閑話の5 料理〜Extra Edition〜
俺は自宅を愛している。この手で育て上げた、我が子の如きこの城を愛している。
愛するものは守らねばならない。男ならどんなに幼稚な愛だとしても、命を賭してそれを護り抜かねばならない。
だが、だがしかし。それが二つあったとしたら。そして、それらが相容れない境遇におかれ、衝突する運命にあったとしたら。
俺はどうすれば良いのだろうか。
「なんて顔してんの」
「祖国の滅亡に立ち会った人ってこんな気持ちなのかなと」
「大げさだよ」
俺と彼女はいつものように座布団に座って——いない。酒を煽ってもいない。朗らかな雰囲気もない。一言で表せば異常事態である。
時が、満ちてしまった。彼女のお料理教室が開幕してしまったのだ。
思えば、兆候はあった。日に日に彼女の中の料理欲が膨らんできているのが目に見えて分かっていた。いやしかし、それにしたって、こんな酷いことがあるだろうか。
「今日は肉じゃがの作り方を教わりたいと思います」
「はい」
「よろしくおねがいします」
「はい」
不幸中の幸いは、彼女の独壇場というわけではなく、俺が料理を教える立場にあるということだ。手綱はすぐそばにある。まあ手綱を握ったところでハイパームテキ暴れ馬と化した彼女とロデオさながらの舞踏を繰り広げることになるだろう。
ちなみに、俺は料理が超がつくほど得意である。我が居城のメンテナンス、麗しき生活のブラッシュアップのためには、料理・掃除・洗濯etc……それぞれ『一流』の能力が欠かせない。
そんなこんなで、レッツクッキングである。
「おい」
「なんでしょうか師匠」
「肉じゃがを作りたいんだよな?」
「はいっ」
「どうしてまな板の上にイチゴが乗ってるの?」
「師匠の好物であります!」
ぺしんと彼女の頭を叩いた。「あいたっ」と音が鳴った。
「ジョークだよ」と無邪気……いや微かに邪気の滲んだ顔で笑う彼女は、なんだか楽しそうであった。それはそうだろう。腕はともかく彼女は料理が好きだ。腕はともかくようやっと解禁された料理に舞い上がっているのだ。
とりあえずイチゴは食べた。甘かった。
「俺は今真剣なのです」
「私だってマジだよ」
「あと師匠って呼ぶのやめろ」
「いいじゃん新鮮で」
「そうかなあ」
「よろしく師匠〜」
師匠と呼ばれるのは嫌いではない。なんだかすごく尊敬されている感じがして心地が良い。決してチョロいだとかそういうわけではないのだが、師匠として本気で料理を教えてやろうではないか。
「じゃがいも用意」
「はいっ」
彼女はなにやら鈍重な紙袋を取り出すと、中からゴロゴロとじゃがいもを取り出した。
一見普通のじゃがいもだ。しかし、なんだか紫色のサツマイモみたいなヤツがいる。赤色もある。サトイモみたいなヤツもある。極めつけは赤黒い邪紋がまだらに貼り付いたようなじゃがいもであった。
シャドークイーン、レッドムーン、デストロイヤー……なんだかカッコいい名前のポテトを延々と紹介された。じゃがいもの種類は2000以上あるのだそうだ。
いやそこではない。そうではない。普通のじゃがいもでいい。メークインとか男爵でいい。だというのに、なぜこうも買い揃えるのだ。どう調理していいか全くわからない。
「色々買ってきたよ」
「買ってきすぎだろ」
「私はシャドークイーンがいいと思う」
「なんでイロモノ選ぶんだよ」
「じゃあデストロイヤー」
「俺の胃腸がデストロイだよ」
一通り説教しても飄々として聞いてくれないので、結局名前もわからないスゴく紫色のじゃがいもを使うことになった。一寸先は深淵である。
しかし、食材が意味不明だからと言って彼女の芽を潰すのも忍びない。毒を食らわば皿まで。いつぞやの絶望タールクラスの毒は流石に御遠慮願いたいが。
「おい」
「はい」
「それ肉切り包丁」
「あっそうなんだ」
「手放しなさい」
「でもこれが一番切れそうじゃん」
キレそうである。
「まあいいや」
「いいんだ」
「じゃがいもを切ったら次は玉ねぎだよ」
「はいはーい」
再び紙袋を取り出し、中から玉ねぎが現れる。また摩訶不思議な食材かと思ったが、ごく普通のプレーン玉ねぎであった。
なあんだ。と安堵と物足りなさの入り混じった息を漏らすと、彼女はくちびるを内側に折り込んで、煽るように笑った。腹が立ったので鼻をつまんでやると、「イキガデキナイ」とじたじた足踏みをした。
それはそうと、包丁の使い方はそれなりである。今のところ「調理」自体に問題はない。それだけに、この美味しそうな——じゃがいもが鮮やかなパープルなのが癪だが——食材がこれからどう変貌するか、戦々恐々であった。
「くあ……」
「どした?」
「玉ねぎが目にしみる」
「そりゃ仕方ないよ」
よくあることだ。毎度のことながら、この硫化アリルなるイタズラ小僧にはうんざりさせられる。眼に突撃して強制的に泣かせるなどイタズラ小娘の彼女ですらやらない外道のソレだ。
いや、いつかやるかもしれない。こわい。
そんな折、ふと気付いた。
「おい」
「はい?」
「目を瞑ったまま料理するな」
「だって目が」
「落ち着くまで包丁を置いてくれ」
「えぇ〜」
「刃先をこっちに向けるな!」
危ない。危なかった。やっていいことと悪いことがある。お子様用ギザギザ包丁であれば「次は気をつけるんだぞっ!」と寛大な心で許せるが、これは肉切り包丁だ。肉が切れてしまう。包丁も人切り包丁に改名するのは望むところではないだろう。
「まあいいや」
「いいんだ」
「次はにんじん牛肉白滝」
「できました」
「炒めてだし汁を入れる」
「完璧です」
「醤油砂糖みりん」
「わかりました」
スムーズだ。もしや、今まで料理ができなかったのは運が悪かっただけで、実は料理上手なのではなかろうか。
「なあ」
「なにさ」
「俺はみりんを入れろっていったんだけど」
「みりんみたいなものだよ」
「ブランデーが?」
「みりんってお酒の一種らしいし」
前言撤回である。肉じゃがで和洋折衷してどうするのだろうか。だし汁ごとフランベでもするつもりなのだろうか。それこそ大炎上からの焼き焦げ物体X、食して急転・腸内下り龍の光臨である。
しかし彼女は止まらない。止まらない限り道は続く。頬を染めてチラチラとこちらを覗く彼女の姿に、タール創造の全貌を見た気がした。
「なんでそう背伸びしようとするかな」
「天才ゆえの迷いだよ」
「迷いなく間違えてるだろ」
「天才ゆえの過ちだね」
「過ちだと思うならもうちょっと態度で表してみたらどう?」
後になって振り返ると、態度で表すにはもう遅かったのだろう。てへ、と舌を出す彼女にチョップを食らわせたり、そんな可愛げ溢るるやりとりを交わしている場合ではなかったのだろう。
「なあ」
「はいはい」
「あとは煮るだけなんだけども」
「そうだね」
「なんで鍋の中が黒ずみ始めてるの?」
彼女は数秒固まって、首を傾げて、眉をひそめながら「なんでだと思う?」と聞いてきた。
謎である。この黒ずみはなんだろうか。フッ素加工済みの鍋がみるみるうちに黒く染まっていく。さらさらだった液体がボコボコとドドメ色の泡を湧きたてている。
玉ねぎなんかはもうヒドい。煮てふにゃふにゃになるのは当たり前だが、助けてくれと叫ぶように直立して踊っていた。いやにアグレッシブなフラダンサーのようだった。
「なんか入れたろ」
「別にぃ?」
「嘘はよくない」
「うーん愛情は入れたかな」
「愛情おぞましすぎるだろ」
ちなみに、本当に何も入れていなかったそうだ。俺たちの通う大学に錬金術の専攻はなかったはずだが、ともかく彼女をキッチンに立たせてはならないということが改めて分かった。
数分が経った。俺は部屋の座布団を敷き潰し、黙祷、もとい瞑想しながら待っていた。
「ここから先は一人で」と青ざめた顔をした彼女が、俺をキッチンから退出させたのだ。もはや未来は一つだった。どうにか軌道修正しようとキッチンからは工事現場、或いは戦場のような奮闘音が流れてきたが、おそらく悪手であろう。
現れた彼女が、俺の前に皿を置いた。
そこには、墨汁のようなだし汁と黒い塊、そして鮮やかなパープルのじゃがいもがあった。パープルというのはいいものだなあ、と俺はじゃがいもに感謝した。ただの紫というものをこうも心の底から美しいと感じる日がくるなど、誰が想像しただろうか。
「はい」
「地獄か?」
「はい」
「はいじゃないよ」
輝ける漆黒のインフェルノを前にして、俺はどうすればいいのだろうか。彼女は今までで一番の申し訳なさそうな顔で、机に俺の愛箸を置いた。食べろとのことだった。
俺は泣いた。
硬直した俺にゆっくりと頭を下げると、彼女は煉獄の中に真っ赤な果実を放った。
美しい、イチゴであった。
「師匠の好物であります」
肉じゃがは好きだった。じゃがいもも好きだった。ブランデーも、彼女に飲まされた際「これ美味しいね」と言ったのを覚えている。イチゴを好きと言った覚えはないが、行きつけのカフェではいつもイチゴのショートケーキを頼んでいた。
俺は箸でイチゴを掴み、黒いだし汁に二度くぐらせると、静かにそれを口にした。
そして、彼女の頭をくしゃくしゃに撫で回して、晴れ晴れとした笑顔で言った。
「マズいな」
閑話終わり。かなたの絶品を願いつつ、次の語らいに想いを馳せる。
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