花はどこにも見えないのに

三枝 早苗

第1話 

 「水野」

美沙緒はノートに書いた恋人の名前をなぞるようにして声にした。彼女が諦めたようなため息をついて卓上ライトの電源をいれると明かりが机に散らばる髪の毛の影をノートにおとした。

 明かりをつけたせいで先程まで薄ぼんやりとしか見えなかった文字がくっきりと浮かび上がる。今しがた自分がスイッチを押したのにもかかわらずその事は美沙緒をイライラさせた。彼女はノートの縫い目に指を沿わせ、文字を書いたページを丁寧に破りとりそれを丸めてゴミ箱に投げ入れた。

 「むかつく」声に出して言う。どうしてわかってくれないのか、どうして自分を愛さないのか、なぜいつも怒ったような顔をしてるのか、なぜ命令しかしないのか、そんなことがぐるぐると頭のなかを回り息が苦しくなる。

「私たちだめなの?」

そんな呟きが震える唇からこぼれた。



 「ねぇ、水野」

自分の名前を呼ぶ声に水野正太は手元の本から顔を上げた。

「それなんの本?」

手元を覗きこむ女の髪の毛が目の前を流れて落ちるのをみた。それは彼女の肩から落ちてもしばらく揺れていた。

「これ」

そういって表紙を見せると、女はそう、といって自分の隣に腰を下ろした。自分の答えに満足しなかったのか一瞬物言いたげな顔をした女はそれに気がつかれていることを知っているのか知らないのか、体操座りをした膝に顎をのせて斜め前をぼおっと見つめていた。

腹が立つ、正太は横目で女、もとい美沙緒を盗み見た。なぜ、言いたいことがあるのに言わないのか、どうしていつも私の顔を窺うような仕草を見せるのか、何にそんなに怯えるのか、私は、お前を殴ったこともなければ、怒鳴り散らしたことも、意地悪も言ったことないだろう、そうなじってやりたかった。

 正太は美沙緒とは13の時に知り合った。小学校の委員会が同じだから知り合った。ただそれだけのことだったが、冷静、勤勉、真面目、冷たい、と称される彼をいやがることなく接する彼女に惹かれた。廊下ですれ違う時に見た笑顔を楽しそうな笑い声を、自分にも向けてほしくなった。

 だから、美沙緒が自分のことを好いているのかもしれないと思ったときどれ程幸福に思ったことか。

 ずっと好きだった。一緒にいたい、もっとたくさんデートをしよう、もっとお互いを知りたい、そういったのはどっちだったか。━━━お前だろう美沙緒。悔しさに追っていた文字が一瞬揺らいだ。

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