プロローグ

 ——ピーンポーン


 玄関のチャイムが鳴った。時刻はまもなく午後六時、そろそろ夕食時だ。こんな時間にいったい誰だろう?ガスコンロの火を止め、インターフォンに映る人物を見た。暗くてよくわからないが、髪が長い。女性のようだ。宗教の勧誘か?少し躊躇いつつ、インターフォンの応答ボタンを押した。


「はい」


 そう一言だけ、短く応じる。


「あ、あの、夜分遅くに大変申し訳ございません」


 やはり女性の声だ。しかもかなり若そうだ。


「私、今日お隣の一二〇五号室に引っ越してきました、櫻木さくらぎと申します。つまらないものですが引っ越しのご挨拶をお持ちしましたので、よろしければお受け取りいただけませんでしょうか」


 インターフォンの向こうの女性は、そう丁寧に挨拶した。一二〇五号室と言えば、隣の角部屋だ。確かに、今日は隣が少々騒がしかった気がする。感じの良さそうな人だし、お隣さんになるのだからこちらも挨拶はしておこうか。


「あ、はい、今出ますね」


 インターフォンを切り、玄関へと向かう。ドアの覗き穴から外の様子を伺ってみた。しかしレンズがくすんでいてよく見えない。くそっ、ちゃんと掃除しておくんだった。ドアロックを外し、鍵を開け、ドアをそっと開いた。


「櫻木です。夜分遅くにすみません」


 ドアが開ききる前に女性はもう一度言った。


「ああ、いえいえ。わざわざご挨拶ありが———」


 その先の言葉が出てこなかった–––––


 色白の肌、細長い手足、長くてさらさらの綺麗な黒髪、丸くてぱっちりとした目、小さめで可愛らしい鼻、うるっとした唇———目の前に立つ彼女は、息を飲むほど儚げで、可憐だった。薄い黄色のワンピースがその可憐さをさらに引き立たせている。目が彼女に釘付けになり、身体は硬直してしまった。裏腹に、心臓はあらぬ方へ飛び出しそうなほど激しく脈打っている。


「あの・・・どうかなさいましたか?・・・顔が赤いようですが・・・。はっ、もしかして風邪ですの?わざわざ玄関先までお越しいただいて申し訳ございません」


 女性が深々と頭を下げる。その声で、どこかへ飛んでいきかけていた意識が舞い戻ってきた。


「えっ・・・い、いえっ!な、な、何でもありません!!あ、その、顔をあげてください!こ、この通り、僕は元気いっぱいですから!」


 咄嗟に、腕を振り上げ肘をまげてマッチョのポーズをとった。女性はキョトンとした顔をしている。ああ、何をしているんだ。絶対にドン引きされた・・・。


「ふふっ・・・おもしろい方・・・なんですね」


 女性はくすっと笑った。無邪気な笑顔が可愛い。


「私、櫻木小鞠さくらぎこまりと申します。何かとご迷惑をおかけするかもしれませんが、よろしくお願いいたします。つまらないものですが、こちらをどうぞ」


 そう言って、櫻木さんは紙袋を差し出した。


「あ、あぁ、これはご丁寧にありがとうございます」


 差し出された紙袋を受け取る。少しずっしりとして重い。受け取るとき、わずかに指と指が触れてドキドキしてしまった。


「あぁ、ぼ、僕は水野陸久みずのりくです。こ、こちらこそ、よよっ、よろしくお願いします!」


 勢いよく身体を直角に曲げて礼をしてしまった。野球部の試合か!


「水野さんは・・・体育会系の方ですの?」


 櫻木さんは少し不思議そうな顔をしている。


「えっ・・・いえいえいえっ!僕なんかただの、ただの万年帰宅部でしてっ!」


「あら、そうですの。それは失礼いたしました。とてもお元気がよろしいので何かスポーツでもなさっているのかと。ところで大変不躾ではごさいますが、水野さんは学生さんですの?お見受けしたところとてもお若いようですが」


「あぁ、はい。四月から高校生になります」


「やはり、そうなのですね。実は私も同じです。どちらの高校ですの?私はひいらぎ学園高校なのですが」


「柊学園なんですか?僕も一緒です!」


「あら、こんな身近に同級生がいらっしゃるなんて心強いですわ!私、実は初めての一人暮らしでとても不安でしたの。でも、少し安心しましたわ」


 櫻木さんは胸に片手を置き、少し首を傾げて微笑んだ。仕草ひとつをとっても、可愛らしさが滲み出している。しかし、こんな可愛い子が一人暮らしだなんて心配だ。可愛い子には旅をさせよとは言うが、親は少々不用心じゃないだろうか。


「一人暮らしなんですか?それは・・・大変ですね。僕の家は父と二人暮らしなんですが、父は今長期の海外出張中で。実は僕も今は一人暮らしみたいなものなんです。だから、も、もし何か困ったことがあれば何でも聞いてください。一人暮らしには慣れているので、何でもお手伝いします!そ、その何かと物騒な世の中ですし、女性の一人暮らしというのは、いろいろと危ないこともあると思うので・・・しかも、櫻木さんのような、そ、その・・・」


 可愛らしい方、なんて言っても良いだろうか。


「私のような、何ですの?」


「あ、えっと・・・櫻木さんのような、一人暮らしが初めてだという方は特に困ることもいろいろとあると思うので・・・本当にちょっとしたことでも僕に聞いてください。いつでも構いませんから」


 結局、チキンぶりを発揮して無難なことしか言えなかった。


「はい、ありがとうございます、水野さん。お隣の方がとても親切な方で良かったですわ。今後ともよろしくお願いいたしますね」


「ええ・・・こちらこそ」


「それでは、お夕食のお時間ですから、そろそろ失礼いたしますね。ごきげんよう」


「ご、ごきげんよう」


 櫻木さんは綺麗に一礼して去って行った。



***



 部屋に戻ってからというもの、夕飯作りに戻る気になれず、リビングのソファに膝を抱えて座っていた。櫻木さんのことを考えると頭がぼうっとする。胸が高鳴る。そして顔が緩んで笑みがこぼれてくる。


 それにしてもさっき、もしも櫻木さんに「可愛らしい」と言っていたら、いったいどうなっていただろうか。もしかしたら櫻木さんも顔を赤らめて照れたりしただろうか。櫻木さんが手を頬に当てて少し俯き、上目遣いで「そ、そんな、可愛らしいだなんて・・・」と言っている様子を想像してみる。


「うわあぁぁぁ!ヤバい!」


 クッションを手に取り、顔を埋めて叫んでしまった。可愛い、可愛すぎる!


 いや、少し落ち着け。あの状況で可愛らしいなんて言ったら、初対面の女の子に軽々しく声をかけるチャラい男だと思われたかもしれない。今度は櫻木さんが腕を組み、頬をぷくっと膨らませて「もう、そういうの嫌いですわ」と言っている様子を想像した。


「あぁぁぁ!」


 想像上の櫻木さんがあまりに可愛い。じたばたしていたら勢い余ってソファから転げ落ちてしまった。心臓の鼓動を全身に感じながら床に寝そべり、天井を見上げる。背中からフローリングの冷たさが伝わってくる。火照った身体に心地よい。目を閉じると、櫻木さんの笑顔が浮かんでくる。ああ、僕は・・・僕は・・・。


「僕は・・・櫻木さんのことが好きだぁぁ!!!」


 気づけばそう口にしていた。心臓が爆発しそうなほど激しく脈打っている。もう今すぐにでもお隣に行って、櫻木さんの顔をもう一度見たい、会って話がしたい。


 ——ピーンポーン


「うおっ!?」


 玄関のチャイムが再び鳴り、僕は間抜けな声を出してしまった。こっちは真剣に櫻木さんのことを考えているというのに、邪魔するなんていったい誰だ?けしからん奴だ。そう心の中では悪態をつきつつ、スキップしながらインターフォンへと向かっていた。


「はい!どちら様でしょうか?」


 どちら様でしょうか、なんて普通は言わないのだが、気分が高揚していたのでつい余計な一言をつけてしまう。


「櫻木です」


「ひゃいっ!?」


 何で櫻木さんが!?


「あ、あの水野さん、早速なのですが少し分からないことが」


「ひゃっ、あっ、ちょ、ちょっと待っててください!」


 なんで、なんで櫻木さんが・・・。洗面台へと走り、髪を整え、鼻毛が出ていないかチェックする。確かに分からないことがあれば何でも聞いてとは言ったが、こんなに早く来るなんて・・・。しかもこのタイミングで。テレパシーでも送っちゃったか?ま、まさか、櫻木さんも僕のことを・・・いや、そんなはずは・・・。


 洗面所から玄関までの七歩の道のりがとても長く感じられた。このドアの向こうに櫻木さんがいる。どんな顔をすれば・・・いや、変に表情を作るな・・・でも真顔というのも・・・ああ・・・わかんねぇ・・・。


 ドアの目の前に来てしまった。もう、一か八か出るしかない。ゴクッと唾を飲み込んでからドアロックを外し、鍵を開け、そっとドアを開いた。


「お、お呼びでご、ござるか?」


 ———僕は武士になったようだ。二人の間に沈黙が流れる。口を開けたまま固まり、どんどん赤くなっていく僕の目の前には、先ほどと同じく可憐な櫻木さんがいる。しかし、彼女の顔はものすごく悲しそうだ。


「あの、水野さん・・・」


 ああ、もうダメだ・・・。


「はい!申し訳ございませんでした!」


 僕はまた勢い良く頭を下げた。


「何を謝っていらっしゃるのですか?」


 頭を下げたまま首をひねって櫻木さんを見上げた。櫻木さんはまだ悲しそうな顔をしている。


「何をって、櫻木さんは残念な僕のことを哀れんでいるのでは?」


「何のことでしょう・・・?それより、お尋ねしてもよろしいでしょうか・・・どうかされましたか?」


 呆気にとられる僕を、櫻木さんは首を傾げながら見ている。まさかさっきの武士に気づいていない・・・?ああ、なるほど無視されたのか。それはそれでつらいぞ。


「え、いえいえ。えっと・・・質問・・・ですよね。どうぞ」


「ありがとうございます。実は、その・・・」


 櫻木さんはなんだかもじもじしている。少し顔も赤いようだ。あれっ?櫻木さん、照れているのか?これはまさか・・・もしかすると・・・。


「あの、実は・・・お夕食が出てこないのですが、どうしてなのでしょうか?」

 櫻木さんは少し涙目になりながら、真っ赤な顔でそう言った。その瞬間、お腹がギュルルと可愛らしい音を立てる。


「えっ?」


 これが、櫻木さんとの出会いだった。

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