第12話 駆け足
冷房も暖房もいらない穏やかな春の陽気。
空は青く晴れ渡り、雲は白くまばらにふわりと浮かんでいる。
子供たち2人は兄弟そろって友達の家へお泊り中。
学校が春休みではあるけれど、あの子たちのご飯の心配をする必要がない。
旦那は朝から出社して、帰ってくるのはいつも通り18≪ろく≫時過ぎのはず。
本日パートがお休みの私は、洗濯も掃除も終わらせて、買い物に出かけている。
思わず鼻歌を歌いたくなるような気分で街中を運転していた。
運転席の窓を開けているから、歌うのは我慢したけれど。
自宅から少し行けば着くこの街が私は大好きだ。
建ち並ぶ家はどれも洗練されたデザインで垢抜けている。
歩道はサーモンピンクのウレタン、道路はパステルカラーの舗装タイルが敷き詰められていてなんとも可愛らしい雰囲気。
ここまでこの街が素敵なのは、市が掲げる構想のもと最近景観が整えられたからだとか。
ニュースでは、市の考えが先走っていて駆け足で進む政策に市民が置いてけぼりになっていると言っていたけれど、こんなにも素敵になるのなら大歓迎だ。
(早く私が住む町もおしゃれにしてほしいな。なんてね。)
今、前から行きたかったカフェに向かっている。
こんなにも気が楽なのは久々だ。
堪えていた鼻歌の代わり、伸びと共に「んー」と鼻から声が抜ける。
歩道も道路も広くて見晴らしがよく、運転がしやすい。
平日の昼間のせいか自分以外に運転している車はいなかったが、通学路の標識を見て制限速度の時速30kmを守って走る。
(ここら辺、子供がいるんだな。近くに小学校も中学校もあるし、当然か。)
自由に浮かれていたけれど、気持ちを落ち着けて、歩道や住宅に注意を向けながらハンドルを握りしめる。
「あっ!」
数メートル先、右側の建物に挟まれた狭い道から突然、男の子が飛び出してきた。
距離もあったしスピードも遅かったけれど、まるで弾き出されたピンボールのような勢いで出てきたものだから、慌ててブレーキを踏む。
その子はちらちらと振り返りながら足をバタつかせて全速力で走り去った。
その子の姿が見えなくなってようやく心が落ち着き、ほっと息を吐く。
(追いかけっこでもしてたのかな?ほんと危ない。ゆっくり走っててよかった…。)
上の子と同じぐらい、中学校1年生ぐらいの男の子だった。
(あれぐらいの年の子って友達と集まると突然、変な遊びしちゃうんだよね~。もう…、大きいんだから周りも見ないと危ないじゃない。)
さっきよりも周りに注意を向け安全なことを確認し、ゆっくりとブレーキから足を離して車を走らせた。
走り出して数分、運転席側のサイドミラーが気になって目を向ける。
最初は羽虫が飛んでいたのかと思ったが違った。
「うん?」
後方を映すサイドミラー、そこから見える右側の歩道に何か影のようなものが見える。
その影は靄のように淡い黒色で、それが上下に跳ねながらこちらに向かってきている。
近づきその姿がはっきりと分かり、頭の中が真っ白になった。
それは、膝から下しかない人間の両足だった。
シルエットしか分からず女か男か分からないけれど、それが裸足であることは分かった。
それがたったったっと上下に飛び跳ねて走っている。
(な、なにあれ!?)
目が鏡にくぎ付けになる。
自分が一体何を見ているか分からなかったが、それに気づかれてはいけないということだけは感覚で分かった。
影は一定のリズムで跳ねながらこちらに近づき、サイドミラーの映る範囲から外れると、フロントガラスに姿を現すことなくそのまま消えた。
驚いて後ろを振り返ったけど何もいない。
ゆっくりとはいえ走っていた車を追い越して消えるなんて、そんなことあり得るの?
(見間違い…かな?)と首を傾げた。
(あれ?…あ!通り過ぎちゃった!)
子供の飛び出し、変な影の幻覚。
そのことに気をとられて、カフェを見逃してしまった。
(たしかこの先に交差点があるから、そこで曲がろっかな。ま、仕方ない!こんな日もあるよね!)
カフェで飲める美味しい紅茶を思って思わず頬が緩む。
一度冷めた心に、春の陽気のようなうきうきとした気持ちが湧いてじんわり満たされていく。
住宅街を抜け、アスファルトの黒い道路に切り替わった。
100メートルぐらい先に十字路が見える。
(あ、あの子いた。)
ついさっき、飛び出してきた男の子が交差点の信号の柱の側にぴったりくっついて立っている。
その子の無事な姿を見られてほっとした。
あんな飛び出しをする、危なっかしい子。
怪我をしてないか心配していた。
(もう…気をつけてよね。)
信号が赤に変わった。
ブレーキを踏んで停止線に近づく。
「…え?ちょ、ちょっと何してんの…?」
男の子の側に来て、その子がただ立っていた訳ではないことに気づいた。
足を横断歩道の方に投げ出してじたばた動かしつつ、体は柱に必死にしがみついているのだ。
タンタンとステップを踏みながら前に出したかと思うと、地面にこすりつけるように足を引き寄せる…そんな動きを繰り返していた。
目を見開き、何かに怯えているのか強張った顔で自分の足を見ている。
まるで、自分の足が意思に反して動いているような…。
その光景を見て思い出したのは、あの跳ねる黒い足の影。
途端に、全身に汗が噴き出た。
(いやいや、まさかそんな…。)
と前を見て視界にとまったのは、対向車線からこの交差点に向かってきている大型トラック。
それが停車した瞬間、男の子の足が激しく動いた。
体が足の動きに引っ張られて斜めに傾く。
男の子はトラックと足を交互に見て焦り始めていた。
歩道の信号が赤になり、トラックは発進する準備を整えエンジンをふかす。
横に交わる道路の信号が青から黄に変わると、男の子の足はさらにバタついた。
やっと確信した。
足はその子をあの大きなトラックとぶつけようと誘導しているのだ。
(何かしないと、でも、どうしたら?)
とうとう横に走る道路の信号が赤になった。
目の前の信号が青に変わる。
トラックが走り出した。
男の子の腕は限界なのか、縋り付いていた柱から剥がれようとしている。
(どうしよう!どうしよう!)
思考より先に身体が動いた。
左の手のひらがハンドルの中央にのせる。
パーーーーー!
空気を裂いたようなクラクションの音が響き渡った。
ピタッと停まるトラック。
同時に男の子の動きが止まった。
パッ!と後ろからクラクションを鳴らされて、呼吸を整える間もなく発進を促される。
動かない私にしびれを切らして、トラックは加速してすれ違っていった。
まだ、思考は落ち着かない。
代わりに身体が冷静に動く。
ウィンカーを左に出して少し行った先に停車し、男の子の元へと駆け寄った。
お互いに息が上がり、汗だくだった。
対面し、何も言わずに見つめ合う。
言葉はなかったけれど、お互いに今あった出来事を確認したような気がした。
その子を後部座席に乗せて、道案内をしてもらい家に送った。
「…はあ、どうも、ありがとうございます。」
家にいた母親からは不審がられたが、私は男の子が安全な家に帰られたことに安堵した。
結局カフェには行かず、買い物を済ませてその日は帰宅したのだった。
子供たちの春休みが終わり、慌ただしい朝を超えて一息つきながら新聞を読んでいた日のこと。
ある記事が目に留まった。
『マンションから飛び降り 2日午前0時40分ごろ、 X県S市のマンションに住む住民から「人が叫びながら落ちてきた。」と消防を通じて110番があった。…』
X県S市、私達家族が住むこの市のすぐ隣、あのおしゃれな住宅街がある場所だ。
叫びながら落ちてきたとはどいうことだろう?気になって続きを読み、愕然とした。
『駐車場には同市在住で会社員の30代男性が頭から血を流して倒れており、その場で死亡が確認された。階段には引きずられたと思しき男性の靴がこすれたような跡が残っていた。警察は事件と事故両方を視野に入れて捜査している。』
(引きずられた…?靴の跡…。)
鮮明に思い出される、男の子の必死な形相とバタつかせた足。
思わず新聞を放って顔を覆った。
(まさか…まさかね…。)
この記事を読んで以降、何もかもが新しくおしゃれなあの街を避けるようになった。
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