22 階段を上るもの
妹が声優になるべく、
関東圏に引っ越すことが決まったのは
今年の2月末のことであります。
私は離れて暮らしていましたが、
送別会をしようという母の提案があり、
少しお高い焼き鳥屋で晩御飯を食べることに。
私は仕事があったので少し遅れて、
すでに席を確保していた家族と合流しました。
作者が一人暮らしをしてから成人した妹。
「あの子、よくお酒を呑むのよ。」と母から愚痴を聞いていましたが、その呑みっぷりに驚かされました。
グラスが空になれば、休む間もなくお酒を頼む様は、まさに
もうすでに3つ空になった背の高いグラスが机の隅を固めていますが、
妹は顔色一つ変えず、けろっとしておりました。
つい先日までブレザーを着ていたように思っておりましたから、その光景にただただ唖然としたのです。
物件はどこに決めただの、
所属事務所はどこどこでいつから働き始めるだの、
妹の口から予定が語られるたびに、もっと先にあるように思っていた一人立ちが現実味を帯びて、ほんのりと寂しくなったのでした。
さて、しめの鶏釜飯を食べたところで、そろそろ帰ろうかという話に。
ここで妹が妙なことを言います。
「お姉ちゃん。私、また変な体験した。その話したいから、車、乗って行っていい?」
変な体験という言葉で、
焼き鳥屋の雰囲気が一変したように感じました。
(一体、どんな話だろう。)
先程まで感じていた妹の一人立ちに対する哀愁を放り出し、好奇心に胸を高鳴らせて、
怪異を匂いたたせる妹を助手席に招き入れたのです。
「短い話なんだけどさ。」
そういって話してくれたのが、この話です。
2月中旬、某日。
その日、午後からアルバイトに行く予定があった妹は、お昼ご飯を食べた後、2階の洗面台で歯を磨くことにしたそうです。
右回りへU字に曲がった折り返し階段を上り、L字に曲がる狭い廊下を進んで、洗面台へ向かいます。
1m半程の高さの間仕切り壁に身体を預けて、口の中に歯ブラシを突っ込み、気だるげに歯を磨く妹。
特にやることもないので、鏡に映る景色をぼーっと眺めていたわけです。
鏡には自分の上半身と、すぐ後ろにある白い間仕切り壁が映っているだけであります。
なんの面白みもありません。
さっさと歯を磨けばよいのですが、遊びの予定ならまだしも、この後待っているのはアルバイト。
準備は気が進まず、歯ブラシを握る力が弱くなり動作もだらだらとしてしまいます。
時間が止まるわけではありませんが、壁だけが映る面白くもなんともない景色をただ眺めていたのでした。
ふと、鏡の端から何かが映りこみ、そこに視線を向けます。
自分の後ろを鏡越しに確認すれば、自分から見て右端、間仕切り壁の上側に、誰かの頭のてっぺんが見きれていました。
そこは丁度、階段の折り返し地点、
いわゆる踊り場があるところであります。
(ああ。姉ちゃんが上って来てるんだ。)
実はこの日、作者は用事があって実家に帰ってきており、1階のリビングにいたのです。
階段を上ってきて、
今見きれている頭も姉のものだろうと思った妹。
右から左へ上下に微かに揺れながら階段を上るそれを目で追って、
鏡の左端で頭が消えたのを確認した瞬間、
妹は突然言い様のない違和感に襲われて振りむきました。
今しがた確かに、誰かが階段を上ってきたはず。
なのに、階段の方を振り向いても、人の姿はどこにもなかったのです。
冷汗が背中を伝い、血の気がさーっと引いていきます。
一瞬真っ白になった頭が徐々に冷静さを取り戻すと、濁流のように数々の疑問点が押し寄せてまいりました。
まず最初に気づいた違和感は、人が上ってきたはずなのに、足音一つしなかったという点。
我が家で一番静かに上がる母でも、段に踏みあがる時にはどうしてもトスッという音を立ててしまうのです。
鏡に映った頭は、確かに階段を上がる動きをしていたのに、一切足音が聞こえてきませんでした。
次に違和感を覚えたのは、鏡に映りこんだ頭のこと。
妹は、間仕切り壁の上部についた手すりを掴みながら、下を見下ろしました。
奥行きが狭く、勾配が急な階段ですので、高所恐怖症の方であればぞっとするような光景であります。
眼下にある階段を眺めて高さを確認し、妹は手すりから1、2歩下がって離れました。
そうして洗面台の端に背中をもたれると、間仕切り壁によって階段はすっかり見えなくなります。
(やっぱりそうだ。なんで忘れてたんだろ。
そうだよ、うちの家の階段は高さがあって、踊り場に人が立っていても2階から姿が見えない。
見えるのは、最後の2、3段あたり。
上ってくる姿が見えるはずない!)
繰り返し申し上げますが、我が家の実家にある階段は奥行きが狭く、高さがあります。
折り返し地点にある正方形の踊り場でさえも、そこに向かって飛び降りるには足がすくむぐらいの高低差があるのです。
少なくとも2メートル半か3メートルはあるでしょう。
人の頭が、見きれるはずがないのです。
妹は、その時見たものをこう振り返ります。
「黒い髪でお姉ちゃんかと思ったけれど、今思うとあれは男の人だった。
頭のてっぺんが見えていたというよりは、すこし前に下がっていたというか。
肩猫背みたいになって、俯いているような印象だった。」
俯いていたら、余計に頭が見えるわけがありません。
一体何が、階段を上ってきたというのでしょうか。
実は、妹が実家で階段の怪異に遭遇したのはこれが初めてではありません。
今から5年前の冬。
夜中、妹が2階にある自分の部屋で、布団にくるまり今から寝ようとうとうとしていたところ、突然、扉の向こうから音がしてきました。
ドタドタドタドタドタドタ!
バタバタバタバタ!
(え?何!?)
その音は、階段を上り下りする激しい足音。
妹は一瞬、母が怒ってやっているのかと思ったそうですが、母はもうとっくに寝室で眠っています。
足音の主は、階段を上りきることも、下りきることもせずにただひたすらに階段を走り回っているのです。
しばらく続いたその音は突然やみ、冬の夜らしい静けさが辺りを包んだのでした。
「姿を見てはいないので確かではないけれど…。激しく、重い足音を聞いた時、あれは背が異様に高い女の人だと思った。」
妹はそう、ぽつりと言いました。
階段を上ってきた男、5年前に階段を走りまわっていたであろう女。
2人は一体、何者なのでしょうか。
正体が何者であるにせよ、
今でも何かが実家の階段に潜んでいることを知り、作者はぞっとしたのでありました。
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