黒狐

「綺麗な月やなぁ」

 羽織に袖を通した男が、空を眺めながらぽつりと溢した。そのすぐ側の路地では黒髪の男が何やら貪っている。頭には黒い耳が揺れ、月明かりに晒された口元は赤く濡れていた。

「炎使うな言うたんやから、手伝うてくれてもええんとちゃう?クロ」

「阿呆。人が人食うやなんて有り得へんやろ」

 すげなく断られた男は、肩を竦める。

「しっかし、小春もあんな上辺だけの優男のどこがええんやろなぁ……」

 黒髪の男がそう呟いた瞬間、羽織の男の顔から笑みが消える。小春というのは甘味処である三椿屋の看板娘だ。羽織の男とは婚姻関係にあった。

「……小春のせいやない。あん男に誑かされとるだけや」

「おう、せやけどボクだけやったら白いのには太刀打ちできひん。あいつ九尾やからなぁ」

「せやから、次の集会の時を狙う言う話になったんやろ。……ひと月後や。そこで小春を永遠に僕のもんにする」

「留守の間に……やな。で、今日は?」

「家帰って寝る。墨(すみ)は入ってきたらあきまへんで。狐のくせに化けるん下手くそなんやさかい」

「はいはい分かっとるわ。ほな、また明日の晩にな」

「あぁ」

「おやすみ、“九郎太”」

 食べ散らかした死体もそのままに、黒い影は消え失せる。九郎太と呼ばれた男は暫し月を眺めていたが、ゆったりと羽織を翻して家路についた。


***


 どんどん。

 各地から集まった狐たちは口々に語り合っていたが、二度鳴らされた太鼓の音で一斉に口を噤んだ。頭を垂れて天狐の登場を待つ。地域ごとに割り振られた席の中には空席もあった。ややして現れた女は、ぐるりと狐たちを見回すと小さく嘆息して豪奢に誂えられた長椅子に腰を下ろした。

「京の黒狐は此度も欠席か。どうせまた良からぬことを考えているのだろうが……」

「連絡を飛ばしましょうか」

 傍で控えていた男が進言したが、天狐は軽く手を挙げて制する。

「良い。いたところでどうせ方針が合わず決裂するのは分かりきっている。よほど目に余るような事がない限りは放っておけ」

「……御意」

 半年に一度行われるこの集会には、天狐を頂点として数多の妖狐が参加している。各地域の代表は原則として参加が義務付けられているが、当代の天狐に反発し参加しないという者も珍しくはない。

 最も多いのは白狐で、稀に見る黒狐や銀狐の他にいわゆる狐色の毛並みを持つ者も存在する。基本的には尾の数が多いほど強く、格が高い。狐衆を率いる天狐は幾名かの候補から選ばれるが、そこに至るまでには千年以上かかると言われている。何をもって相応しいと断ずるかは座を譲る天狐本人に委ねられており、拝命した者が辞退しない限りは天狐の決定がそのまま総意となる。次の天狐候補と噂されるのが、先ほど口を挟んだ白狐であった。

「よく集まってくれた。各自、変わりはないか。いつも通り動きがあった者は報告してほしい」

 天狐の呼びかけで、東から順に報告があがっていく。かつて多くの妖怪を死に追いやった天暦の大祓ほどの出来事は久しく起こっていないものの、地方の小競り合いや人との衝突は細かく挙げればきりがない。天狐はその一つ一つを丁寧に聞き、解決へと導いた者には労いを、争いが続くところへは助言を与えた。

 ひと通りの報告が終わり全体の方針を確認した後は自由だ。早々に自分の土地へ帰るも良し、久々に会う者と酒を酌み交わすも良し。天狐の傍に立っていた男もいつもなら情報収集を兼ねて楽しく呑んで帰るのだが、今回に限っては浮かない顔をしていた。酒を湛えた盃を手にしてはいても、どこか上の空で虚空を見つめる時間が長く言葉も上滑りする。一向に口を付ける気配のない盃を隣に座っていた銀狐に取り上げられて、ようやく白狐はいつの間にか俯いていた顔を上げた。

「あんたがそんな顔してるなんて珍しいねぇ。天狐様も心配してらしたよ」

「……黒狐の動向が気になってな」

 あぁ京の……と納得したように頷くと、銀狐は身を乗り出して男の顔を覗き込んだ。急速に近付いた距離を遠ざけるように、白狐は体をやや後ろに引く。

「隙あり、と思ったんだけど残念」

「色好みは結構だが相手は慎重に選んだ方がいいぞ」

「ちゃんと選んでるよぉ。綺麗に伸びた背筋、盃を持つ白魚のような指、何よりあんたの美しい顔に惚れてるのさ。性別関係なくね」

 そう言って銀狐は蕩けるような笑顔を浮かべたが、白狐の表情は困惑したまま変わらなかった。

「お前の魅了は効かん」

「単純にあんたの方が強いからねぇ。まだ俺は六尾だし……追いつくにはあとどのくらいかかるやら。白(はく)が俺より下だったらすぐにでも虜にしてあげたのにな」

「銀雅(ぎんが)様ー!」

 ばたばたと走ってくる足音は銀狐がいつも連れている狐のものだ。うるさいのが帰ってきちゃったなぁと言いながら、銀雅と呼ばれた男は立ち上がる。

「俺の地域も少し荒れてるんだ。仕方ないから帰るけど、気が変わったらいつでも言ってね。すぐ白のところ行くからさぁ」

「そんな暇があるならきちんと役割を全うしろ」

「真面目だねぇ。忠告痛み入るよ」

 ふわりと肩にかけた毛皮を靡かせて去っていく背中を何とも言えない顔で見送ってから、白狐は返された盃の酒を口に含んだ。空になった盃を眺めながら背後に声をかける。

「別に隠れる必要はなかったのだぞ」

「……申し訳ございません。あの方は少々苦手でして……」

「それには同意だな」

 おずおずと姿を現した巫女服の女狐に、白は苦笑混じりの笑顔を向ける。銀雅という男は決して悪ではないが、気に入った者への執着が強く諦めも悪いのでまともに相手をすると疲れるのだ。

「白様も律儀に対応なさらなくても無視してしまえば良いのに」

「その程度で引き下がるようなら、わざわざ格上の俺に挑んできたりはしまいよ」

 女狐はまだ不服そうにしていたが、白が腰を上げると表情を引き締めた。

「京の様子が気になる。帰るぞ」

 立ち上がりながら藤模様が入った白の着流しの裾を軽く払い、銀鼠の羽織を整えて肩にかかる白髪を後ろへ流す。

「御守り、効いているでしょうか」

「……分からん。所詮は術師の真似事、あまり期待は出来ないな。この胸騒ぎが杞憂であれば良いが」

 悪い予感が間違っていなかったと二人が知るのは、この少し後のことである。


***


 九郎太は呉服屋の三男坊だった。元来奔放な性格で、丁稚奉公は気乗りせず途中で投げ出す始末。放蕩息子の扱いも苦にしていなかった。仕事を探すでもなくふらふらとしていたが、ある日町をぶらついている時に三椿屋の店先で見かけた小春に一目惚れした。本人は「雷に打たれたようだった」と表現している。

 それからというもの、九郎太は熱心に店に通い詰め小春に近付こうと必死になった。初めは戸惑っていた小春も徐々に心を開き、とうとう昨日夫の座を射止めることに成功した。祝言の日取りも決まり、浮かれきった九郎太は酒を浴びるように飲んだ。

「なんや、景色が揺れとるな、ぁ……?」

 千鳥足で通りを歩きながらさすがに飲みすぎたかと思うも、気持ちの昂りの方が優っているらしく頰がだらしなく緩む。

「小春と……夫婦に……」

 次第に足元が覚束なくなり、その場に尻餅をつく。重たくなる瞼に抗うように空を見上げた。

「きれぇな月やなぁ…」

 芯のない声でそう呟くと、暫し満月を見つめる。ぼんやりと眺めているうちに、今度こそ下がる瞼に抗えなくなり九郎太はうつらうつらと舟を漕ぎ始めた。そんなところで寝ては風邪をひく、と咎めてくれる者はいない。脱げかけた羽織を直してくれる者もいない。夜更けとはいえ普段は人通りの多いはずの場所だが、今は誰も歩いていなかった。無防備に寝顔を晒す九郎太に差した月明かりが、ふと何者かに遮られる。

「気持ちよう寝とるとこ堪忍な」

 音もなく現れた黒い影は、すらりと鞘から刃を抜く。月光に煌めいた白刃は無慈悲に振り下ろされた。


***


「おおきにー!」

 明るい声を背に、船橋亭の暖簾をくぐる。出てきた男女は見目麗しく、特に男の方は白髪なことも相まって目立つ容姿をしていた。

「人間の店で食事をするというのに白様は堂々としていらっしゃいますね……私は未だに慣れませぬ」

「そう毎度萎縮せずとも良い。どうしても気持ちが落ち着かないというなら今後同伴は控えるが」

「い、いえっ……!せっかくのお誘いを無碍に断るわけには参りません。どこでもお供いたします!」

 娘はぐっと両の拳を握りしめて宣言する。

「それは頼もしいな」

 緩やかに笑んだ男は娘の頭を撫でた。そのまま流れるような動作で簪の位置を直すと、もう少し歩くかと言いながら足を進める。娘は離れていく指先を名残惜しく思いつつ、下駄を鳴らして一歩先を行く男を追いかけた。

町娘に扮しているのは男に仕える女狐で、名をツネと言った。もう数百年連れ添っているが、ツネはいつまでも人と関わることに慣れない。男の方は耳と尾を隠して髪を結い上げているくらいで見た目は然程変えていないものの、纏う妖気はかなり控えめに絞られていた。この妖狐は白と呼ばれ、以前から妖と人の共存する世を望んでいる。人を喰ったことはない。彼の在り方を否定する者も少なからずいた。

 数いる妖狐の中でも特に白に対して敵対心を燃やしているのが、京を根城とする黒狐だ。百鬼夜行の方針には賛同しておらず狐の集会にも不参加が多いため、一匹狼のような立ち位置で悪行を積み重ねている。京にいると分かっているが情報が極端に少なく、当代の天狐も手を焼いているのが現状だった。

 黒狐・花墨(かすみ)は二尾でありながら九尾に匹敵する炎を扱い、獄炎という渾名が付いている。炎の妖術が絶大な威力を誇る一方、その他の妖術……特に狐狸の本分である化けることに関してはからっきしで、集中しなければ耳と尾を隠すことも儘ならない。彼が白を敵視している理由は、その妖術の多彩さにある。加えて、焼き尽くすしか能がないと白に評されたことも理由の一つだ。誰かの下につくことを嫌い反発した生き方で力を求める花墨にとって、白は嫌悪と嫉妬と羨望の対象だった。

 白とツネは通りを歩きながら、さりげなく辺りに注意して気配を探る。花墨の妖気は感じられない。散歩というのも嘘ではないが、彼らの主目的は黒狐の動向を追うことだった。事が起きてからでは遅い。

 ふと、白が足を止めた。

「どうかなさいましたか?」

「……お前は感じなかったか」

 きょとんと首を傾げるツネとは対照的に、白は表情を険しくした。視線の先にあるのは焼きたての串団子が売りの三椿屋、そこから出てきた紺色の羽織を着た男を鋭い目つきで睨む。注視に気付いたのか男が二人の方を見た。男はへらりと笑うと軽く会釈をして背を向ける。

 一見すると仕立ての良い着物を着たどこぞの坊に思えたが、肌に刺したわずかな違和感が警鐘を鳴らした。花墨ではない。しかし限りなくそれに近い何か。

「うまく化けたものだな。慣れている」

「えっ」

「……どうやら京にいる黒狐は一匹ではなかったらしい」

 潜めた白の声を聞き取ったツネは、驚いて口を押さえた。そうしている間にも羽織の男はどんどん離れていき、雑踏の中に紛れて見えなくなる。追いかけましょうとツネが進言したが、白は静かに首を横に振った。

「ここで騒ぎを起こせば町の人間にも被害が出る。あの男、恐らく花墨と血を分けた者……巧妙に隠しているが、確実に人ではない」

「兄弟、ですか」

 ツネの震えた問いに、白は厳しい表情で頷いた。狐狸の本分は化けること。花墨と真に兄弟だとして、何故今まで存在が浮かび上がってこなかったのか。

「常に何者かに擬態しているとすれば厄介だな。お前が分からないなら尚更だ」

「姿を変えなければならない理由でもあるのでしょうか……」

「……さぁ、今の時点では何とも言えない」

 すっかり見失った羽織の後ろ姿を探すように、白は目を細めて通りを見つめる。ひと月後の集会にもやはり彼らは現れないだろう。だが闇雲に追いかけるのが得策でないことは、今まで得られた情報が証明している。花墨とよく似た気配を隠し持つ羽織の男は、人に紛れて生活しているのだ。天狐に伺いを立てるまでもなく、もう一匹の黒狐は花墨と共に暗躍しているに違いない。

「少なくとも、花墨より警戒が必要なのは確かだ」

「三椿屋の娘は……」

「それとなく見張るが、店にはしばらく入らない方が良い。事の次第では守りの術を与えるべきかもしれん」

「でしたら簪に」

 ツネの提案に首肯すると、白は結い上げていた髪から自分の簪を引き抜いた。はらりと落ちた長い白髪が銀鼠の羽織を滑っていく。

「気休め程度だが一度くらいなら守ってくれるだろう」

「店先の掃除に出た時にでもそれとなく渡して参ります」

「……頼んだ」

 そう言って簪をツネの手に握らせて白は静かにその場を立ち去った。


***


「墨……墨、樹の上で寝るんはええけど耳と尾は隠しぃ」

「どうせ誰も見てへんしえぇやろ」

「墨」

 先ほどよりも強く諭されて、花墨は仕方なく気怠げに欠伸を一つして上半身を起こした。まだ寝ていたいと思うも、寝ている間は意識も緩むので化けるのが上手くない花墨はどうしても変化が解けてしまうのだ。耳と尾を隠せとは即ち起きろという意味になる。

「なぁ、クロ……いつまでそんな格好しとるんや。もう家の前やで」

 入れ替わるように花墨に指摘された九郎太は、はたと己を顧みる。野良猫でも捌いたのか返り血に塗れたその姿は呉服屋の三男坊には到底見えない。さらに言えば、彼の着物の袖から覗く腕は指先に至るまで黒く炭化していた。容姿には異常に気を遣う彼にしては珍しい。気付いたことで余計に感情が乱れたのか、顔や首回りまで黒ずんでいく。いや、正確には化けの皮が剥がれたとでも言えば良いのか。ぼろぼろと変化が解けていく。すっかり崩れた面の下は、焦げた肉の臭いと共に全身燻った黒に包まれていた。

「……今日、またあいつを見たんや……女連れて小春の周りうろついとった……」

 灼けた喉の粘膜を無理やり引き伸ばすような、酷く掠れた声で男は呻く。殺す、殺す、と繰り返す兄を花墨は複雑な面持ちで眺めた。久しぶりに見る兄・黒雨(くろさめ)の真の姿は事情を知っていてもおぞましい。花墨の炎の強さは生まれつきであり、制御を失った炎が兄を包んだのだ。全身の火傷は顔が分からなくなるほど深く、それを隠すために常に何かに化けることを余儀なくされた。記憶にないとはいえ、愛しい兄をそんな風にしてしまった責任を花墨は感じている。

 いつでも二人で一緒にやってきた。誰かを騙すことに躊躇はなく、平気で人を殺した。黒雨が化けて近づき、花墨が屠る。そういう役回りだった。

 黒雨が小春に惚れたと打ち明けたのはいつのことだったか。旦那の地位を手に入れた九郎太を殺して成り代わり小春に近付くまでは計画通りに運んでいたが、三椿屋に白が出入りしており更に小春と親しくしていると知った二人は邪魔者を消すことにした。

 あんな男のどこが良い。どうせあの顔で誰に対しても愛想を振りまいているに決まっている。あの顔で。あの美しい顔で。憎い。憎い。憎い。

 積み上がった憎悪は黒雨を駆り立てた。正面きって挑んで勝てる相手でないことは分かっている。だから狐衆の集会で白が京を離れた隙にまず小春を手に入れる計画とした。小春を誘い出し拐い、彼女が執着していた店と妹は焼いてしまう算段だ。それまではと自制していたところに、今日ばったり出会ってしまったのだった。

「黒、深呼吸しぃ……落ち着いたらゆっくりいつもみたいに思い浮かべるんや。大丈夫、大丈夫やから」

 ここまで完全に姿を露呈するのは相当久しぶりである。それだけ黒雨の憎悪が強いことが窺えた。兄を落ち着かせるのは花墨の役目だ。

 小春と婚姻関係にあるのはあくまで九郎太であり、黒雨として愛し合うことは出来ない。少なくとも彼自身はそう思っていた。花墨も安易な提案はしなかった。顔も素性も偽って、ただ恋心だけに真実を込めて。それが黒雨の選んだ愛だった。

 美しい見た目があればと、どれほど願ったことか。花が咲いたような小春の笑顔が好きだった。黒雨のままではその笑顔に応えることも叶わない。触れることはおろか、話しかけることも。目の前に姿を見せることそのものが憚られた。

 見慣れない帯飾りをつけていた小春を問い質した時は、白髪の御仁に貰ったのだと嬉しそうに話す彼女を見て酷く動揺した。経営が傾いているという三椿屋で珍しく団子が売り切れていた時も、気を遣って残り全て買い上げてくれたのだと笑っていた。

 胸が痛かった。愛しているはずの彼女に冷たくあたるようになった。相変わらず店のことは頼ろうとせず、妹のことばかり心配している小春に苛ついた。なんとか自分のことだけ見て欲しくて、嫌がらせまでした。大事にしたいのに、そんな方法しか取れない情けなさと共にどす黒い感情が渦巻いた。

「……墨、もう大丈夫や」

 ようやく冷静さを取り戻した黒雨が、仕立ての良い羽織姿で立ち上がった。へらりと笑う顔は九郎太そのものである。それを見て花墨は安堵の息を一つ吐く。

「ほな、寝るわ。また明日な」

「……おやすみ」

 門を潜って黒雨の後ろ姿が吸い込まれるのを見届けてから、花墨は定位置に戻って目を閉じた。


***


 集会の日が間近に迫った夜、ちょうど重なるように百鬼夜行の雲が京にかかった。白は夜風に流された髪を払う。見上げた空にはまだ満ち足りない月が穏やかに輝いている。黒狐は静かなもので、店先で出会った日以降目立った行動はしていなかった。おかげで捉えることが出来なかったのだが、白は自身が京を離れる数日のことを思って嘆息する。ツネを引き連れて様子を見にきたが、今夜はまだ小春と妹の蛍は健やかに寝ているようだ。

 ふと、白は意識を背後に向けた。振り返って視線を地面に投げると、足の生えた篠笛が目に入る。少し前から蛍に構われている付喪神だ。たしか旅人から譲り受けたらしいと小春が話していた。そういえば笛の練習の成果を聞かせてくれと口約束したことを思い出す。

「店に帰ったら蛍に伝えてくれ。お前の笛を聴きに行ってやれなくてすまない、と」

 言葉を話せない付喪神から返事はなかったが、白は踵を返した。もう集会に向かわなくてはならない。篠笛も百鬼夜行に顔を出すのだろう。三椿屋には人間しかいなくなる。襲撃するならこの機会を黒狐が逃すはずはない。

(……出来れば死んでくれるなよ)

 自分を呼ぶツネの声に急かされて、後ろ髪を引かれながら白は夜闇に紛れるように姿を眩ました。


***


 白が京を去った次の日の夜、九郎太は三椿屋を訪ねた。風を通すために開けられた小春の部屋の窓から手紙を投げ入れる。重りをつけた手紙は枕元に落ち、その音に目を覚ました小春は月明かりを頼りに封を切った。内容を一読する小春の後ろから二本の腕が伸びて華奢な体を捕まえる。

「っ……!」

 悲鳴を上げかけた小春だったが、ぼんやりと闇に浮かぶ顔が九郎太だと分かると安心したように息を吐いた。それだけで九郎太は満たされた心地になる。

「おどかしてしもたな。勝手に上がり込んだが堪忍しとくれやす」

「九郎太はん……こんな夜更けにどないしはったん?急ぎの用でも」

「小春、もう何遍も言うたことやけど店のことは僕がなんとかする。蛍の嫁ぎ先も斡旋したる。親父さんのことも、他にもしてほしいことあるんやったら言うてくれ。何でもしたる。せやから僕と一緒に来てくれへんか」

 熱い吐息と共に抱き締められながら、小春は久しぶりに見る優しい夫に心を揺さぶられていた。つ、と九郎太の腕に手を添えて自分の腹まで導くと唇を震わせる。

「……うち、ややこが」

「ッ……」

 背後で大きく息を呑むのが分かった。九郎太との子だと小春が告げると、抱きしめる腕に力が込もる。それは思わぬ朗報だった。嬉しさに泣きたいのを堪えて、九郎太は唇を噛み締めた。苛立ちに任せて夜の相手を迫った故の産物ではあったが、彼女との愛の証が現実として残せることは言いようのない喜びだった。

 顔が見たくて小春の体を反転させようとした時、彼女の懐から何かが滑り落ちた。からん、と無機質な音を立てて畳に転がったそれは簪のように見える。はっと気付いた小春が慌てて拾い上げようとしたが、見咎めた九郎太に腕を掴まれた。

「……見たことない簪や。小春の趣味とも違う」

「これは……その」

 先を言い淀む小春に、浮き上がっていた気持ちが急速に沈んでいく。またあの男なのか。女に簪を贈る意味など考えたくもない。それを小春が受け取っていると言う事実も耐えがたい。膨れ上がった怒りは感情をかき乱す。壊して捨ててやる、と九郎太は簪を鷲掴んだ。

 じゅ、と簪に触れた指が焦げる音がした。

「……っ、…………!!」

 瞬く間に九郎太の手は黒く変わり、黒は全身を染め上げた。九郎太の皮を剥がされた黒雨を目の当たりにした小春は、恐怖に目を見開いて後退る。思わず追いかけた手を振り払われて、黒雨は詰め寄った。

「嫌っ……こっち来んといておくれやす!」

「小春、小春……」

 なおも迫る黒雨に引き攣った声で絞り出されたのは残酷な一言だった。

「化け物……ッ!!」

 頭を殴られたような衝撃に、黒雨は刹那思考が止まった。よりによって愛した女に一番言われたくない言葉を聞かされて、黒雨の怒りは限界を超えた。焼け爛れた手で細い喉を締め上げる。

 やめろ。やめろ。やめろ。これ以上侮辱するな。

 灼けついた喉からひゅーひゅーと掠れた音を鳴らしながら、小春の首の骨が砕けるまで力を込めた。悲鳴を聞きつけた父親が襖を勢いよく引き開ける音に、黒雨は小さく吐き捨てた。

「花墨」

 店の外で待機していた花墨が飛び込んでくる。声を発するより前に、一瞬で男の首と胴が泣き別れになり転がった。花墨は刃についた血を振るい落として納刀する。黒雨は肩で息をしながら、息絶えた小春を抱き寄せているところだった。

「黒……」

「殺してくれ」

「……嫌や」

「全部燃やしてくれ。一片も残らんくらい」

 肯定以外の返事を受け付ける気のない兄に、花墨は泣きそうな顔でもう一度否定の言葉を放つ。

「嫌や、こんな終わり方あんまりやないか」

「花墨」

 理不尽に奪われた顔のために、黒雨はずっと苦労してきた。誰よりも幸せになってほしかった。生きていれば今度こそ愛を掴めるかもしれない。そう言い募りたかったが、懇願する兄の掠れた声が花墨の心に刺さる。

「頼む」

「……」

 もう小春は事切れているが、本気で心中する気なのだと知れた。店ごと全て燃やしてくれ、と黒雨は繰り返す。花墨は滲む涙を耐えて小さく頷いた。


***


 燃え盛る炎を眺めながら、花墨は蛍を探した。熱さに逃げ惑う彼女を見つけるのはそう難しくなかった。着物に移った火を消そうと必死になっている。井戸の方へ駆け出す蛍を追いかけて店の裏へ出た。

 やり場のない感情を刃に乗せて振るうも、蛍が石につまづいたので背中を浅く切るに留まった。痛みに呻きながら立ち上がると、擦りむいて傷だらけの手で懸命に桶を手繰り寄せる。が、急に悲鳴を上げて手を離した。花墨の刀が利き手を切り裂いたのである。

「大人しゅうしいや。すぐ後追わせたるから」

 背後の花墨の声は届いているのかいないのか、痛みと熱さで朦朧とした意識の中、蛍は川を目指して最後の力を振り絞った。ゆっくり追いかける花墨を振り切り、川に飛び込む。

「……自分から飛び込みよった。つまらんやっちゃな」

 花墨は揺れる水面をぼんやりと見つめた。あの傷ではそう持つまい。深追いする理由もないと刀を納める。

「白いのに見つからんうちに帰りまひょか」

 そう呟くと、黒狐は何処へともなく消え失せた。


 今宵はまだ満月ではない。

 小春と黒雨が結ばれることは、ない。

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