水虎

 しと、しと、雨が降る。

 小さく水面を揺らすだけだった滴は次第に一面を波紋で埋めるほどになる。空は重たく鼠色の雲に包まれて、湿っぽい空気が充満していた。遠くの方で雷の音も聞こえてくる。

「こりゃあ嵐になるかもしれんなぁ」

「子供らを家に入れろ」

「おい、紅里(あかり)はどこ行った!まぁたあいつ川へ行っとるんじゃあるめぇな」

「金次(きんじ)のとこでねぇか?」

「いや、金次は母親の看病で忙しい言うとったから違うじゃろ。きっと川で遊んどるわ」

 白髪混じりの頭をがしがしと掻きながら、男は苦々しい顔でそう呟く。迎えに行ってくると言って傘を被ると、雨の中を進んでいった。そうこうしているうちに雨風はどんどん強くなる。

(まったく世話の焼ける娘じゃ)

 加之助(かのすけ)は眉間に皺を寄せ、厳しい表情で進む先を見据えた。飛ばされそうになる傘を押さえながら、川の近くで紅里を呼ぶ。雨で増水した川は濁流となって、ごうごうと音を立てていた。苔むした河原の石は滑りを帯びている。足を滑らせればあっという間に呑まれるだろう。

「紅里ー!けぇるぞー!」

 ようやく見つけた少女に向かって、加之助は雨音に負けないよう声を張り上げる。届いた声に少女は辺りを見回すと、男を見つけて満面の笑みを浮かべた。

「あ、じっちゃ!」

 これだけ叩きつけるような雨が降っているというのに、紅里は張り付く前髪もぐっしょり濡れた着物も気にせず川のすぐ側で遊んでいる。増水した川が危険なことは知識として承知していても、自分の身が今まさに危険に晒されているとは夢にも思っていない様子だ。加之助は足元に気をつけながら一歩一歩少女に近付く。相手が動く気がないのなら迎えに行くしかない。

 あと一歩で手が届くというところまで来た時、不意に風が強くなった。加之助は慌てて攫われそうになる傘を押さえる。思わず閉じた目を雨から庇いながらゆっくり開けると、そこにいたはずの紅里の姿がない。血の気が引くのが分かった。

 大声で名前を呼んだが返事は聞こえない。川の流れは勢いを増していて、もし幼い子供が巻き込まれればひとたまりもないだろう。

「言わんこっちゃねぇ……っ」

 本当に流されてしまったのか。しかし、そうだとしても今の川に飛び込めば加之助とて無事では済まない。

「紅里……!!」

 絞り出した男の声は雨音に呑まれて力なく沈んだ。


***


 男が一人歩いていた。黒髪に黒い着物、非対称の前髪は顔の左半分を覆い隠すように喉元まで伸びている。目元には隈が縁取り、覗く瞳は血のように赤い。腰に差した刀は、黒い鞘に流水を象った鍔、柄巻は牛革。男が持ち歩くにはやや細身のその刀は、ほとんど抜かれることなく鞘に収まっている。

 口の左端から頬にかけて走る傷跡を無意識に指でなぞるのは男の癖だ。前世でつけられた傷は転生した後も残り、時折こうして過去を思い出させた。

 男の正体は漆黒の巨軀を持つ大蛇である。時には恵みの雨を降らせ、時には川を氾濫させた。人探しの旅に大蛇の姿は不向きなため人の姿をとって行動しているが、眠る時は蛇体に戻るので身を休める場所を求めて隠れなければならなかった。

 かつて洞窟の奥で暮らしていた頃は外を出歩くなど考えたこともなかったし、手足の必要性も感じていなかった。その考えを覆すきっかけとなったのは雪姫という退治屋の娘だったが、彼女との関わりの中で人と共に生きることの難しさに行き当たり、拒絶を受けて人に化ける能力を捨ててしまった。それから暫くして、雪姫によく似た風貌の退治屋の娘・深雪と出会った。理解者になってくれるかもしれないと思ったのも束の間、深雪は死んでしまった。大蛇は、手を差し伸べることも出来ず目の前で失った少女と心中することを選んだ。

 満月の夜に心中すると結ばれる、と聞いたのは転生した後のことだ。紀州だけでも人の数は山ほどいる。その中から運良く出会えたとして、前世の記憶があるかどうかも分からない。それでも見つけ出したかった。確かにあれは満月の夜だったのだ。

 川沿いに歩いていくと、古い堂のようなものが見えた。やや壁が朽ちてはいるが、人の気配もなく一夜くらいは過ごせそうだ。大蛇はここを今夜の寝床と定めて中に入り、帯から刀を抜く。ふ、と一つ息を吐き、埃を被った床を軽く払って腰を下ろした。

 目を閉じると周囲の気配がより鮮明になる。近くに害なす者がいないことを確認して、男は変化を解いた。ぬらりとした黒い巨躯が蜷局を巻き、古堂を満たしていく。思っていたより窮屈さもなく、次第に意識が遠くなる。微睡みに身を任せ、大蛇は眠りに落ちた。


***


 嵐が過ぎた。空はからりと晴れ上がり、雲ひとつない。川は穏やかに流れ、空の青さを水面に映し出している。

 紅里が目を開けると、そこは川の底だった。咄嗟に状況が飲み込めず、何度か目をぱちくりとさせる。視界を魚が横切ったことでようやく自分が沈んでいることに気付き、慌てて口を覆うが不思議と息は苦しくない。こぽり、と漏れた泡が水面へと昇っていく。

 視線の先が明るいところを見るに今は真昼間なのだろう。水の中で呼吸ができている奇妙な状況に混乱しつつ、紅里は顎に手を当て記憶を辿った。

 確か川の近くで遊んでいたはずだった。家から持ち出した手作りの竿で、釣れもしない魚を追いかけていたのだ。最初の餌はあっという間に食われ、仕方なく懐に忍ばせていた胡瓜を齧って釣針につけたことも覚えている。手元にはもう胡瓜は残っていないので、結局まるまる一本を川へ投げ入れたことになる。胡瓜は瑞々しくはあるが魚たちの好物ではないだろう。

「河童でもいたのかな」

 それなら千切らずに一本そのままくれてやれば良かったかしら、と紅里は独り言ちる。

遊んでいるうちに嵐になった。祖父である加之助が迎えにきてくれたのだが、急に吹いた突風に煽られて足を滑らせ川に転落した後の記憶が途絶えている。頭を打ったのかもしれない。

 幸い、川はそこまで深くなかったようで、子供の紅里でも穏やかに流れている今なら充分岸へ辿り着けた。元いた場所からも然程遠くなさそうだ。濡れた髪と服を絞り、太陽の下で乾かす。ふと、髪を縛っていた臙脂色の組紐がないことに気付いた。町へお使いに行っていた金次からお土産に貰ったもので気に入っていたのだが、さすがに見つからないだろうと紅里は肩を落とす。

 金次は血の繋がりもなく歳が少し離れているが、両親を亡くした紅里にとって実の兄のような存在だ。病気がちの母親のために毎月薬を買いに出かけており、自分が倒れてはならないと鍛練にも余念がない。里でも期待される新鋭である。

 紅里は祖父の家で生活しており不自由はないが、幼いこともあってまだ自分の武器は持たせてもらえていない。御守りに、と五歳の誕生日に贈られた小刀は帯の内側に縫い付けてあったおかげで無事なようだった。子供でも突き刺すことくらいは出来る。鞘に美しい彫刻が施されたその護り刀は里に語り継がれる彫り職人の作で、里長の子供に代々受け継がれていた。護り刀を里に持ち込んだのは職人がいた村から逃げ出した男女の子供だったと伝わっている。技術が失われた今ではもう同じものは作ることが出来ないのだという。一本は紅里の手元に、もう一本は蔵の奥で清められた桐箱に収まっている。

 髪と服があらかた乾いたところで、紅里は背中を反らして伸びをした。やわらかに吹く風に晒されて横髪が揺れる。

「じっちゃ心配してるかな……」

 早く帰ろうと立ち上がった瞬間、ぽちゃんと音がした。水面には波紋が広がるのみで、生き物の姿は見えない。魚でも跳ねたのかと思い直し、紅里は小走りに家路を急いだ。

「紅里が帰ってきたぞ!」

「どこ行ってた」

 口々に心配しながら、しかし迎える人々の顔は安堵に満ちている。中でも加之助は紅里を見るなり荷を放り出し駆け寄って腕の中へ掻き抱くと、良かったと繰り返した。

「もう勝手に出歩くんでねぇ……頼む……」

「うん、ごめんね」

 紅里はその日から三日の間は大人しくしていた。だが彼女は遊びたい盛りの十に満たない幼子であった。大人がいると思いきって遊べない。悪いとは思いつつも、紅里は加之助の目を盗んで家を抜け出した。

 ふと思い立って、出る前に台所に寄り胡瓜を一本懐へ入れた。もう一本持っていこうかとも思ったが、小さな懐からは溢れてしまいそうだったのでそっと戻した。

 川に着くと胡瓜を半分に折って片方を投げ入れた。緑色の野菜は暫く水面を漂っていたが、じっと目を凝らしていると水底へ引き込まれるように急に沈んだ。魚の影は見当たらない。

「……?」

 紅里は不思議そうに首を傾げ、残り半分の胡瓜も川へ落とした。今度はすぐに勢いよく水中へ沈んでいく。それもただ沈むのではない。ざぶりと音を立てて一度水面が持ち上がり、見えない何かが掴んで持っていったかのように見えた。

「やっぱり何かいる」

 確信した紅里は、追加の胡瓜を取りに帰ろうと立ち上がり踵を返した。だが、くるりと振り向くと眉間に皺を寄せた男の姿が目の前に現れて紅里は息を呑む。

「姿が見えんと思って探しに来たが、やっぱり抜け出しとったな。じい様の言い付けを守らずこんなとこで何しとる」

「金次兄ちゃ……」

 叱られる、と思い紅里は目を瞑った。しかし予想していた衝撃は訪れず、代わりに優しく温かい腕に包まれる。

「もうすぐ昼飯の時間だ。けぇるぞ。みんな心配しとる」

「うん……」

 紅里は金次の手を握り、帰路につこうとした。その瞬間だった。ぐい、と何かに着物の裾を引かれて、紅里は足を滑らせた。金次の力強い手が、川へ引き込まれようとする紅里をなんとか岸に留める。暫し競り合っていたが程なくして急に力が緩まり、反動で紅里ともども金次は地面へ投げ出された。

「紅里、肩大丈夫か。強くしちまって悪かったな」

 乱れた着物を整えてやりながら、金次は申し訳なさそうに眉を下げる。咄嗟に握っていた手を強引に引き寄せたので、肩を痛めていないか気を遣っているのだった。

「少し痛いけど大丈夫。このくらい平気だよ」

「帰ったら貼り薬を出してやるから、ちと辛抱してくれ。護り刀はちゃんと持ってるか」

「うん」

「大事なもんだ。こないだ川に落ちて助かったのもそのおかげに違いねぇ。肌身離さず、な」

 背負っていこうかと提案されたが、紅里はそれを丁寧に断って金次の腕にしがみついた。背負われたら顔が見えない。

「今日のお昼は何だろね」

 先程のことなどすっかり忘れてしまったかのように笑顔で昼飯の話をする紅里を眩しそうに見つめ、買い出しの後だからちいとばかし豪勢かもしれんなと金次は笑う。その顔は穏やかだったが、去り際に後ろを振り返り睨む視線は鋭かった。


***


 大蛇が眠りから覚めて川沿いに歩くこと半日。見つけた集落は、南伊勢の五ノ浦の淵で牛鬼たちから聞いた退治屋の里だった。一見すると普通の村落にも見えるが、どの家も武器を備え討伐となれば防具を装う。子供でも十を超えれば自分の武器を持たされた。

 大蛇とて不用意に里に入り込んだわけではない。外からでも分かる手練の気配は、容易に踏み込めない領域であると感じさせるには充分だった。

 きっかけは一人の少女が周囲を警戒しながら抜け出してきたことだ。見た目からして十にも満たない幼子が何かを懐に抱え、川の方へと一目散に走っていくのを見て追いかけてみようという気になった。

 少女は川に着くと懐から出した胡瓜を半分に割って投げ入れた。何か魚でもいるのかと思ったが、違うようだった。水面が持ち上がり、とぷんと胡瓜が水中へ沈んだ瞬間、大蛇はその正体に気がついた。

(水虎か)

 大蛇の推察が真ならば子供は格好の獲物だ。攫われれば生き血を吸われて体だけが返される。人には水虎の姿が見えない。忠告すべきだろうか、と考えていると少女を探しにきたらしい男が現れた。

 物陰に身を潜めたまま大蛇は聞き耳を立てる。これから昼飯なのだという。他愛のない会話はすぐに終わり、二人が帰ろうと川に背を向けた瞬間、僅かに水が跳ねる音がした。

勢い良く川へ引き摺られる少女を男が必死に引き戻す。やがて水虎が諦めたのか反動で投げ出された二人は、互いを気遣いながら里へと帰っていった。

 大蛇はその後を尾けて里に入ろうと試みて足を止めた。里を囲むように護符が一定の間隔で貼られている。無論、大蛇は護符一枚に焼かれるような弱小な妖ではないが、大妖と呼べるほどの力もない。争うことを考えれば蛇体に戻るべきなのだろうが、それでは人探しの目的と食い違う。どうしたものかと考えを巡らせていると、何やら男の叫び声が聞こえた。

「金次、けえったか!早く来てくれ!!」

「どうした」

「伝吉(てんきち)の娘っ子が死んだ」

「……!妖か?」

 眉間に皺を寄せた金次が問うと、男は分からないというように首をひねる。他の者は無事なようだった。

「何か心当たりは」

「それも分からん……なかなか起きてこんで布団を剥いだら真っ青な顔で死んどったと」

「伝吉は話せるか」

「あぁ」

 紅里を長のところへ、と指示して金次は伝吉の家に向かった。大蛇も様子を探るべく何食わぬ顔で金次を尾行することにした。里の内部は妖に入り込まれたためか出歩く者もおらず、皆家の内に閉じこもっていた。気配を気取られぬよう注意を払いながら、次第に奥へと入り込んでいく。殺気は感じられない。意外と気付かれないものだなと大蛇が思っていると、前を行く金次が足を止めた。視線の先には納屋のような建物があるだけで、中に人の気配はしない。

「………」

 金次は沈黙のまま踵を返し、ゆっくりと大蛇がいる方向へ戻ってくる。陰から様子を窺っていた大蛇は金次が通り過ぎるのを確認して再び後を追おうと動いた。

「いるな」

 振り向きざまに数本の苦無が大蛇を襲うと、金次は素手で殴りかかった。

「っ……!」

「誰だお前」

 抜刀より先に組み伏せられて、鳩尾に強烈な拳を食らう。この時ようやく大蛇は誘い込まれていたことに気づいた。どうりですんなり里に入れたわけだ。いつの間に集まったのか周囲には殺気を纏った影がいくつも待ち構えている。

「何の妖だか知らんが、里を脅かすものは許さねぇ。殺せ!」

 その一言を皮切りに武器が一斉に迫る。押さえつける金次の力は人間離れして強く、抜け出すために大蛇は蛇体に戻ることを余儀なくされたのだった。


 ずるり、ずるりと漆黒の巨躯をぬらつかせながら大蛇は血を流して体を引き摺り逃げた。こんなはずではなかった。嫌でも前世の記憶が蘇る。殺せと叫ぶ人間たちの声が纏わりつく。

 もうずっと食事らしい食事をしていなかった。人間は食わないと決めていたし、満腹になるほど動物を狩るのも躊躇われて、最低限しか食べなかったのだ。力が入らないのも当然のことである。しかし、それで死んでしまっては元も子もない。追い詰められた大蛇は何とか水辺までたどり着いて難を逃れた。

「つくづく、この妖の身は人探しに向いていないな」

 だが、一つ手がかりを見つけた。少女が肌身離さず持っているという護り刀。南伊勢の五ノ浦の淵で牛鬼たちから聞き出したこの里にはやはり何かある。できれば穏便に里長から話を聞きたかったが、里の中で正体を明かしてしまった以上探るならば紅里からだ。あまり期待はできないが、もしかすると誰かから何か聞いているかもしれない。

 大蛇は塞がり始めた傷の痛みを誤魔化すように、一つ息を吐いた。


***


「逃したか」

「深追いするな、怪我人出さずに追い払えただけで充分だ」

「あぁ……して、伝吉の娘っ子はあいつにやられたんか?」

「……さぁ、どうだろうな」

 金次は落ちた苦無を拾い上げると、軽く血振りして袖で拭った。

「ひとまず伝吉に会おう」

 訪れた家の軒先で伝吉は憔悴しきった顔で立っていた。布団に横たわる娘の顔は蝋のように白い。だが体に目立った傷痕はなく、まるで血液だけがごっそりと吸い取られたかのように血の気がなかった。大蛇に咬まれたのならば咬み痕があるはずだがそれもない。

「……こりゃあ水虎だ。奴らは姿を隠す。伝吉が気付かなかったのも仕方ねぇ」

「見えねぇならどうやって倒す。あの大蛇と一緒に来られたら面倒だな」

 金次ともう一人の男が話しているのを、伝吉は呆然とした面持ちで聞いていた。何に殺されたのかは彼にとって些末な問題だ。愛しい娘が死んだという事実がただ重くのしかかっている。

「殺す方法はあるにはあるが……」

 先を言い淀む金次が伝吉を窺い見た。

 水虎を退けるには、血を吸われた遺体を葬らずに草庵の中に安置しておく必要がある。誘き寄せられた水虎は草庵の周りを徘徊し、遺体の腐敗とともに水虎の肉体も腐る。そうして腐りきって死ぬと、水虎は漸く姿を現すのだ。

 娘が腐っていくのを放置しろというのだから、伝吉には酷な方法である。案の定、話を聞いた伝吉は首を縦には振らなかった。

「金次のことは信用している。妖怪に詳しいことも周知だ。とは言えど、その案は承諾しかねる。放っておけばまた死人が出るかもしれんと頭では分かるが、心が拒むのだ。すまん……俺には耐えられない」

 どうしてもというなら俺を殺してからにしてくれとまで言われては、金次たちも無理強いできない。娘は丁重に葬られた。

 次の日の晩、また幼い子供が犠牲になった。死んだ子供は伝吉の娘と仲が良かった。伝吉は自分を責めて心を病んでしまった。

 今度こそ、と金次は娘の親を説得したが応じてもらえなかった。水虎は人の目に映らず、退治するのに腕っぷしの強さは関係がない。ここで被害を食い止めなければ格好の獲物として目をつけられた里の子供は死に続けるだろう。

 この里の葬儀は土葬だ。金次は埋葬するという意見に一度は首肯したが、夜更けに一人起き出し鍬を手に取ると墓を掘り返した。娘の死体の代わりに動物の死骸をいくつか置いて、上から分からないようにまた埋め戻しておく。里のためとはいえ良心が痛んだが、金次は余計な考えを振り払って死体を持ち上げた。

 草庵を新たに作るとすぐに見つかってしまうので納屋の中に安置することにした。死体が腐るまで何日かかるか分からない上に、水虎が死ぬまで腐敗臭も隠し通す必要がある。だが、納屋で金次が妖怪の解体を行なっていることは皆知っているので、仮に臭いが漏れたとしても納屋から異臭が放たれていることを咎める者はいないだろう。他の者にこの苦行を背負わせるわけにはいかない。なんとか一人でやり遂げなければ。

(難儀な相手に目をつけられたもんだ)

 土気色の娘に向かって祈るように手を合わせると、金次は静かに自分の家へと戻った。


***


 ぐるり、ぐるり、ぐるり。

 二日続けて腹一杯になったはずが、どうにも食い足りない気になって水虎は吸い寄せられるようにまた里へ入り込んだ。昨日殺した子供の体にはもう吸える血は残っていないのに、どうしても納屋の周りを離れられない。

 ぐるり、ぐるり、ぐるり。

 ぐるり、ぐるり、ぐるり。

 来る日も来る日も、納屋の周りを徘徊し続けた。人にその姿は見えず、誰にも知られないまま死体とともに腐敗していった。水虎は生まれて初めて、〝死にたくない〟と思った。

 ぐるり、ぐるり、ぐるり。

 姿は見えずとも声だけは人にも聞こえる。しかし、普段から納屋に近づくのは金次くらいのもので、水虎のか細い声は黙殺された。腐りかけた少女の肉と下に敷かれた茣蓙に染み付いた腐汁は酷い悪臭を放って、金次ですら顔を顰めるほどになった。

〝死体を……埋めてくれぇ……〟

 紅里がその声を聞き取ったのは偶然で、跳ね回る蛙を追いかけて納屋の前まで来た時だった。あまりにか細くて最初は聞き間違いかと思ったが、立ち止まって耳を澄ますと確かにそう言っていた。同時に鼻の奥に突き刺さるような酷い腐臭に襲われて、紅里は両手で鼻と口を覆った。金次から納屋には近付かないように言われていたので、怒られると思い踵を返そうとしたところに再び水虎の声が聞こえた。

〝たす、けて……〟

「誰かいるの?」

 鼻を摘んだまま、口を少しだけ開けてくぐもった声で問うと、声は「たすけて」と繰り返す。紅里はあまり物怖じしない性格の子供であった。豪雨の中、川で遊んだ時も、溺れた時も、河童のような何かに気付いた時も、そして今も。大声で助けを求めたりはしない。紅里は口を覆っていた片手を離して、そっと納屋の戸を引き開けた。そこには、腐りかけた子供の死体があった。

「ひっ……」

 息を呑んだせいで腐臭を肺まで吸い込んでしまい、紅里は咽せる。大人でも刺激の強い光景にさすがの紅里も気が動転した。慌てて納屋の戸を閉めると、今度こそ走ってその場から立ち去る。

 家に帰ってからも心臓が早鐘を打ち、なかなか上がった息が整わなかった。布団に潜り込んで一刻ほどじっとしているとようやく落ち着きを取り戻す。しかし、見てしまった死体が脳裏に焼きついて離れない。

(どうしよう、どうしよう。妖怪の仕業かしら。金次兄ちゃんに相談してみようか。でも、心配させてしまうかも……)

 あの死体はきっと、さや子だ。暗くて顔ははっきり見えなかったけれど見覚えのある着物を着ていた。加之助の元へ報告に来た金次の声がしたが、悩んだ末に紅里は狸寝入りを続けた。その後、罪悪感に苛まれて寝付けない紅里が再び納屋を訪れたのは、丑三つ時の話であった。


(……あと少しの辛抱だ。乗り越えればこの子の死も報われる)

 そう思っていた矢先、早朝にいつものように様子を見にきた金次は、納屋の前に小さな足跡があることに気付いた。嫌な予感がした。慌てて納屋の戸を引き開けると、そこに娘の死体はなく、代わりによく知る少女が倒れていた。

「紅里!!なんでここに……っ」

 死んでいるかと見紛うほど青白い顔色で、小さく浅い呼吸を繰り返している。紅里が生きていることを確認した金次は安心したように一つ息を吐いたが、不可解な状況に眉根を寄せた。昨晩に金次が里長である加之助の家へ立ち寄った時には、紅里は確かに寝床にいたはずだ。もう一つ不可解なのは、娘の死体がなくなっていることだ。納屋の中に踏み荒らされた跡はない。強いて言うなら、死体を乗せていた茣蓙が少し盛り上がって……。

「……!」

 弾かれるように金次は茣蓙をめくった。この納屋の床は地面そのままだ。そこには、真新しく掘り返された土が埋め戻された形跡がある。金次は躊躇いなく手を突っ込み、触れた塊を引き摺り出した。腐り溶けた皮膚が張り付いた頭蓋骨は、わずかに娘の面影を残している。

「畜生……これでまた振り出しに逆戻りだ!いったい誰が……!!」

 あと少しで水虎を殺せるはずだった。死体が埋められてからどれだけ経ったか分からないが、形はどうあれ娘は土中に葬られた。水虎は逃げおおせたに違いない。怒りに震える金次は、紅里の呻き声で我に返った。

「大丈夫か!しっかりしろ」

 うっすらと目を開けた紅里は二、三度瞬きをして金次を見上げる。

「さや子は……お墓に入ったんじゃなかったの」

 実の兄のように慕う大好きな顔に隠しきれない動揺が走ったのを紅里は見逃さなかった。金次に向かって伸ばした紅里の指先はひどく汚れている。

「紅里……まさか、お前が」

「……金次兄ちゃん、どうして」

 弱々しい紅里の声に金次は顔をぐしゃりと歪めながら懺悔する。さや子は紅里ともたいそう仲が良かった。骨と皮ばかりになって軽くなったとはいえ幼子が埋めるには大仕事だったに違いない。何より、それを実行した紅里の気持ちを思うと、金次は胸が張り裂けそうだった。

「さや子は水虎に血を吸われたんじゃ。奴を殺すにはこうするしかなかった。放っておいたらまた別の子供が犠牲になる……」

 すまん、と繰り返しながら、金次は紅里を抱いて涙を流した。

 幸い、紅里はひどい貧血ではあったが里の者が甲斐甲斐しく世話を焼いたおかげでみるみるうちに回復した。里の外壁の護符を倍に増やし、家の戸の前には水虎を退けるという鎌を立てかけ、大人たちは交代で起きて夜通し見張りをした。


 紅里が死んだのは、それから少し経ってのことだった。


***


 ぽちゃん、と投げ入れた餌に珍しく小魚が食いつく。だが、紅里が勢いよく竿を引き上げた時にはもう逃げられていた。川の中にはこんなにもたくさん魚が泳いでいるのに、何度投げ入れても魚たちは紅里を嘲笑うように餌だけを奪って逃げていく。金次に教わった通りにしているはずなのだが、紅里の竿はいまだに獲物を釣り上げたことはない。

「何がいけないんだろ」

 金次にも加之助にも川へは行くなと散々言い含められてはいたが、子供の好奇心は止められない。元気になった紅里は、性懲りもなく里を抜け出していた。

「そういえば、河童まだいるかなぁ」

「……その川に河童はいない」

 突然背後から声がして、紅里は勢いよく振り返った。そこに立っていたのは長い前髪で顔の左半分を覆い隠した男。目の下に刻まれた深い隈は、男の表情をより暗く見せる。

「だぁれ?」

「通りすがりの流浪人だ」

「この川には何がいるの?」

 不思議そうに聞く紅里に対して、大蛇は少し間を持たせて答えを提示した。

「……水虎」

 伝吉の娘を殺し、さや子をも殺した妖怪の存在を聞かされて、紅里の顔が明らかに強張った。知っているのかと紅里が問おうとした瞬間、ぱしゃりと水が跳ねる音がして瞬きの間に紅里の体が攫われた。水中へと引き摺り込まれる刹那、大蛇は着物の帯をかろうじて掴んだが、緩んだ帯が解けて振り切られる。

「ちっ……おい、聞こえてるんだろう!その女を返せ!」

 男は一つ舌打ちをして、川へ向かって声を張り上げた。水虎はその姿を視認できないが、声だけは聞こえる。ぬるりとした声が返事をした。

「大蛇よぅ、この童はおりの獲物だ。おりが食う。邪魔するな」

「俺はそいつに用があるが、別に食うために追いかけてるわけじゃない。話の途中だ。一度こちらへ渡せ」

「信用できない」

「だったら俺が来る前にさっさと食ってしまえば良かっただろう。情が湧いたか?」

「……」

 図星だったのか、水虎は喋らなくなった。何度か大蛇が呼びかけても、うんともすんとも言わず、川は穏やかに流れている。

「……くそ、逃げられたな」

 焦って他の妖怪の縄張りに飛び込むのは危険だ。深追いはすまい。ふと大蛇は手にした帯に硬いものが触れるのに気付いた。帯の内側に縫い付けられていたのは、鞘に彫られたしなやかな菊雲が美しい小刀だった。

「これ、は」

 紅里には大蛇が探し求める女の面影はない。だが、深雪の刀すなわち雪霞流水剣が蔵に納められていたという里で、受け継がれている護り刀。とある彫職人によって作られたらしいその意匠は、大蛇の記憶にあるものと合致している。前世で水神を騙っていた頃、村にいた彫り師が作っていた護り刀と瓜二つだ。偶然にしては出来すぎている。

「まさか……な」

 追いかけるべきか。万が一にも深雪の生まれ変わりが紅里ならば止めなくてはならない。しかし、総大将の心中話を信じるのであれば今世で必ず結ばれるはずである。ここで助けなかったから死ぬというのでは運命が分岐してしまう。

 護り刀という手がかりは増えた。やはり深追いはすべきでない。大蛇はそう結論付けて浮かんだ疑念を頭の片隅へ追いやると、帯ごと刀を抱えて紅里が消えた川を見つめた。


***


 紅里が目を覚ますと、そこは川の底だった。見上げた空は暗く、夜なのだと分かる。溺れることもなく口から漏れた泡が水面へと昇っていく様は、どこか幻想的だ。先日川へ落ちた時も、同じように空を見上げていた。あの時は青空だったが、今は黒い空に月がぽっかりと浮かんでいる。水中からでも分かる大きな丸い月だ。

「帰らなきゃ。また怒られちゃう」

 体を起こそうとして、紅里は腹回りが軽いことに気付いた。帯がない。慌てて周りを見るも水底に転がるのは石や死骸ばかりで、他に見える物といえば水草くらいのものである。あれほどたくさん泳いでいた魚たちは、影も形も見当たらない。

「ど、どうしよう……」

 帯がないなら、そこに縫い付けた護り刀もないということだ。腰紐が一本あるので前がはだけることはないが、寝る時でさえ傍に置いている帯をなくしたのは初めてのことで、紅里はひどく動揺した。

「だれ、かっ……」

 とっさに助けを求めた紅里の声は喉元で押し潰されて消えた。先程までとは打って変わって、肺へなだれ込もうとする水を堰き止めるように口を覆う。とにかく上へ向かって泳ごうと紅里は足に力を入れてもがいたが、それは叶わなかった。

〝帰さねぇよぅ。何度も逃がしてやったのに戻ってくるお前が悪い〟

 ひたり、と冷たい何かが紅里の両足を掴んでいた。

(あの時の……!)

 納屋の前で聞いた声と同じだ。ごぼり、と大きな泡が耐えきれずに口から溢れる。もう息が続かない。苦しそうに顔を歪めて必死に足を振り解こうとするが、幼い紅里の力ではどうすることもできなかった。

 無情にも突き立てられる水虎の牙が紅里の肌を裂く。一口、二口と啜ると甘美な味わいが水虎の喉を潤していった。

 せっかく見逃してやろうと思ったのに、こう何度も近寄って来られては据え膳と言わざるを得ない。気が変わった。どうせ殺してしまうのなら、もっと早くこうすれば良かったのだ。

 くたりと力の抜けた小さな体から搾り取るように、水虎は若い血を貪った。


 晴れの日は勿論、大人でさえ忌避する雨の日にもわざわざ川へ遊びに来る変わり者。それが紅里だった。

 初めて見かけた日はたまたま腹が膨れていて、退屈しのぎに遊んでやろうと思った。餌を奪って釣りを邪魔してやると絵に描いたように悔しそうにするのが愉快だった。次は食ってやるつもりだったが、屈強そうな男と一緒に現れたのでその殺気に気圧されて見送った。根は臆病なのだ。三度目ともなると何となく襲う気が失せてしまっていて、気が変わるまでは構ってやることにした。

 そのうち飽きて来なくなるだろうと思っていたが、予想に反して紅里は川で遊ぶのをやめなかった。筋金入りの釣り好きなのか、あるいはただの馬鹿なのかもしれない。迎えに来るのは加之助か金次で、心配されても懲りていないのが丸分かりだった。

 嵐の日があった。さすがに来ないだろうと思ったが、紅里は現れた。どうやらただの馬鹿の方だったらしい。いつものように迎えに来た加之助が紅里に近寄ろうとした時、突風が吹いた。苔むした河原の石は滑りを帯びていて、紅里が足を滑らせたのは偶然だったか必然だったか。

 水中に落ちてきた紅里を、水虎は最後の譲歩のつもりで受け止めて返してやった。これに懲りて川には近付かなくなると思っていた。だから、三日経って何食わぬ顔で現れた紅里を見て仰天した。恐怖というものがこの娘にはないのか。いったい何がそれほどまでに彼女を川へと駆り立てるのだろうか。

 投げ入れられた胡瓜を、手を伸ばして沈めてみた。不思議そうに水中を見つめる姿がおかしくて、水虎は小さく笑った。すると、もう半分の胡瓜が飛んできたので今度は見せつけるように水面から手を出して掴んだ。紅里からすれば、不自然に動いた水が胡瓜を攫ったように見えただろう。

 何かいると確信した顔で紅里は急に立ち上がった。次はどんな行動をするのかと浮き足立ったが、金次が現れたことで紅里の意識はそちらに向いてしまった。あまつさえ帰ろうとしている。

 とっさに水虎は紅里の着物を掴んで引っ張った。ぐらりと傾いた体は川へ落ちるかと思われたが、金次が力強く引き寄せたせいで岸にとどまった。去り際まで警戒が緩むことはなく、水中へ引き込むのは諦めた。

 金次に向ける眩しい笑顔に嫉妬しているという自覚はあった。腹いせに里へ先回りして適当に目についた娘を襲った。思いのほかその血が美味くて、味をしめた水虎は翌日も里で食事をした。

 その後の顛末は先に語った通りである。生きながら腐っていくというのは、想像以上に地獄だった。ぐるりぐるりと納屋の周りを徘徊しながら、自分の行く末について考えた。死にたくない、と思った。

 縋る思いで発した言葉が届き、紅里は言われた通りに助けてくれた。飢餓状態にあった水虎が目の前の新鮮な血肉にかぶりつかないわけもない。殺す寸前で思い止まったのは、空腹から解放された思考が回り始めたからだ。金次に見つかることを恐れたのもある。その場にいたら最後まで吸い尽くしてしまいそうで、水虎は逃げるように川へ帰った。


 あのまま飢餓に任せて殺してしまえば、余計なことを考えずに済んだのだ。可哀想だとかいう気持ちは微塵もないが、戯れに興じた時間はそれなりに楽しく、少し惜しい。

「……しかし、今度ばかりは逃しても死んでしまいそうだなぁ」

 蝋のように白い紅里の顔を見ながら水虎は呟いた。既に紅里の体温は感じられない。ひょっとするともう死んでしまっているかもしれない。

 水虎が好むのは血液である。子供ばかり襲うのは、脆く弱いからだ。不要な体は見せしめとして元いた場所へ返す。だが紅里の死体を里へ返せば、金次はさや子の時と同じことをするだろう。体が腐るのはもうこりごりだ。かと言って死体を愛でる趣味もない。

 このまま川底へ埋めてしまおうか。それとも岸に上がって埋めてやろうか。火を起こすのは面倒だから火葬はだめだ。

 不意に紅里の指先が動いた。

「おぉ、まだ生きていたのか」

 水虎は嬉しそうに紅里の手を取り、そして自分の感情に戸惑う。なぜ嬉しいのだろう。殺した罪悪感があったとでもいうのか。否、この感情は愛おしさに近い気がした。

「あかり」

 試しに今まで呼ぼうと思ったこともなかった紅里の名前を呼んでみた。口に出した瞬間に確信する。恋などという上擦ったものではない。これは慈愛だ。一人の少女に対する慈しみ、愛おしさ。

「あかり……あかり、あかり」

 ゆらゆらと揺さぶりながら名前を呼ぶ。あんなにも振り撒かれていた笑顔が、今になって切実に見たくなった。だが紅里は目を開けない。呑気な声で喋ることもない。指先の一本すら動かさない。

 ここは川の中。動いたと思ったのは、水虎の動きに合わせて揺れただけだった。


 水面に映った月はゆらゆらと形を変えて輝いている。大きな美しい満月は、終ぞ叶わぬ水虎の嘆きを静かに見守っていた。

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