ちょい怖実話(医療福祉系)
南まこと
どこ行くの?
八十代前半のお爺さんでした。杖や歩行器を使わなくても自分で歩けるし、会話も成立するし、カルテに書いてあった長谷川式の点数は覚えてないですけど、自分は認知症のお年寄りというよりは普通のお年寄りみたいな感じで接していました。共同生活室っていう、食事時や何かに使う大きなスペースがあるんですが、そこにいると、入所している人のところに面会に来た家族みたいに見えました。何でこのお爺さんここにいるんだろう、そんな感じでしたね。
その時勤めていたのは、T県の山の麓にある老人施設です。北関東自動車道の◯◯インターチェンジを降りるとすぐ左手に見えてくる薄茶色の四角い建物があるんですが、自分はそこで介護士として働いていました。小さな病院が経営する、定員90名の施設。建物の一階が病院の外来と病棟、二階と三階が施設になっていて、二階が一般棟、三階が認知棟という風に分かれていました。何が違うかというと、認知症状が軽い利用者さんが二階に、重い利用者さんが三階に入所するんです。あのお爺さんなんかはどう考えても二階にいるべき人だったと思うんですが、空きがなかったんでしょうね。どこかの総合病院を退院して、自宅には戻らずにそのまま三階に入所になりました。認知棟は世間話が出来るような利用者さんが少ないし、一日中大声で歌ってたり、ぐるぐる施設内を休みなく歩き回ってたり、ティッシュペーパーを食べ物だと思って口に入れたり、まあ強烈な人が多かったですから、住環境としてはあの人には良くなかったんじゃないかな。ちょっと可哀想な気がしましたけど…
そう、思い出しました。奥さんはもう亡くなっていて、未婚の娘と二人で暮らしていたんだけれども、その娘さんが体調を崩して入院してしまって、検査したら末期のガンだったとかそんな話でした。本人は何とか一人でやっていこうとしたんでしょうが、こちらも持病の糖尿病が悪化して入院になり、その後回復して退院できることになったものの、さてどうしましょう、という。よくあるケースですよ。それでうちの施設に来ることになったんです。ケアマネや何かにどういう風に説明されたのか、そこまでは知りませんが、本人はここで少しの間療養すれば自宅に帰れると思っているようでした。娘の本当の病状も知らされてなかったでしょうしね。 そう考えると尚更不憫ですね。
帰宅願望っていうのは誰でも最初はあるものです。施設だから勿論出入口はオートロックですが、その開かないドアをガタガタやったり、制止する職員に暴力を振るったり、出口を探してずっと歩き回ったり、皆さん色々とやってくれますね。そのお爺さんなんかはおとなしい方でしたよ。いつ帰れるんだ、とか娘はどうしてる、とか一日に何回も聞いてくる位で。職員にしたら話に付き合っていればいいだけですから、施設でいうところの手のかからない利用者さんでした。亡くなる前は不眠傾向でしたけれど、入所して2、3ヶ月の利用者さんにはよくあるケースだから、それほどには心配していませんでした。夜中に何度も部屋から出てきて夜勤の職員の待機場所に来るから、しょうがない、こっちはお茶一杯出してあげて隣に座らせて記録書きながら話を聞いて…ふうん、そうなんですか、娘さん早く良くなるといいですね、なんて。実際は病院で死にかけてるんですけどね、そうやって話を合わせて。
大抵の人は段々諦めて施設の生活に少しずつ慣れていくんですが、あのお爺さんは何かが諦めきれなかったんですかね、それとも何もかも嫌になったのか…11月の下旬のある朝のことでした。いつものように6時ちょっと前に起きてきて、共同生活室で朝のお茶を飲んで、うちは7時15分が朝食だったんですけど、まだ時間があるから一旦部屋に戻ると言って席を離れて、7時になっても戻らないので職員が呼びに行くと、部屋のベッド柵に自分のベルトを結びつけて首を吊っていたそうです。自分はその日は日勤の遅番で10時入りでしたが、出勤した時にはもう全部片付いていました。急性心不全で亡くなったことにして死亡診断書を提出したそうです。自殺だと警察が来て色々面倒ですからね。医療系の施設は医師がトップだから、そういうすり替えが出来るんです。よくあるケースですよ。申し送りのときに主任から簡単に説明がありましたけど、それ以上は誰もそこには触れないで、業務もいつも通りに回して。無駄口を叩いて死んだ人の尊厳を傷つけるようなことはしないというのもありますが、自分達職員が浮き足立つと利用者さんが不穏になりますからね、普通に仕事して…それから暫くの間は施設内にはちょっと変な空気が漂ってましたけれど、半月もしたらそれも消えて、自分もあのお爺さんを思い出すことも少なくなっていました。
で、その年の暮れの話。後から考えると怖いっていうか、不思議なことがありました。
自分はその時、利用者さんの乗った車椅子を押しながら廊下を歩いていて、首吊りのあった部屋の前も通ったんですが、自分が誘導していた利用者さん、もう90を越えたお婆さんで認知症もかなり進んでる人でしたが、それまで黙っていたのにその部屋が近くなったら急に何か言い始めたんです。ああ独り言か、と思って最初は気にも留めなかったんですが、一生懸命誰かに話しかけている様子なんですよ。「ねえ、おじさん。おじさんてば、ねぇ」その時周りには自分とそのお婆さん以外には誰もいなかったんですけれども、こんな具合に。
おじさん、そんな紐持ってどこ行くの、どこ行くのよぉ、そんなに早く歩いたら危ないよ、紐なんか持って、ちょっと、おじさんてば…
午前中の、11時過ぎだったかなあ、真冬にしては暖かい日で、窓からは陽が差し込んでいて。そのときは怖くはなかったです。寧ろ腑に落ちたというか、ああ、まだいるんだな位の気持ちでしたね。大体そのお婆さんもレビー小体型の認知症ですから、幻覚や幻視が症状としてあるわけで、ただ症状として見えていたそこにいない人に話しかけていただけかもしれませんし、こじつけようとすれば幾らでもこじつけられるんです。自分に霊感があればよかったんだけど、全然そういうタイプではないから、今も半信半疑なんですよ。
でもね、あのお婆さんはもう意思の疎通が難しいレベルの認知症で、首つりがあったことを理解していたとはとても思えないし、そもそもお爺さんの存在だって知らなかっただろうし、当然どこの部屋だったかなんて分かる訳がないんです。 そんな人が本当に、ちょうどその部屋の前で言ったんですよ。おじさん、そんな紐持ってどこ行くの、って…
ねえ、やっぱりちょっと不思議な話だと思いませんか。
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