閑話の6 宅配ピザ
俺は自宅を愛している。ここでしか表すことのできない己の本性、お出かけ用のペルソナを引き剥がして初めて露呈する自分を、思う存分に楽しめるこの場所を愛している。
俺はいつものように座布団に腰を下ろし、この世のものとは思えぬ美貌と気風を兼ね備えた彼女とだらだらしていた。
だがどうしたことか、今日は双方元気がない。二つのグラスに注がれたクリアな三ツ矢サイダーが、無音の部屋にぷちぷちとタップダンスのような音を鳴らした。
「ねえ」
「ん?」
「お腹空かない?」
「うーむ」
腹が減っては戦はできぬ。これはもっともな言葉で、実際空腹状態ではなにもやる気が起きないのだ。和気藹々とした喋りにもエネルギーが必要である。なんといっても、愛の語らいは常に脳をフル稼働させなければ成り立たない。
彼女の腹がきゅーっと鳴って、追い討ちをかけるようにサイダーがひときわ大きく弾けた。そちらを見ると、全く同じタイミングで顔を背けていた。ほっぺが紅かった。
「今食べたいもの当ててあげようか」
「俺も当てられるよ」
「じゃあ同時に言おっか」
「せーの」
「ピザ」
「寿司」
真逆であった。洋と和、小麦とパン、酪農と漁業。約6000マイル隔たった二つの文化が、これでもかと正面衝突していた。
いやそれにしても、なぜ当てられると思ったのか。親密関係の以心伝心というものを少々過大評価していたようだ。
「ちゃんと心読んでよ」
「無茶言うな」
「ピザ頼もうよ〜」
「俺は寿司が食べたいんだ」
そう。寿司が食べたいのだ。腹が減ったから寿司、というのは我ながら剛毅が過ぎるが、俺は寿司が食べたい。この世の終わり、最後の晩餐も寿司と決めている。
それとこれとは関係ないだろうって? 食べたいのだから仕方ないじゃないか。
一通り寿司について説法をブチかましてやると、彼女はうんうんと頷いたのち、「せっかく出前頼むなら高いものがいいっていうのは分かるよ」と微笑んだ。
「でも寿司だけはない」
「なんだとっ」
「ああいうのはお店で食べるから美味しいの」
「そんなことないだろ」
「ピザはアツアツトロトロで運ばれてくるけど寿司には特にメリットないじゃん」
「ううむ反論できん」
真顔で言われ、言葉が詰まる。彼女は損得論のスペシャリストであった。大学の弁論研究会で日々弁舌を磨いている俺でも、彼女の超シビアな論述展開には敵わない。
「あっ出前寿司にメリットないじゃん」と一撃で思わされてしまうのだ。くやしい。
なお、このやりとりに出前寿司を貶す意味合いはこれっぽちもない。彼女も一人のおすし大好き少女なのだ。いつもはサーモンに大きな瞳を輝かせる可愛らしい少女なのだ。ただ、今日はピザの気分だっただけなのだ。どうか彼女を許してやってほしい。
「それを言うならピザだって店で食べた方が美味いだろ」
「初心者だねおぼっちゃん」
「なんか今日腹立つな」
「想像してごらんよ宅配ピザを開ける瞬間を」
ハイカラな帽子の宅配員から薄い箱を開けとり、両手にほのかな温かみを感じつつ、食欲を刺激する香りを鼻腔いっぱいに吸い込んで……。
と、ここまで想像して我に帰った。これはマズい。彼女のペースだ。宅配ピザなぞに負けるわけにはいかない。俺はどうしても寿司が食べたいのだ。
しかし、彼女のミドルジャブは止まらない。
「そしてピザを切り手に取って」
「うん」
「立ち昇る湯気とチーズの金糸……」
「うん……」
「口に入れた途端広がるイタリアの風! ソースとチーズのグラデーション!」
「もう勘弁してください」
すごく美味しそうである。たまらない。よだれが出てきそうだ。この俺の巧みな弁舌を振るうことすら許さない、暴風雨のごときイマジン・インストール。空腹で頭が働かないこともあって、俺の脳内はピザ一色にベタ塗りされた。頑張って寿司を想像してみると、シャリの上にラクレットチーズが乗っかった珍妙な創作寿司が現れた。
「私の勝ちだね」
「まだ食べたいとか言ってないし」
「舌の上で踊るサラミの塩気がクリスピー生地とのマリアー……」
「すごく食べたいです」
「よっし」
完敗であった。
「なに頼む?」
「とりあえずつまむ程度の量を」
「んじゃマルゲリータのMサイズっと」
颯爽とタウンページを開き、ドミノだかハットだかのピザ屋に電話を掛け、早口で注文を告げた。善は急げである。どの辺りが善かというと、まあさじ加減である。
ウキウキ気分で三十分が経過した。
「来ないね」
「来ないな」
「お腹すいたね」
「お腹すいたな」
空腹の最たるものであった。腹が空きすぎてお腹が痛くなったり、なんだか気持ち悪くなった経験はないだろうか? まさしくそれであった。
宅配ピザは速さが売りではなかったのか。よもや渋滞に巻き込まれたのだろうか。熱中症で倒れた、事故にあった、電話先を間違えた……ぽこぽこと浮き出る頓珍漢な杞憂にツッコミを入れるように、腹がきゅるきゅるとクランクのような音を上げた。
ちなみに、彼女のおなかであった。顔が紅かったので、そっと三ツ矢サイダーを差し出してあげた。
「ねえ」
「うん?」
「ピザとピッツァってどう違うの?」
「知らんがな」
非常にどうでもよかった。どのみちPizzaはPizzaなのだから同じである。
いやしかし。ピザとピッツァを混同するのはカッコ悪いとどこかで聞いた気がする。具体的には彼女と外食した際にドヤ顔で語り散らした気がする。
「アメリカ風かイタリア風かって聞いたことあるぞ」
「なんとなくピッツァの方が美味しそうだよね」
「イタリアだからな」
「でも私たちピザ頼んだね」
「アメリカだってがんばってるじゃん」
「イタリアの方が配達速かったかもよ」
なんとなくイタリアの配達は遅そうだなあ、と偏見を脳裏に遊ばせていると、彼女はサイダーをぐいと胃に押し込んだ。明らかに不機嫌だったので余興にほっぺたを突いてやると、ぐうとお腹が返事をした。
三発ほど脳天にチョップを食らった。あまり痛くなかった。
「でも宅配ピッツァとか聞いたことないぞ」
「なんで宅配しないんだろ?」
「石窯で焼かなきゃダメなんじゃなかったっけ?」
「あーそれは難しいね」
俺の頬にぴしぴしとデコピンを打ち込み、彼女はさながら妊婦のように腹部をさすっていた。幸い、これ以上腹は鳴らなかった。
「イタリア旅行したいな」
「学生には厳しいだろ」
「社会人になったら行こうよ」
「そうだな」
イタリア。ステキな場所である。これは全くの想像で、やれ水の都ヴェネツィアだの花の都フィレンツェだのに踊らされた輝かしい妄想であったが、まあ実際もステキなのだろう。美しい都に立つ彼女を考えてみると、一枚の絵画のようにぴたりとはまった像が思い浮かんだので、その麗しさに思わず頬が緩んでしまった。
「なににやけてるの」
「イタリアに行ったら楽しいだろうなってさ」
「食の都だからお腹が鳴る前に物が食べられるしね」
「根に持ってるよこの人」
「フツーに恥ずかしいもん」
さて、ピザが届く気配はない。三ツ矢サイダーも1.5L入りのペットボトルが空になりそうである。平机に拗ねるように突っ伏す彼女は、もはや木の根にでもかじりついてしまいそうな様子だった。
「社会人になるまでこのままだといいな」
「いきなり恥ずかしいこと言わないでよ」
「恥ずかしいって言うなよ恥ずかしいだろ」
「そこは堂々としてなきゃ恥ずかしいよ」
俺がキメ顔で放った甘い一言は刹那の辻と散り、顔周りの微熱だけが残った。
彼女が今だ、と言わんばかりのワルい顔を浮かべてからかいの呪文を口にしようとすると、再びおなかがぎゅーんと鳴った。
「俺の勝ち」と言うと、「ばか」と赤い顔で返されて、二人で机に突っ伏した。
閑話終わり。ピザが届くのはいつだろう? ともかく次の語らいに想いを馳せる。
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