15 夜勤の見回りで



Yさんは一人、照明が点いていない廊下を歩いていました。


そこは、町はずれにある田んぼに囲まれた老人ホームであります。

街灯がないものですから、夜が更けると施設を墨汁のような闇と静寂が覆うのです。


ショートステイ(短期的に施設に入所して介護・支援が受けられるサービスのこと)を担当する部署に所属している彼女。


利用者の入れ替わりが激しく、日によって行う介助の大変さがまちまちなショートステイ。


その日はたまたま生活が自立されている方が多く、夜勤中にすることといえば、

たまに鳴るナースコールの対応ぐらいだったそう。



ただ、いくら自立されているとはいえ、万が一夜中に歩いて転ばれてお怪我をされたり、突然の心臓発作が起きる可能性がないとは言い切れないので、定時の訪室はしっかりと行う必要がありました。





時刻は夜中の2時を回りました。



これは介護職である作者の主観なのですが、

夜勤に慣れてきますとこの時間帯が落ち着くことに気づかされます。



夜が深まり静まりかえった空間に、人が眠っている時に醸し出す穏やかな空気が充満して、

暗闇とはいえ、母の懐に抱かれるような安心感があるのです。



もう中堅にもなったYさんは、その落ち着いた夜のフロアの見回りを淡々とこなしていました。



夜勤では2つのフロアを見回りするのですが、真ん中に中庭があるということもあり少し複雑な動きをいなければいけません。


そのため彼女は、待機する寮母室からみて右側のフロアを確認し、また戻ってきて今度は左側にあるフロアを確認するという風に、

丁度八の字のようなルートで見回りをするのだとか。




並ぶ居室を一部屋ずつ覗いては、

お休みになられている利用者様を起こさぬように静かに速やかに様子を確認していきます。




そんな具合に見回りをして、丁度中間あたりに来たところでしょうか。



なんの前触れもなく、突然彼女は不快な違和感に囚われました。


それは、言い換えれば恐怖という感情なのですが、フロアはいつもと変わりなく、何かが見えたり聞こえたりしたわけではありません。


認識できていないにも関わらず、身体は何かに対して警戒し鳥肌を立て、筋肉を強張らせます。


誰かが転んでいる気がするとか、気分を悪くしなっているかもしれないといった嫌な予感ではなく、

たった今、自分が何か恐ろしいものに対面していると感じるのです。



(きっとただの勘違いだ。思い過ごしだ。)とやり過ごそうとしますが、

廊下を歩いている最中ずっと、

その得体知れない恐怖は影のように色濃くまとわりつきます。



(誰か…人のいるところに行きたい。)

普段ならそんなことを思わないのに、心細さから人恋しくてたまらなくなってきました。



引き返して別の階へ行けば、そのフロアの夜勤者がいることでしょう。



しかし、見回りはもう半分は終わっているのです。


もし、この気持ちがただの勘違いでしたら、またここまで戻ってきて見回りを再開しなければいけないのですから、それはいささか面倒であります。



Yさんは逃げたい気持ちを押し殺し、見回りを続けたのです。



ようやく、最後のお部屋にたどり着きました。

この部屋を覗けば見回りは終わりです。



木製の扉を静かに横へ開いていきます。

入口からほの暗い部屋の様子を見た瞬間、彼女の身体は硬直しました。



この時間なら寝ているはずのAさんが、ベッドの端に腰を掛けてこちらをじっと見ているのです。


その目はYさんを睨むようにしてとらえて逸らしません。



夜中に起きてこちらを見ているということは何かあったのかもしれませんから、

声を掛けなくてはと思うのですが、頭が真っ白になって何も言えずにその場に立ち尽くすことしかできません。



固まるYさんの発言を待たずに、Aさんは口を開きました。



その言葉はにわかには信じられないものでした。





「あなたの隣にいるおじさん、誰?」




見回して確認する必要なんてありません。

Yさんはここまで一人で来たのですから。

おじさんなんているはずがないのです。




その言葉は、気のせいだと片付けようとしていた、廊下を歩いている時にずっと感じていた恐怖を肯定しました。



じわじわと、それが現実で自分の身に起きていることだと自覚したとき、わっと抑えていた感情が溢れました。



(あの違和感があったときから、それは私にずっとついてきていたんだ!そして今、そいつは私の側にいる…!)



自分の言葉に何も言わず、動かないYさんを見て何かを悟ったのか、

「大丈夫。私が守ってあげるから、側に来なさい。」とAさんは力強く言ってくれたのです。



そのまましばらくAさんの部屋にいましたが、ふっと恐ろしいものの気配が消えて身体が楽になったので退室しました。



不思議なことに廊下に出てもあの恐怖に襲われることはなく、

寮母室に戻る廊下の道のりは、行きと同じ場所かと疑ってしまうほど、

いつもと変わらない穏やかな雰囲気だったのです。





Yさんの職場にまつわるお話は、実は他の方からも聞いていました。



あそこは危険だとささやかれている部屋があるとか、

ある部屋にショートステイすることが決まった霊感の強い利用者様が

「あの部屋に泊まるくらいなら死んだ方がましだ!」と激しく拒んだことがあるとか…。



その場所自体に何か因縁がありそうな気がします。




Aさんに見えた、Yさんの側にいた男。



それは、Yさんの身体が防衛反応を示すほどの敵意を彼女に向けていました。


姿を見せることもせずに、ただゆっくりと彼女にまとわりついたのです。





一体、何をしたかったのでしょうか。

その答えは、あの何もかもを包み込む暗闇の中、身を潜めた彼だけが知るところです。




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