3 い゛っい゛ー

これは三十代のAさんという方から聞いたお話。

彼がまだ小学生だった時のこと。


小学校の頃、便意を催した時に

出来るだけ人の出入りがないトイレで

すましたいと思っていた方は

多いと思います。


幼いAさんもそう考えていました。


その日、

Aさんはどうしても個室のトイレを使いたくて、人気(ひとけ)のない4階のトイレに向かいました。


「うちの学校は2階と3階が教室で

 4階に音楽室と視聴覚室があるんだ。

 だから、4階には滅多な用がない限り

 誰も行かないからさ、

 4階のトイレなら落ち着いて済ませると

 思ったんだ。」


予想通り、トイレには誰もいません。

小便器が並ぶその横に

扉が開いた個室の和式便器が見えます。


ここなら大丈夫だ、と

迷うことなく入って鍵を閉めました。


用を済ませて

さあ、出ようという時に

どこからか微かな音が聞こえてきました。


い゛っい゛ー


ちゃぷん…

ちゃぷん…


ちゃぷんという水面が波打つような音と

い゛っい゛ーという音が繰り返し聞こえてきます。


一体なんだろうと耳をすまし、Aさんは戦慄しました。


水音に交じって聞こえてくる

い゛っい゛ーという奇妙な響きは

よく聞けば音ではありませんでした。


それは、声でした。


い゛っい゛ー


い゛っい゛ー


それは複数の声でした。

一人ではなく何人もの人が い゛っい゛ー と

言っているのです。


高い声、籠った低い声

それらが重なったなんとも形容しがたい

不気味な声。


「い゛っい゛ーと高い声もあれば

 い゛っい゛ーと低い声もあったな。

 ほんとに例えようがない声でさ。」


気味の悪いことですが

いつまでも個室にいる訳にはいきません。


勇気を振り絞って扉を開けると

そこには誰もいませんでした。


前述した通り、人気のないトイレですから

分かりきっていたことですが

それが余計に恐怖心を煽りました。


誰もいないことが確認できてもなお、

声と音は止むことなく

むしろ、よりはっきりと聞こえます。


(どこから聞こえてくるんだろう?)


辺りを見回して、

あるものが目につきました。


約3メートル先に並んでいる小便器の上に設置された共同の貯水タンクです。


エアコンぐらいの大きさで、

おそらくホーロー製の

古く汚れたベージュ色の貯水タンクから

水の音とあの声が聞こえてくるのです。


音の出所が分かった途端に怖くなり

慌ててトイレを飛び出しました。


そして、すぐに友人と学年違いの弟さんに

4階のトイレで変な声を聞いたことを

伝えました。


話だけでは信じてもらえなかったので

手っ取り早く3人そろって4階のトイレへ。


Aさんが外で見守る中、

友人、弟、それぞれ1人ずつ

トイレに入って確認しましたが

2人とも「そんな音は聞こえない。」

の一点張り。


そんなはずはないとAさんが入ると

音と声が聞こえてきます。

2人に聞こえることを伝えますが

首をかしげるばかり。

聞こえているのは自分だけだと知りました。


聞こえているのにな…と

耳に入る声に意識を集中して

あることに、気づいてしまいました。


これ、い゛っい゛ーって言ってない。

息…息…って言ってる。


い゛っい゛ーと高い声。

い゛っい゛ーと低い声。

そして、ちゃぷんという水の音。


すっかり肝を冷やしたAさんは

事情も伝えず弟と友人を引っ張って

慌てて外に飛び出しました。

そして、二度と4階に近づくことはなかったそうです。


あの4階のトイレの貯水タンクで

一体何が起きたのでしょうか。


それとも、何が紛れてしまったのでしょうか。


なんにせよ、彼らは空気を求め、

誰かに気づいてほしくて

声を上げて助けを呼んでいたのかもしれません。


い゛っい゛ー と。

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