いた。
「やっぱり、やめとくッス。怒られそうだし」
「なんですか、それ。怒るわけないじゃないですか」
黄泉寺は思わず失笑した。どんな理由であっても、パートナーがあなたで良かったと言われて喜ばないはずがない。たとえ消去法の末の選択だったとしても、怒りすらしないだろう。なにしろ、これまでは誰の眼中にも入っていなかったのだから。
「ほんっとーに怒らないッスか?」
絖瀬はまるで悪戯のばれた子どものように訊ねた。
「ほんっとーに怒らないですよ」
調子を合わせてそういうと、絖瀬は頬を緩めた。
「自分、フッツーのイケメンだと緊張しちゃって、こんなこと言えなかったッスよぉ」
「……なるほど」
たしかに、黄泉寺はイケメンの部類ではない。背はそこそこあるが猫背気味、枯れ木のようだと評されたこともある痩身、メガネが必要だと気付くのに遅れたせいで藪睨みがデフォルトだ。結果として眉間に皺がよっているのが自然な状態である。
黄泉寺自身は良くて中の上で悪ければ中の下だと認識しているが、絖瀬にとっても同じかどうかはわからない。しかし――、
そいつはいくらなんでも失礼じゃないですか、と言おうと顔を向け、すぐに気づいた。
言い方を間違っただろうか、とばかりに少々引きつり気味の微笑を浮かべる絖瀬は、赤髪を除けば地味だが、よく見れば美人の類である。もちろん、メガネ越しに見える瞳は多少なりとも拡大されているだろうから、外せばまた印象も変わるだろう。だが、美人だ。
そんな彼女の認識する世界では『フッツーのイケメン』の基準はとても高いに違いない。
たとえば、昨日食事を共にした、沢木直宏という男のように。
黄泉寺は鼻でため息をつき、肩を竦めた。
「――分かるわ。分かるわー……」
「へっ?」
どういうわけか、絖瀬は間の抜けた単音を発して、ずっこけかけた。黄泉寺はそれと気づかず、うんうんと首を縦に振る。
絖瀬は、すぃー、と目を逸しつつ、「あ、あれぇ? フツーじゃないって意味のつもりで――」と呟き、やがてムムムと唸って、深くため息をついた。
「や、やー……ほら、人的資源損失課にひとりいるじゃないッスか、イケメン」
「えっ!? 絖瀬さんも沢木さんのこと知ってるんですか!?」
まさか同じ人物を想像していたとは、と黄泉寺は身を乗り出した。
「すごいですよね! 昨日一緒にメシ食ってたんですけど、緊張するのなんのって!」
「へっ? えっと、沢木?」
「あ、名前は知りませんでした? ほら、あの金髪の、俺よりちょっと年上の!」
「あ、あー……あの人……ね、ねー! 緊張しちゃうッスよねー!」
なぜだか目を逸しながら答える絖瀬の声は上ずっていた。
わからないでもない、と黄泉寺は頷く。男の黄泉寺ですら緊張してしまうのだから、歳の近い女性なら、いくら隠れ美人であっても、緊張はひとしおであろう。
黄泉寺がせっかくだからと沢木と何を話したのか聞こうとした、まさにそのとき、
ポーン、と軽い音がした。
アポカリプサーからの呼び出し音だ。
二人の顔から血の気が引いた。スーツは半分脱いだ状態、光学迷彩をかけてあるとはいえポポポメカ二号は置きっぱなし、それにまだ何も損失させていない。
より人間的なポストアポカリプスのために今はたまたまそうしていないが、やろうと思えば数百万人の命を一瞬で奪えるAIが、お怒りになったのかもしれない。
二人は顔を見合わせ、恐る恐るスーツを着込んだ。頭の中にアポカリプサーの声が響く。
『黄泉寺委員、三頭委員、帰投を強制するわけではありませんが、業務時間の終了が迫っています。業務内容についてご確認いただけたでしょうか?』
絖瀬が頬を引きつらせているのが、スーツの上からでもわかった。
黄泉寺は自分を指差し、俺が話すから、と口の前で手を動かした。
「は、はい。どうも俺たち相性いいみたいで……」
普段ならアポカリプサーに敬語など使わないのだが、二人して非推奨行為を敢行し、あまつさえ雑談しかしていなかったという事実が口調を固くさせた。
『それはなによりですね! 私もあなたがたを選んだ甲斐があったというものです!』
アポカリプサーは妙に棘を感じる声色でそう言って、すぐにいつもの声色に戻した。
『私は、黄泉寺委員と三頭委員の今後の活躍に期待しています。より人間的なポストアポカリプスを目指し、今日のように、より人間的にアポカリプスを進行してください』
「は、はい! わかりました!」
『私は、なるべくお早い帰投を推奨します。それでは』
やはり妙に人間的な口調で言って、声が途切れる。
今日のように?
と、黄泉寺はアポカリプサーの言ったことを反芻し、眉を寄せた。
絖瀬が再び異星人スーツから顔を引き抜いた。同じ疑問を抱いたのか、眉間に皺を寄せている。身振りを交え、黄泉寺も脱ぐよう促した。
一瞬迷った黄泉寺ではあったが、絖瀬の指示に従う。
「――どういうことッスかね?」
「やっぱり、変ですよね」
二人は静かに頷き合う。
「自分たちが今日したことって、ここまできて、話して、それだけッス」
「ですよね」
「仲良くなれたッスけど、それしかしてないッスよね?」
「う、うん」
仲良く、という小学校以来使ったことも聞いたことない言葉に黄泉寺は照れた。
「そこ! 照れないでほしいッス! 自分も言っててちょっと恥ずかしいんスから!」
絖瀬も同じらしかった。頬をほんのり赤くしながらも、んん、と咳払いをして真面目な顔になる。
「あの、自分の推測、ちょっと聞いてもらってもいいッスか?」
「――推測、ですか?」
「そうッス。自分たちの選ばれた理由、ッス」
「ぜひにでも。俺、学校でもそんな頭いい方じゃなかったんで」
「それは自分もそうッスよ」絖瀬は頬を緩めた。顎に手を当て、ぽつぽつと続ける。
「えっと、ずっと引っかかってたんッスよ。例の、ポポポメカ二号、でしたっけ? あれのシステムの名前」
「システムって……OSですよね? たしか、プレ、プレ――」
聞き慣れない単語だったのもあって、正確な名前までは思い出せない。
絖瀬は、わかっているとばかりに小さく頷いた。
「『プレフロンタルコーテックス』ッス。前頭前皮質って意味ッスね」
「ああ、そう、前頭前皮質。なんかよくわからないけど、前頭葉って、ここですよね?」
言って、黄泉寺は額に指を当てた。汗のせいか、少しベタついている。
絖瀬は首肯して、さらに言葉を続ける。
「前頭葉は、人間の認知――簡単に言えば、理性を司ってるって言われてるッス」
「理性?」
「そうッス。たとえば共感。いわゆるサイコパスとかいわれる人たちは、前頭前皮質の一部の機能が弱いから善悪の感情に乏しくなる、なんて言われてるッスよ。だから――」
「共感とかサイコパスとか言われても……あっ」
黄泉寺の頭の中で、パチン、と情報が繋がった。
新型のポポポメカ二号のシステム名は『プレフロンタルコーテックス』だ。黄泉寺の席は『ライトヘミスフィア』――右脳で、絖瀬の席が左脳。あのコクピット内は脳を模しており、黄泉寺たちは内容物として選ばれたのだ。
黄泉寺は見つけた子どもの境遇に同情して見逃した。
絖瀬は本を読む子どもに自らの行いを悔い、また殺人によるトラウマを負った。
これまでのポポポ委員会の行動指針としては、不適当な判断のはずだ。
しかし、新システムが良心を象徴するのだとしたら。
アポカリプサーは、より人間的なポストアポカリプスを目指している。アポカリプスを進行させる装置として人間を組み込んでいる。言いかえれば、
「……俺たちのしたことが、アポカリプサー的には正解だった……?」
黄泉寺は思い至った推論に茫漠とした不安を覚えた。
推論の正しさを証明してくれるものはない。確証はないが、そうでなければアポカリプサーの言った『今日のように』という言葉の意味がわからなくなる。
「もし、そうなら――ッスよ?」
「もしそうなら?」
「もしそうなら、自分らが今日してたみたいに、アポカリプサーさんの判断はほっといて、自分らのやりたいようにやるのが、本当の正解……だったりして……」
黄泉寺は黙って頷いた。
「アポカリプサーは俺たちに『人間的な』判断ミスを求めてる。だからアポカリプサーの考える『人間的な』判断ミスを犯した俺たちが選ばれた」
「です。少なくとも、自分らは望まれた不良ポポポ委員なんスよ。多分、他の委員のミスは、アポカリプサーさんの望むような『人間的な』ミスじゃなかったんだと思うッス」
望まれた不良ポポポ委員という奇妙な呼称に、黄泉寺は失笑した。
アポカリプサーは何を望んでいるのか。決まっている。より人間的なポストアポカリプスに向けたアポカリプスの生成だ。
より人間的なポストアポカリプスとは何か。絖瀬の推論通りなら、アポカリプサーの下した判断に無条件に従うのは人間的とはいえない。
だとしたら、最も重要な『より人間的なアポカリプス』の定義は?。
いずれにしても、黄泉寺と絖瀬が選ばれたのだとしたら、求められている判断ミスをする装置として、アポカリプサーに反抗するポポポ委員も含まれている。
「不良ポポポ委員かぁ……俺、不良とは無縁だったんですけどね。絖瀬さんと違って」
口ではそう言いながらも、黄泉寺は無性に愉快な気分になっていた。どうしても口元が緩んでしまう。クラスではしゃいでいる連中は大嫌いだった。不良っぽい連中はもっと嫌いだ。逸脱する組織こそ違えど、まさか自分がその分類に入るとは。
こみ上げてくる可笑しさに、笑いをこらえるだけで精一杯だった。
口元を手で隠して笑う黄泉寺に、絖瀬は誘うような目を向けた。
「しちゃうッスか?」
「しちゃうって、何をです?」
「……前までだったら、夏休みも終わった頃ッスよ」
「あぁ……なるほど。いいですね、それ。アポカリプスチキンレース、みたいな」
絖瀬と黄泉寺は二人して腹を抱えて笑った。
本当に久しぶりに大声で笑い、黄泉寺は足元に転がる一冊の本に気づいた。
小さな、薄い文庫本だ。懐かしさを覚える表紙には、『異邦人』と書かれていた。
「……夏休みの課題図書だ」
「へ?」
と、顔をあげた絖瀬に、黄泉寺は本を拾って表紙を見せた。
「カミュの『異邦人』。たしか、小三のときだったかな……? 夏休みの宿題に読書感想文が出て――」
「うぇ!?」
絖瀬は頓狂な声をあげた。
「しょ、小三で『異邦人』って、え、エリート? 黄泉寺さんエリートだったッスか?」
「違いますって!」
黄泉寺は慌てて手を降った。拍子に、腕にへばりついていた粘液が散った。
「課題図書に指定された本が分厚くって……俺、読みたくなくて、先生になんとか別の本にしてもらおうと頼みまくったんですよ。したら、自分で決めていいってことになって」
「それで『異邦人』ッスか? やっぱり――」
「だからそうじゃなくて!」黄泉寺は本を絖瀬に投げ渡した。「それ、本棚で見つけたとき薄いからいけそうだと思ったんですよ。それにほら、外国の作家だし、薄くても先生は文句言わないだろうって浅知恵で……たしかすぐ近くにカフカの『変身』があって、でもちらっと見たら毒虫になるとかなんとかあって、気持ちわるぅ、って」
吐くような仕草をする黄泉寺に、絖瀬はなるほどとばかりに首を振った。
「それで『異邦人』……でも、異邦人って」絖瀬はVAPEを口に運びつつ、ページを開いた。「やっぱり。『きょう、ママンが死んだ』ッスよね?」
「……あの頃、ちょっと反抗期入ってたんで……」
「はやっ!」と、絖瀬は笑いながらページをめくった「懐かしいなぁ……自分も部室で読んだことあるっッスよぉ。あの頃は全然、意味わかんなかったなぁ……」
懐かしそうに呟き、絖瀬は煙を吐いた。
「――どうだったスか?」
「え?」
唐突にふられ、黄泉寺は思わず聞き返した。絖瀬が、これ、とばかりに本を振っていた。
「……同じですね。つまんない小説だなーって。……でも、淡々としてるからか、不思議と読んでられましたね。あと、最後の『太陽が眩しかったから』って台詞が――」
「――惜しい、ッス」
絖瀬はニヤリと唇の端をあげた。
「直訳するなら『太陽のせいだ』で、最後でもないッスよ。話はもうちょっと続いて――」
絖瀬はそこで言葉を切り、申し訳なさそうな苦笑いをみせた。
「ダメっスねぇ……先輩たちと同じことしようとしちゃったッス」
「――えーっと……」
黄泉寺は、そういえば文芸部って言ってたっけと、そしてまた、あれでも高校は美術部って言ってたようなと思い至り、ため息をついた。
絖瀬は深くVAPEを吸い込み、厚い煙を吐いた。
「でもあれッスね。自分たち、『異邦人』みたいッスね」
「……ごめん。どういうこと?」
読書感想文は、簡単なあらすじと、身を守っただけなのになんで死刑になるのかわからない、とかなんとか書いた記憶しかなかった。あらすじの方もうろ覚えだ。
絖瀬は本を黄泉寺に差し出した。
「『異邦人』だと、主人公は母親の死を悲しまなかったことを糾弾されるッスよ。そこから倫理観のズレだとかに話がつながって行くっス。簡単にいうと、社会に馴染めない変人さんのお話なんッスよ」
「あー……なんか思い出してきたような……って、そうか」
だったら、おかしくなった世界でマトモな判断をした俺たちは、
「ポポポ市に迷い込んだ『異邦人』?」
「みたいな」
ほんの少しの間の後また笑い合い、二人はアポカリプスチキンレースをすると決めた。
『どちらか』ではなく、『どちらも』だ。
イコライザーミサイルという大量破壊に関わる者として同じ罪を抱える二人は、二人してアポカリプサーの判定を無視したらどうなるのか、試してみたくなっていた。
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