閑話の3 風邪
俺は自宅を愛している。清潔極まる美の天守閣、三年間寄り添ったかけがえのないナイスパートナー、俺の高潔な精神活動を包み込んでくれるこの部屋を愛している。
ナイスパートナーはもう一つ存在する。今、俺の隣で座布団を敷き潰している、澄まし顔のマイベストパートナー。彼女である。なにやら神妙な面持ちでほっぺをもごもごさせていた。おおかた龍角散のど飴——オトクな袋詰め——の不思議な味に思考を傾けているのだろう。
かく言う俺ものど飴を舐めている。ハッカだとか薬草だとか珍味の類は苦手なのだが、どういうわけか龍角散は舐めているうちに慣れてくるように思える。食べる湿布という表現は撤回した方がいいのかもしれない。
「ヒマダナ」
「声変だよ」
「エ?」
「声カッスカスだよ」
変な声が出た。ゆるキャラのモノマネをする中高生のような声だった。
のど飴を舐めている理由を理解していただけただろうか? そう、喉が痛いのだ。以前二人でカラオケに行き、無茶をした結果こうなった。具体的にはデスメタルの歌唱に挑戦して血を吐いた。
「風邪ひいたかな」
「確実に原因アレでしょ」
「慣れないことはするもんじゃないな」
「熱はない?」
なんということだろう。彼女がそう言って取った行動は、ずいと顔を寄せ、俺の額に自らの額をくっつけるというものだった。
漫画で見たことはあるが、実際にされるのは当然初めてだ。こんな大胆なことを何食わぬ顔でやってのけるのも彼女の尊敬すべき点である。とりあえず照れ隠しに感嘆の声を上げておくことにした。
「おお〜」
「嬉しそうだね」
「こういうの実際にするんだなって」
「んーもしかしたらしないかもね」
彼女は赤くなった俺の頬をぺちぺちと叩きながらにやにやと笑みを浮かべている。いつもなら何かしらウイットに富んだキレキレの返しをしてやるところだが、思考がまとまらない。風邪とは恐ろしいものである。
いや、どちらかと言えば恐ろしいのは風邪につけ込んでからかいの行動を刺してくる彼女ではなかろうか。
「というか風邪移るぞ」
「大丈夫だよ」
「いやあ帰った方がいいんじゃないか」
「やだ」
どうやら今日は風邪っぴきをいじることで暇つぶしをするらしい。俺の優しさに溢れる紳士的な提案も却下された。
少し考えて気付いたのだが、「やだ」の「や」にもったりと大福を伸ばすようなアクセントが付いている。これは甘えたり、酔っていたり、割と本気で機嫌が悪い時の様子である。これはどれだろうか。三つめは即座に切り捨てたいところだが、そう油断できないのもまた彼女である。
「看病したげる」
「ありがたいけどさあ」
「おかゆでも作ろうか?」
「エッ」
地獄の門を見た。封印されし魔界料理が、その隙間から剣呑と醸し出す芳香を風邪っぴきの鼻腔に突き刺したかと錯覚した。
以前話しただろうか、彼女は料理が壊滅的に下手くそだ。壊滅的というのは比喩であって比喩ではない。その気になれば街一つは滅ぼせるといっても過言ではないのだ。
「めちゃくちゃ不安そう」
「また俺のキッチンが異界と化すのか?」
「ご飯を煮て味付けるだけだよ」
「やめてくれ煮るのはダメだ味も付けるな」
つくづく、天がウン十物を与えたかのような彼女がどうして料理だけはできないのかわからない。神がおふざけでステータスを割り振ったとしか思えない突出加減である。ファンタジー世界なら毒料理で無双できそうだ。
そもそも料理が苦手というのは彼女の自覚するところのはずだ。それがなぜ今その気になったのだろうか? ここでも前述の三択は消去できない。甘える勢い? ありえる。酔った勢い? やりそう。腹いせ? だとしたら怒りのマックスボルテージだ。こわい。
「じゃ作ってるとこ見ててよ」
「病人と一緒に料理するのか」
「風邪ひいたら泊まらせてね」
「そこは帰ろうぜ」
「やだ」
同じイントネーションで「やぁだ」と言う。なんだか愛らしかった。これは甘えているか酔っているかに絞られたのではないだろうか。どちらにしろ風邪っぴきには対処のハードルが高いし、どんなに愛らしかろうとキッチンに立たせるわけにはいかないのだが。
「納戸にフルーツ缶があるからそれを」
「なんか作ってあげたいのに」
「気持ちだけで十分だよ」
「いや普通に料理したいんだよね」
「病人を実験台にする理由とは?」
「これが私の愛」
なるほど愛か。なっとく。
彼女の行動原理はその七割近くが好奇心に占められる。おおかた好奇心に張り付いた一割の愛が、俺の風邪をファクターとして膨張したのだろう。改めて猫のような女性だと思った。
「ていうか実験台ってひどくない?」
「お前も自分の料理の腕は把握してるだろ」
「そりゃ苦手だけども」
苦手というレベルだろうか? 兵器作成という点ではむしろプロフェッショナルではないか。新技術としてDARPAからお呼びがかかりそうである。
「ゲテモノ料理ができても愛の力で美味しく感じるよ」
「失敗前提かよ」
「風邪もきっと治る」
「愛の力すごいな」
確かに風邪は治りそうだ。宿主の息の根が止まればウイルスも死滅するに違いない。
冗談はさておき、彼女が自虐に走り始めたということはつまり、キッチン破滅の危機は去ったというわけだ。喜ばしいことである。できることなら自宅のキッチンを犠牲にして料理上手になってほしいものだ。
「あれ声色治ってきた?」
「マジで?」
「微妙に枯れてるけど治ってきてる」
「これが愛の力か」
自分ではわからないが、治ってきているらしい。彼女が再び額を押し当てて、「熱も下がってる」と呟いた。普段はプロヴァンスのラベンダー畑もかくやという甘い香りの彼女だが、その口からふわりとブランデーの風が漂ってきた。正体見たりって感じである。
「酔ってる?」
「愛にね」
「かっこいいこと言うじゃん」
「愛があればこんなことだって言えちゃう」
「やっぱ愛ってすげえわ」
やんややんやと愛について冗談を飛ばしあっていると、抗体が張り切りすぎた反動が来たのだろうか、急にまぶたが重くなり、俺は我慢できずに大欠伸をした。
なんという失態。いつもキリリとしたナイスフェイスを維持している俺が、あろうことか彼女の目の前でそれを崩すとは。一瞬後悔したが、もう何度も崩していたことに気付くとどうでもよくなった。
切り替えの早い男はモテるのである。覚えておくべきだ。
「眠いんだ?」
「まあね」
「寝かしつけてあげよっか」
「ベロベロに酔ってんな」
「まあまあまあまあ」
もはや目に見えて酩酊した彼女は、猪突猛進天元突破という具合に俺をひっ転がし、築地の、もとい豊洲のマグロをスライドさせるようにベッドに突き込んだ。
「じゃあ子守唄でも歌ってあげよう——あれ?」
俺はスヤスヤと眠りに落ちていた。赤子も同然の無防備でだらしのない寝姿であった。
そんな俺の頬にゆっくりと酒気を押し付けると、彼女はいたずらっぽく微笑んで、「おやすみ」と静かに呟いた。
閑話終わり。愛で病魔を滅したら、また次の語らいに想いを馳せる。
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