第10話 勿忘草の空
白く輝く太陽から校舎の壁へと柔らかな日光が降り注ぐ。
子供たちがまだ登校していない小学校の校舎で、工藤すみれはいつも通り誰よりも早く職員室に入り、授業の準備をしていた。
教師になって2年目、初めて担任として3年生のクラスを受け持った彼女。
そうとは思えないほど落ち着いた雰囲気があるのは、前職で4年間社会人として働いてきた経験があるからだろう。
工藤は職員朝会が終わると速足で教室に向かう。
彼女が扉を開けると、廊下まで響いていた笑い声が消え、子供たちがそそくさと席に着き静まり返る。
この様子からまだまだ壁があるのが分かるが、すみれは慌てず(子供だからまだまだ警戒しているんだな。)と拒絶ともとれる子供たちの行動を受け入れていた。
授業を淡々とこなし、子供たちの感情に振り回されない彼女でも、最近ある男の子のことで頭を悩ませていた。
最初に気に留めたのは、4月半ばに廊下から見た光景である。
忘れ物を取りに職員室へ行き、戻ってみれば2限目後の中休みで子供たちがわいわい騒いでいる。
その中にぽつんと一人、馴染めていない男の子がいた。
その子は何かを話したそうに口を半開きにしたまま、周りの子達をきょろきょろと見ている。
男女問わず、楽しそうに話したり遊んでいるグループの側に寄って行っては、顔を覗き込んでみるものの輪に入れない様子だった。
積極的に関わろうとしているのだから、あと少しすれば友達も出来るだろうと見守りに徹した彼女だが、数日経ちだんだんとそれが無視できない形になってきた。
その子は、うまく関われないということが分かると、いたずらという形で存在をアピールし始めたのだ。
カーテンを人にぶつかるように広げたり、掃除道具入れの扉を大きく開け放ったり、しまいには教室の後ろに飾っている展示物を床に落とすようになった。
「やだあ!」「またかよ。」
子供たちはそのいたずらが起こると、眉をひそめたり女の子の中には半泣きになったりしつつ、後始末をする。その間、当事者の男の子は自分がしたいたずらの後始末をする子供たちを静かに眺めているのだ。
その男の子は今、横と縦に5列並んだ合計25の席で、一番後ろの窓側の隅に座っている。
みんなが教科書とにらめっこして問題を黙々と解いていく中、教室内をきょろきょろ見渡していた。
(そろそろかしら。)
彼女は鋭い視線をその子に向ける。
すると、見渡すのをやめて机の天板に手をつき勢いよく立ち上がったかと思えば、教室の後ろとぼとぼ歩いて出て行ってしまった。
後ろを通られた沙月という女の子は、怪訝そうにちらっと振り向く。
工藤はおでこに手を当てて首を左右に振った。
子供たちの下校を見送って、職員室で翌日の授業の準備をしていたが、あの問題児の存在がちらついて集中できない。
(これでもう3回目…。次の授業には戻ってくるから放っておいたけど、決まってみんなが静かに問題を解く時に後ろを通るもんだから、沙月ちゃんが手をとめるようになってしまった。他の子に迷惑になるならそろそろ対策を打たないと。でも、どうしたら…。)
片手で額を抑えぐりぐりと揉むがアイデアは一向に出てこない。
「工藤先生。どうされましたか?」
話しかけてきたのは主任の早川だ。
「早川先生。実は…。」
彼女は今までのことを打ち明けた。
「なるほど…。もしかしたらその子はトイレに行きたいのかもしれませんね。それを上手く伝えられないのかもしれません。先生の方からあらかじめ助け船をだしてあげるといいと思いますよ。」
「トイレ…そうか、その配慮は確かに足りませんでした。早川先生、ありがとうございます!」
「また困ったらいつでも聞いてくださいね。」
「ありがとうございます!」
(そっか、トイレか!授業を分かりやすくすることばかりに気をとられて子供たちの気持ちをちゃんと考えられてなかったのかも。)
頭の中に霧のように充満していた戸惑いが晴れて生き生きと準備に取り組めた。
「では、今から
普段ならここまでしか言わないが、昨日の早川のアドバイスを受けて徹夜で考えた台詞を勢い込んで発した。
「何か分からないことがあったり、トイレに行きたいときは手を上げて先生に教えてくださいね。」
子供たちは顔を上げて工藤を見た。
いつもロボットのように授業を淡々と進める彼女から初めて、自分たちを気遣う言葉が出たからである。
「それでは始めてください。」
その言葉に戸惑っていた子供たちは我に返って鉛筆を握り問題を解き始めた。
男の子を除いて。
我関せずといった表情でぼーっと窓の外を眺めていた。
(授業についていけてないのかも。)
声を掛けようと近づこうとした時、その子はまた教室内を一瞥して勢いよく立ち上がる。
その勢いにつられて工藤は思わず大きな声を出してしまった。
「あっ!トイレに行きたいなら言ってくれていいのよ!」
しーんと静まっていた教室に響く、聞きなれぬ工藤の大声と必死な顔。
1人が噴き出すのを皮きりにどっと笑いが起きた。
男の子は工藤を見てにっこりと笑った。
「先生、聞こえてるよ!そんな大きな声で言わなくても。」
「俺、トイレ行きたくなってきたかも!」
授業中に笑い声が出たのは初めてだ。
工藤は子供たちが警戒していた理由は自分が新顔だからではなく、彼らと人間味のある関わりをしてなかったからだと気づいた。
彼女は笑顔を見せるように心がけるようになり、休み時間には一緒に遊んだりと積極的に子供たちに関わるようになった。
その日から、クラスの雰囲気は変わった。
元気よく笑顔で挨拶してくれる子や、授業中手を上げて積極的に発言する子が増えたのだ。
あの男の子も、休憩時間になれば工藤の側に寄ってきて服の裾を引っ張ったりして甘えるようになってきた。
ただ、やんちゃな男の子がふざけて工藤の口調を真似することが増えてしまい新しい悩みの種が出てきてしまった。
彼女はそれに困惑しつつも、生徒との関わりが増えたことを嬉しく感じていた。
月日が流れるのは早いもので、年が明け春を迎える頃には子供たちが進級する日が訪れた。
最後のホームルーム、子供たちが突然立ち上がって工藤が驚いていると、彼らは構うことなく歌を歌い始めた。
それは授業で教えた別れの日に歌う合唱曲。
中には涙を流している子もいた。
一生懸命な姿と歌声に、子供たちの努力と今までの授業や一緒に遊んだ日々の思い出がよみがえる。
「先生、1年間お世話になりました!」
「ありがとうございました。」
子供たちは歌い終えると大きな声を揃えて言って、頭を下げた。
学級委員の子がクラス代表でくれたのはピンクのチューリップの花束。
彼女はそれに顔を埋めて「みんなありがとうね。」と震える声で言いながら、彼らとのお別れという現実に涙を流した。
自分の席でもらった手紙を眺めている工藤に早川が話しかける。
「初めてのお別れですね。」
「え?あ、ああ。…そうなんです。すごく悲しいものですね。…どうしたんですか?」
悲しんでいる工藤を見ながら早川は微笑んでいた。
「いえ、最初は淡々と授業をすることだけに目を向けられていたのでどうなることかと思っていましたので安心しました。子供たちも泣いていたそうですね。子供たちと遊んでしっかりと関わってきた証拠です。お疲れさまでした。」
「…ありがとうございます!」
「ははは。じゃあお先に。」
「お疲れ様です!」
工藤が満面の笑みで見送ると早川は去り際に言った。
「初めての担任、24人の子供たちを見るのは大変でしたでしょう。残業はほどほどにしてゆっくり休んでくださいね。」
早川が満足げに去っていくその背後で、彼女の顔から静かに笑顔が消えていく。
「え?」
早川の言っていることが上手く処理が出来ない。
24人とはどういうことだろうか、彼女の担当していたクラスは縦と横に5列の席が並んでいて全員で25人いたはずだ。
慌てて名簿を探り出し机に叩きつけるように広げる。
「18番田崎…、19番…。」
指で一列ごとに一人ひとり名前をつぶやく。
「23番服部…24番渡辺…。」
そこで名前の羅列は終わっている。
背中を冷汗が伝った。
頭の中でホームルームや授業の光景を思い返す。
廊下側から名簿順で前から後ろに並んでいた。
窓側の一番後ろの席、25番のあの子は自分の記憶にしっかりとある。
しかし、紙には24番しか書かれていない。
(あの子…誰?)
授業中歩き回り、掲示物を落としたり掃除道具入れの扉を意味もなく開けていたあの子の名前がどこにもないのだ。
自分に笑顔を向けて、服を引っ張ったりして甘えてきたあの子の名前が。
(そういえば私…あの子の名前知らない。)
呆然とする頭の中、手の中に握られた手紙に気づいた。
花柄の封筒のそれは、あの男の子が後ろを通るたびに迷惑そうにしていた沙月のもの。
工藤は浅い呼吸を整える間もなく、その手紙を開いた。
『すみれせんせいへ
1年間ありがとうございました。はじめはこわいと思っていたけれどいっしょにあそんでわらう先生が大すきになりました。ずっと言いたかったけれど言わなかったことがあります。みんながもんだいをといているときに1人だけ立ってうろうろしている男の子がいました。わたしはその子がこわかったです。うしろを歩くときにいつも、だめだと言うからです。でも、先生が大きな声でトイレに行くときは言いなさいと言った時、その子は気づいた気づいたって言ってました。
先生がしんぱいです。
い る よ
沙月より』
沙月の可愛らしい文字は綺麗に行間におさまっている。
文章は手紙の上半分だけ書かれていたのだが、その下半分に沙月のものではない、
罫線を無視したバランスの悪い何者かの文字でくっきりと“いるよ”と書かれていた。
手紙を読んで呆然とする工藤の左肩を何者かが掴んで引っ張る。
はっとして振り返るが誰もいない。
彼女はその姿勢で胸を大きく上下してあえぐような呼吸のまま、しばらく身体を動かすことが出来なかった。
もう外はすっかり真っ暗だ。
深い群青の夜の闇が校舎を静かに包んでいた。
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