NIGHT COLORS
佐井識
NIGHT COLORS
深夜から飲むなら、築地の寿司屋が最強。これは私が社会人になって得た知識で、もっとも有益だと思うことのひとつだ。
築地には24時間やっている寿司屋がいくつかあって、場所柄、外国人観光客が多い。少し非日常的な空間だから、飲みすぎても罪悪感を抱きづらいうえ、寿司はヘルシーだし、おいしいし、座敷でラクな体勢になれるのもいい。初めて先輩に連れて行かれたときは、築地で飲むなんて想像もつかなかったけど、渋谷よりも新宿よりも八重洲よりも、今は築地がいちばん落ち着く。
つまり、8年間の社会人生活で学んだことなんて、この程度ということだ。
「真貝、一杯目は?」
窪田がメニューを差し出す。ろくに見ずに、私は「ハイボールにする」と答えた。
「じゃあ俺も」
店員を呼び、窪田はハイボールふたつと、刺身盛り合わせと海の幸サラダ、茶わん蒸しを頼んだ。ここの茶わん蒸しは、来たら必ず食べる、窪田の好物だ。
「あ~、座敷最高」
「疲れたね」
「うん、さすがに長時間ヒールで疲れた」
私は耳にぶらさがっている大ぶりのピアスを外し、テーブルにごろんと置いた。窪田はネクタイをゆるめて外し、大きな紙袋の中につっこむ。同じ紙袋は私の手元にもあって、中にはおそらくペアのマグカップであろう、重たい引き出物が入っている。
「19時に披露宴が終わって、21時から二次会って、全体的に遅すぎるよな」
「ね。しかも二次会の店、全然食べ物出てこないし」
「店のキャパと値段で選んだって感じだった。さすが中崎、店選びのセンスがない」
「いまだに忘れられないよ、5年前の歓送迎会。3000円で飲み放題つきって聞かされて、行ってみたら席が足りない謎のダーツバー。しかも、『後輩をちゃんと指導しろ』って、なぜかうちらが部長にめちゃくちゃ怒られた。会社組織の理不尽さを感じたよ」
その中崎も結婚とは、遠くに来たものだと思う。年の近い先輩として、今日、私と窪田は結婚式に出席した。二次会が終わると、職場のグループは、終電で帰る組と、三次会に流れる組に分かれた。スマホをいじりながら後者の最後尾を歩いていたら、いつの間にか横にいた窪田が、「実は俺も結婚が決まった」と、私にだけ聞こえるようにささやいた。
寝耳に水の話で驚いていたら、窪田が「子どもができた」と続けたので、私は状況を理解した。
「……ほかの人たちには?」
「いや、今初めて言った。今日は中崎が主役の会だから、悪いじゃん」
うっかりしている割には、後輩への気遣いはちゃんとできるらしい。窪田はそういう男だ。
小声で話しているうちに、長い信号待ちに引っかかり、私たちを置いて集団が先に行ってしまう。窪田を見たら、窪田も同じ考えだったようで、銀座からタクシーに乗り、勝手知ったるこの店にやって来たのだった。
たぶん窪田は、私が人生でもっともお酒を一緒に飲んでいる相手だと思う。私は家ではほとんど飲まないから、実家の親兄弟よりも、歴代の恋人よりも、夫よりも、窪田と飲んでいる。
「今更だけど、今日、こんな時間まで飲んで大丈夫なの?」
割り箸の袋で箸置きを折りながら、窪田が言う。
「夫も友達の結婚式で、仙台に戻ってるから大丈夫。ていうか窪田こそ平気なわけ」
「彼女は実家に泊まってる。つわりがキツいみたいで、あんまり連絡するなと言われてる」
「うわ、最低。身重の嫁をおいて飲み歩くとは」
「後輩の結婚式の日くらいいいだろ。それにまだ嫁じゃねえよ」
「ほとんど嫁だよ」
そうなんだよなぁと言って、窪田はハイボールを飲み干し、おかわりを注文した。
「ふらふらしてきた窪田の恋愛遍歴も、いよいよ終わりか。酒の肴にぴったりだったんだけど」
「人の恋愛をなんだと思ってる」
と言いつつ、窪田はまんざらでもなさそうな顔をしている。
私は窪田の結婚相手に会ったことがない。2つ年上の、図書館の司書をやっている女性ということしか知らない。
「子どもができたこと、相手の親に殴られなかった?」
「意外と殴られなかった。むしろ喜ばれた」
「30代になるとそういうもんかもね」
半年前、付き合い始めたことを聞いたときは、今度はどのくらいもつのかなぁなんて笑ってたけど、意外な形でゴールしたというわけだ。しっかりした人みたいだから、優柔不断気味な窪田には合っているんじゃないかと思う。
「真貝に結婚の話をするの、実は緊張した」
窪田が少し気まずそうに打ち明けた。
「なんで?」
「昔、デキ婚とかダセぇ! って散々言ってたじゃん」
20代前半の頃、やっぱりこの店で飲みながら、窪田相手に持論を熱く展開していた記憶がよみがえった。我ながら、若かった。
「確かに窪田はダサいけど、でも、作ろうと思って作れるものでもないから、子どもができたことは素直にいいことじゃん」
私は結婚して2年になるけど、妊娠したことがなかった。本格的に不妊治療を始めたのは半年前のことだ。
「それに窪田は、こういう形でもないと結婚決められなさそうだし」
「失礼なと言いたいところだが、否定できない」
窪田は苦笑して、「ぶっちゃけ、まだ全然実感ないよ」と言う。
「窪田、それ嫁に聞かれたら殺されるやつだよ」
「わかってる。だからここでしか言わない」
私はカンパチの刺身を醤油につけ、口に運んだ。刺身と一緒に、窪田の「ここでしか言わない」というセリフを嚥下する。
私は窪田の、社会人以降の恋愛遍歴はたいてい知っている。それどころか、仕事の成功も失敗も、会社での人間関係も、たいてい知っている。
新卒で、京橋にある中堅の広告代理店に入った。12人いる同期のうち、ダントツで忙しい部署に配属になったのが、私と窪田だった。
配属初日、課長が分厚いファイルを、私と窪田のデスクにそれぞれ置いた。
「研修っていっても、手取り足取り教えたりはしないから。これ、うちの部署が担当した広告の資料。得意先ごとのトンマナがどういう感じか自分なりに考えて、文章にまとめて提出して」
そう言い残して課長は社内会議に入ってしまったが、私は指示されたことの意味すらわからなかった。かといって課長を追いかける勇気もなく、ファイルを見つめてしばらく呆然としていた。
「トンマナは、トーン&マナー。デザインの一貫性のことだよ、真貝さん」
小声で助け船を出したのは、隣の席の窪田だった。
「……窪田くん、詳しいんだ」
同じスタートラインに立っているはずの同期が、自分より先を行ってるなんて。ショックでお礼も言えない私に、警戒を解くように、窪田は笑った。
「俺も今、グーグルで調べた」
目が三日月型になって、愛嬌のある笑顔だった。変に緊張していた自分がバカらしくなったのを、よく覚えている。
最初の数年、私と窪田は毎日のように残業していて、同期の飲み会にはたいてい間に合わなかった。遅れて参加できるならいい方で、気づいたら終わっていたことも1度や2度ではない。そんなときは冷蔵庫に入っていたお中元のビールをこっそり席で開けて、ふたりきりで同期会をした。
こうして、仕事帰りに飲みに行くのが習慣になった。窪田は大酒飲みというわけではないけど、一度飲み始めると、なかなか帰りたがらない。私は学生時代から付き合っていた彼氏が名古屋に赴任になって、平日夜は暇だったから、別にかまわなかった。仕事に慣れるにつれ、終業後に飲む酒の味を格別に感じ始めた時期でもあった。
だから窪田を思い浮かべるとき、いつも夜を連想する。お互い日中はあまりオフィスにいないし、たまにランチに行くことはあっても、先輩や後輩も一緒に出る。ほかの女子の同期のように、休みの日に外で会ったこともない。SNSのアカウントも知らない。
私たちが親密になるのはいつも、残業で人がまばらなオフィスや、夜更けの飲み屋だ。入社から8年経って、部署が別になった今も、それは変わらない。
そこで私たちは仕事内容を共有し、「経営管理部の泉田さんに引き抜きの話があるって」「同期の森本とデザイナーの南さんが付き合い始めたらしいよ」なんて人事情報やゴシップを交換し、お互いの近況を喋りながらだらだらと酒を飲む。そういう付き合い方を続けてきた。
「飲み物、どうする」
空になった私のグラスを見て、窪田が言う。
すでに2杯目のハイボールも飲み干して、窪田は焼酎のお湯割りに移っていた。
「その焼酎おいしい?」
私が尋ねると、「味見する?」と差し出される。そっと口をつけると、ふわっと芳醇な香りが広がった。
「同じやつにする」
「おっけー。ついでに寿司も頼もう」
「じゃあ、私はタコとイワシと芽ネギ」
「はいよ」
時刻はすでに1時を過ぎていたが、店内は相変わらずにぎやかだった。隣の席は中国人のグループで、わいわいとメニューをめくっている。
私は深夜の築地の、こういう空気が好きだ。仕事や雑事から解放されて、世界から干渉されない、心からくつろげる自由な数時間。働いていてよかったな、と思える。
たとえば女友達とおしゃれなお店に集まると楽しいし、家で手作りの食卓を囲むと満たされるけど、それらとはまったく別物の味わいだ。
女友達や夫とは、こういう飲み方はしない。会社の人とばかりで、結婚してからはほとんど窪田としかしていない。
「結婚式はするの?」
「どうだろうなぁ、この状況だし、しないかなぁ」
窪田はあいまいに答える。
「せめて身内だけでもしといたほうがいいよ。結婚式を挙げたほうが離婚率が下がるって、なんかで読んだことある」
「現実的なアドバイスをありがとう」
「川添さん、独身仲間がいなくなって残念がりそうだね」
私は窪田と仲のいい、4つ上の男の先輩の名前を挙げた。
「川添さんが残念がったのは、むしろ真貝が結婚したときだよ」
窪田の顔をまじまじと見ると、窪田は「もう時効だから言うけど」と肩をすくめた。
「真貝が前の彼氏と別れたとき、相談されたもん。『いけるかな? 同期としてアドバイスくれ』って」
「なんて答えたの?」
「『いきたいなら止めないけど、あの女は手ごわいですよ』って」
「ちょっと、もっと言いようがあるでしょ」
知らないところで恋愛相談をされていたという気まずさより、つっこむ気持ちが先に立った。
「事実しか言ってない。実際、川添さんは空振りだっただろ」
言われてみれば、集中的にサシ飲みに誘われた時期があったような気もする。
「やけに声かけられるな~とは思ってたけど、自意識過剰だと思って受け流してたよ……」
「ほらみろ」
「だって会社の人だよ。いちゃいちゃする図とか、想像しづらくない?」
私は社内恋愛をしたことがない。夫は友達の紹介で知り合った食品メーカーの研究職だし、その前の彼氏はSNSで知り合ったプログラマで、さらにその前は学生時代からの付き合いだった。
そして把握している限り、窪田もない。
「まあね。俺も、社内の人とは恋に落ちる気、しない」
窪田は割とモテる。誰にでもやさしいし、付き合いがいい。八方美人で流されやすいきらいはあるけど、性格の欠陥というほどではない。あっという間に恰幅がよくなる同期男子のなかで、小柄な窪田は新卒のときから、体型もそれほど変わっていない。
先輩や後輩が窪田を狙っているという話も何度か聞いた。彼女たちと飲みに行ったりもしていたはずだ。それでも社内恋愛に発展しないのは、窪田が無意識のうちに仕事とプライベートを分けているタイプだからだと、私は長年の付き合いで分析していた。だから、恋に落ちない。
私は違う。私は、社内の人とは、恋に落ちたくない。
「げっ」
窪田が変な声を出した。スマホの画面を私に見せる。
「噂をしてれば川添さんから電話」
三次会組からの、呼び出しの連絡だろう。窪田が通話ボタンをタップした。
「お疲れ様です、窪田です。すみません、そうなんですよ、途中ではぐれちゃって」
窪田がスマホに向かって愛想笑いするのを見ながら、私は焼酎をなめる。
「あ、東銀座の歌広場に。部長もいるんですか」
かなり近いカラオケで三次会をやっていたようだ。酔うと川添さんはしつこい。どうせ訳のわからないことになっているだろうけど、先輩のご指名とあらば、窪田は行かざるをえない。
「実は俺、もう家に帰っちゃって」
私はどうやって帰ろうかと思っていたところで、窪田がさらっと嘘をついたので、焼酎を飲む手を止めた。
「マジですマジです。後ろががやがやしてる? テレビの音ですかね? 真貝も帰りましたよ。本当です。いやー、俺今もう寝間着なんで、戻るのは勘弁してください。申し訳ないです。はい、はい、それじゃあ月曜に」
人の好さそうな声音のまま、窪田は電話を切った。
「びっくりした。断るのうまくなったじゃん」
上司の誘いを断りきれず、強引に連行されていた20代の窪田の姿を思い出す。
「居留守使うと何回もかけてくるから、とにかく1回話して、シラを切るのがベストだとわかった。社会人8年目にして修得したライフハックです」
窪田がどやっと胸を張った。築地の寿司屋が最強という、私の知識に引けを取らないくらい、どうでもいいノウハウだ。
「なにがライフハックだ。そんなことしてる間にエクセルのひとつでも覚えなよ」
「これも仕事のうちだ。さ、飲み直そうぜ」
窪田が自分のグラスを掲げてみせた。まるで共犯者のような笑みを浮かべて。
同感だった。まだ、お開きにするには早い。
「そういえば、“ヶ”が、市長じゃなくなったらしいよ」
徳利から私のおちょこに日本酒を注ぎながら、窪田が言う。日本酒を頼むと、私たちはいよいよ酔っぱらってしまうのだけど、毎回懲りずに繰り返してしまう。
「ついに?」
私も窪田のおちょこに注ぎ返してやる。重みのある透明な液体が、杯を満たした。
「先月市長選があって、野党連合が推す新人に負けた」
「何選するつもりだったんだよ、あのおっさん」
私は日本酒に口をつけながら、見事に剥げあがった頭部を持つ70代男性の姿を思い出して、含み笑いした。写真でしか知らない“ヶ”こと多ヶ谷氏は、窪田のクライアントだった、九州の小さな市の市長だった。
あれは4年前の秋、撮影で使った荷物を置きに、日曜の夜に会社に顔を出したら、誰もいないはずの会議室から明かりが漏れていた。ドアを開けたら、珍しく難しい顔をした窪田がテーブルに向かっていた。
「何してんの、窪田」
「真貝こそ」
私の登場に窪田は驚きつつ、どこかほっとしたような表情を見せた。
会議室のテーブルには、川と田んぼの写真が表紙の、よくある市町村のパンフレットと、「ヶ」という文字だけが大量に印刷されたラベルシールが山積みされていた。窪田の手元に広げられたパンフレットの3ページ目に「市長よりご挨拶」というコーナーがあって、スーツ姿のハゲたおっさんの写真の下に、「市長 多加谷則一」と記載されている。
「『多加谷』じゃなくて、『多ヶ谷』だったらしいんだ」
誰も誤字に気づかないまま校了してしまい、向こうの担当者が慌てて連絡してきたときには、パンフレットはすでに印刷所から納品され、あとは窪田が発送するだけという状態だった。
先方が提出してきた原稿の時点で名前が誤っていたらしく、窪田はとばっちりを受けたような形だけど、この仕事で人名間違いはご法度だ。残りは刷り直すとして、町おこしのイベントですぐに配る分だけ、窪田が「ヶ」のシールで修正して、謝罪も兼ねて、翌日朝イチの飛行機で持っていくことになったらしい。
「何部修正するの?」
「2000」
見たところ、まだ100部も終わっていない。私は袖をまくって、窪田の向かい側に腰を下ろした。
「手伝うよ」
「いいよ。悪いよ」
「私、明日、午前休だから気にすんな」
パンフレットの山を寄せて、包み紙をビリビリと破くと、窪田が「すまん」とつぶやいた。ふたりでやれば、なんとか今夜中には終わるだろう。
私と窪田は向かい合って、黙々と作業を続けた。パンフレットを開き、「ヶ」の文字をカッターで切り取って貼り、終わったものに重ね、また次のパンフレットを開く。
「この市長にヶのシールって、よく考えたらシュールだよね」
15分ほど経ったころ、私はおもむろに言った。
「市長、髪の毛ないのに」
窪田が噴き出した。
「やめろよ、シールがずれる」
「1枚くらい『ハゲ谷』にしてもバレないと思わない?」
「お前は俺をクビにさせる気か」
ずっと神妙な顔をしていた窪田が、その日初めて笑った。それを見て私も安心した。
「自分のトラブルはイヤだけど、他人のトラブルの話は、なんか面白いんだよね」
手を動かしながら窪田がうなずく。
「意外とどうでもいいことでもめたりするもんな」
私も過去の自分のトラブルを思い出す。カラーで準備すべき翌日の会議の資料をモノクロで出力してしまい、何千枚もの印刷ミスを前に途方にくれたこともあったし、撮影に使う備品を会社に忘れて、現場の葉山から取りに戻ったこともあったし、新商品のPRイベントに登壇してもらう女性アイドルに熱愛報道が出て、進行台本を徹夜で書き換えたこともあった。
最中は死ぬほどつらかったけど、過ぎてしまえば、大したことなかったように思えるから不思議だ。
終電前に修正作業は終わった。窪田は会社で仮眠して、そのまま羽田に向かうという。
「本当に助かった。ありがとう」
「なんかお土産買ってきてよ。おいしいやつ」
「うん」
月曜夜に戻ってきた窪田は、私のデスクに、銘菓だというクルミ餡のもなかと、半魚人だかカッパだかよくわからない緑色のキャラクターのキーホルダーを置いた。
「これ何」
「あの市のゆるキャラのグッズ。800円もした」
「全然いらないんだけど」
私はげらげら笑って、キーホルダーを受け取った。そのゆるキャラは今も、デスクの二番目の引出しの奥にしまってある。
アルコールで赤らんだ顔で、窪田が遠い目をする。
「もう4年も経ったとは。つい去年のことみたいなのに」
「そうだよ。それどころか私たち、30歳だよ」
言ってはみたものの、私だって全然実感が追いついていない。書類に年齢を記入するとき、いまだに3と書き出すのがしっくりこないくらいだ。
「昔は、30代になったら、もうちょっとデキる大人になってると思ってたんだけど。小手先のスキルは身についたけど、慣れで仕事してるって感じだ」
「小手先のスキルも慣れも大事だよ」
「うん。だけど田丸とか見てると、安全圏から出てえらいなって尊敬するよ」
12人いた同期も、他社に転職したり、大学院に入り直したり、地元に戻ったりして、すでに半分に減っていた。いちばん意識の高かった田丸は、独立してフリーの広告プランナーとして活動している。本業のみならず、アルファツイッタラーとして、ネットの討論番組に出演したりもしている。
「田丸、引っ張りだこだもんね。会社、早々に辞めて正解だった」
「こないだ発表会で久しぶりに会ったら、みんなで飲みたいって言ってたよ。フリーだと同期がいなくて、さみしいってさ」
上昇志向が強くて、どちらかというと会社組織を嫌っていた田丸がそんなことを言うとは、意外だ。
「久々に同期飲み、いいかもね。窪田の結婚祝いも兼ねて」
明日には忘れてしまいそうな同期会の計画をひとしきり喋ったあと、窪田がふと、背にしている窓を振り返って、感慨深そうにつぶやいた。
「築地市場だって、移転するんだもんなぁ」
私も窓の外に目を移す。
「豊洲の土壌汚染って片がついたんだっけ」
「たぶん」
「移転って今年の10月? 11月?」
「さあ、どっちだったかな」
私も窪田も日本酒にとどめを刺されて、もうあまり頭が回らない。体温が上がった耳に、窪田の独り言が聞こえる。
「場外は残るらしいけど、だいぶ変わっちゃうんだろうなぁ……」
窓の外の築地はまだ薄暗くて、この先もずっとここにあるような気がしてしまうけど、時間の流れとともに、物事は確実に変わっていってしまう。
酔いと眠気でぼんやりとした頭で、私はあと何回ぐらい、窪田とこうして飲めるんだろうかと考える。
働き方改革やら何やらで、最近は残業もめっきり減った。飲みニュケーションなんてもはや誰も言わない。
そして窪田には子どもが生まれる。今は実感がわいていなくても、窪田はちゃんと家に帰って、子どもを世話するはずの男だ。私だって不妊治療が実を結んで、近いうちに子どもを授かるかもしれない。
時間とともに、環境も人も変わる。
酔っているからだろうか、私は少しだけ、それがさみしい。
会社で、飲み屋で、同じような夜を何度も繰り返してきた。なのに、同じ夜はひとつとしてなくて、微妙に違う夜の色が、私の記憶に散らばっている。
それらをひとつずつ集めたら、まるで夜から朝に至るような、ひとつのグラデーションを描くのかもしれない。
ねえ窪田。私が窪田と、窪田と過ごす時間のことを、どれだけ貴重に思っているか。
たとえば今日、誰よりも先に、結婚を教えてくれたこと。先輩の誘いを断ってふたりだけで飲んだこと。そういう親密さに、優越感にも似た喜びを感じるのは、厚かましいのかもしれない。それこそ安全圏で甘えているのかもしれない。
私にとって窪田は、ただの同僚ではないし、友達ともちょっと違う。かといって恋に落ちたり、結婚したりしたいわけでもない。窪田は窪田のふさわしい相手と、幸せになってほしい。
ただこの先も、ときどきでいいから、こうしていられたら。
「真貝」
窪田の声が頭上から降ってくる。
「真貝、朝だよ」
とんとんと肩を叩かれて、私は瞼を開いた。いつの間にかテーブルにつっぷして眠っていたらしい。窪田の背後の窓から、明るみ始めた空が見えた。
「電車が動き始めた。そろそろ帰るか?」
私を覗き込む窪田も眠そうで、ヒゲが少し伸び、せっかくのフォーマルスーツもよれよれだった。私だって鏡で確認するまでもなく、半日以上前にサロンでセットした髪型は崩れ、メイクもはげて、落ち武者みたいになっているだろう。
こんな仕方のない、大人になりきれない自分たちのことを、今みたいに、どうしようもなく愛おしく感じる瞬間がある。
「窪田、私さ」
睡眠と覚醒のあいだの場所から、私は窪田に呼びかけた。
「私、窪田にだったら、お金貸したっていいって思ってるんだよ」
窪田は寝ぼけている人を見るような顔で、私を見た。実際その通りなのかもしれない。
「なんだよいきなり」
「本当にそう思ってるから、言いたくなった」
「金って、どのくらいよ」
ちょっと考えて、私は「……80万くらい?」と答えた。すかさず、窪田が「少ねえ」とつっこむ。安月給なのはお互い様だから、現実的に妥当な額のはずだ。
「そんで、利子はトイチね」
「勝手に貸しつけといて、ひどいな」
窪田が笑った。22歳の頃から変わらない、笑うと目が三日月みたいになる笑顔。
「よくわかんないけど、ありがと」
「どういたしまして」
私も笑った。私だってよくわからない。よくわからなくていいから、伝えたかった。
本願寺の交差点まで出ると、もうほとんど朝だった。市場の人たちはすでに働き始めていて、その姿がまぶしかった。これから帰ってひたすら眠るだけだから、その前に澄んだ空気を吸い込む。
「お疲れ様。また月曜に」
「うん。お疲れ様」
私は、築地駅から日比谷線に乗る。窪田は大江戸線の築地市場駅まで歩くという。
「窪田」
西へ歩き始めた窪田を呼び止めた。大事なことを言いそびれていた。
窪田が振り返る。
「結婚、本当におめでとう」
朝日をきらきらと浴びた同期は、くすぐったい顔をして、右手をあげた。
NIGHT COLORS 佐井識 @saishiki
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます