幼馴染の神百合作家様が私をヒロインにして百合小説を書いている。

虹星まいる

リコリスの花言葉

 ▼  ▼


「お姉ちゃん。わたし、やっと素直になれた」

「ユリナ……」

「歳の差なんて関係ない! 血が繋がっていたって構わない! わたし、お姉ちゃんのことが好きなの! 愛しているの!」


 妹の言葉に姉のヒカリは涙を零す。

 禁断だと思っていた。叶えてはいけない恋心だと思っていたものが、今、目の前に。

 ユリナはヒカリの両手を取る。白魚のような指が絡まり合う。

 二度と離さない。そんな意志が込められていた。


「お姉ちゃん。わたしと結婚してください」

「…………はいっ!」


 ふわり、と唇が触れた。

 こうして、苦難を乗り越えた姉妹は幸せの道を歩み始めたのだ────


 ▲  ▲


「あぁー尊い」


 私、日々原ひびはらナズナはベッドに倒れ込む。今しがた読み終えた「ほのぼのボーノ・リコリス」先生の恋愛百合小説の最終話に殺された。全身を「尊い」で殴られた私はただのむくろ

 頭がポワポワして、胸がポカポカして、お腹はキュンキュンうずいている。


「尊すぎて生きていけん……」


 語彙力を失った私はしばらく「尊い」以外の言葉を発することが出来ない。しかし、私にはまだやり残した使命があった。

 重たい身体を持ち上げて自室のノートパソコンに向かう。開きっぱなしのウェブ小説にはハッピーエンドが綴られたままだ。


「尊いなぁ……尊い。尊いしか言葉が出てこん」


 私は残った力を振り絞って 小説への応援コメントレビューサイトでの感想送付作者SNSへ感想リプ作者宣伝拡散百合コミュへの宣伝ブログでの宣伝最終話読み直し一話から読み直し同作者他作品読み直し を決め込んで眠りについた。


 ◆


 明くる正午。

 今日は生憎あいにくの空模様で、教室の窓を叩く雨滴が秋季冷涼を加速させる。

 数学教師の声は全く頭に入ってこなくて、黒板に映る文字記号も何を書いているのかサッパリだ。真面目に講義を受けているフリを続けること数十分。ようやっと終業の鐘が鳴った。


 昼食休憩特有の開放感に騒がしくなる教室。

 私は食堂へ向かうために席を立ちあがり────授業後もに集中する彼女へと声をかけた。


「リコ。食堂に行こうよ」

「うわっ、えっ、なに!?」


 スマホを熱心にしていた友人────入須いりすリコは椅子に座りながら飛び跳ねるという器用な芸当を見せた。

 いつもは勝ち気な猫目が驚きに見開かれている。


「今、スマホで何してたの?」

「なななな何もしてないけど?」


 リコは咄嗟とっさにスマートフォンをふところへ隠す。肩口にかかった黒髪をサッと手で払った後、慇懃いんぎん無礼に腕を組んで見せた。

 明らかに挙動不審だが、それもそのはず。

 彼女はを嗜んでいたのだから。


「そ、それで? ご飯を食べに行くの?」

「そのつもりで声をかけたんだけど」

「あー……お生憎サマ。今日はお弁当持ってきてる」


 リコは机に引っ掛けていたバッグの中から可愛らしいパステルピンクの小箱を取り出した。


「えー。じゃあ弁当持って食堂で一緒に食べようよ」

「うっ……そうしたいのは山々なんだけど、今日はちょっと都合が悪い」

「りょーかい。じゃあ、またの機会に」

「うん……ごめん」


 強気になったり、しょぼくれたり。コロコロと表情を変えるリコが可笑しくて、私は思わずその頭を撫でていた。


「は、早く食堂に行けっての!」

「はーい」


 ぷんすかと腕を振り回すリコに適当な言葉を返した私は財布を握りしめて教室を出ていく。最後に一度だけ後ろを振り返ると、リコは弁当を食べる時間すら惜しんでスマホに文字を入力し続けていた。


「執筆頑張ってくださいね……!」


 隠れファンの一人として、幼馴染で親友のリコ────ペンネーム「ほのぼのボーノ・リコリス」先生にエールを送った。


 ◆


 私が百合文化に目覚めたのは中学二年生の時分だった。退屈しのぎに巡回していた小説投稿サイトで見かけた女の子同士の恋愛作品に感銘を受けたのだ。大っぴらには出来ないけれど、一人で楽しむ秘密の趣味ができた瞬間でもあった。

 その頃から百合界隈の民になった私は漫画、ドラマ、小説などなど媒体を問わずドップリと沼に浸かっていた。中でも熱心に嗜んでいたものこそ「ほのぼのボーノ・リコリス」先生の百合小説であった。

 ほのぼのボーノ・リコリスというフザケたペンネームから繰り出される優しい世界は私の心をトロトロに融解するのだ。

 先生が描く物語は良い意味で。登場人物は皆どこにでもいる普通の女の子。無垢で愚直で等身大な少女たちの友愛恋愛努力勝利は掛値かけねなしに魂を揺さぶる。常識や先入観に懊悩する彼女たちが思いの丈をぶつけてハッピーエンドを迎える姿に何度涙をこぼしたことか。


 だからこそ、ほのぼのボーノ・リコリス先生が幼馴染の入須リコだと知った時の衝撃は昨日のことのように鮮明に思い出せる。







 高校一年生の春休み。めでたく同じ高校へ進学を果たすことになった私とリコは祝賀の意味を込めてお泊り会を開くことにした。

 その日は二人でショッピングに出掛け、夕飯はファミリーレストランで済ませていた。あとはリコの家に戻って寝泊まりするだけ。


 だからこそ、互いに油断していたのだと思う。


 家に帰りついた私たちは玄関先で荷物の整理を済ませる。


「んじゃ、ナズナは先に私の部屋に行って休んでなさいよ」

「あれ、リコは?」

「お風呂沸かしに行ってくる」

「おぉー、ありがとう」

「感謝しなさいよねー」


 私たちは幼馴染ということもあってお泊り会にも慣れている。今回はホストであるリコがお風呂や寝床の準備をすることになっていた。

 浴室に向かう幼馴染の背中を見送った私は鼻歌交じりに彼女の私室へ向かう。


「今日は寝落ちするまでガールズトークするぞーっ、と……あれ?」


 部屋の明かりを点けると、私の視界にデスクトップ型パソコンが飛び込んでくる。そのディスプレイは電源が入ったまま何某なにがしかを表示していた。


「おやおや、パソコンの点けっぱなしはよくありませんなー」


 やめておけばいいのに親友特有の悪ノリを出してしまった私は軽い気持ちで画面をのぞき込む。


【ほのぼのボーノ・リコリスのホームページ!  最新記事:新作百合小説を投稿しました!】


 心臓が飛び出たかと思った。

 何度も何度も目を擦って、その字面じづらを凝視する。


【ほのぼのボーノ・リコリスのホームページ!】


 その文字列の意味を理解した途端、己と親友が薄氷うすらいの上に立たされている光景を錯覚した。


 これは、たぶん、見てはいけないものだ。

 勝ち気で強気なリコのことだから「いちゃラブあまあま純愛系百合小説」の作者であることが知られた瞬間、ずかしてもおかしくない。

 私が百合オタクであることを隠すように、彼女もまた百合作家であることを知られたくはないはずだ。


 刹那、私は本能に従ってその場を飛び退いた。


「お風呂沸いたぞナズナー……」

「あ、ありがとう! 先に入っちゃおうかな!」

「それはいいけど、何で天井に向かって返事して────げっ」


 折よく現れたリコは身を固める私を訝しげに見遣り、次の瞬間それに気が付いたようだった。

 私の横をツカツカと通り過ぎたリコは人差し指一本でパソコンの電源をブチ落とす。

 ちょっ、そんなことしてほのぼのボーノ・リコリス先生の神作品データが消えたらどうするんですか! という思いを呑み込み、素知らぬふりをする。


「ねえナズナ……見た?」

「な、なにを……?」


 努めて平静な声音で言葉を返す。


 リコがほのぼのボーノ・リコリス先生だったんですね!

 どうしてほのぼのボーノ・リコリスってペンネームにしたんですか?

 いつも応援してます。我々のもとに尊い作品を届けてくださり感謝感激です!


 これら全てを呑み込んだ私は嘔吐を耐える酔っぱらいのような顔をしていることだろう。


「……見てないのなら別にいいんだけど」

「うん!」


 よかったー。誤魔化しきれたようだ。

 私の迂闊な行動で危うく偉大なる百合作家様かみさまが筆を折るところだった。


(リコがいちゃラブ系百合作家だったなんて意外だったけど…………よし、これからはファンの一人として応援しないと!)


 高校一年生の春休み。私は誰にも知られぬように固い誓いを立てたのだった。


 ◆


 季節は巡り現在。読書の秋を迎えていた。

 私は自室のパソコンの前で電波時計を正視する。

 本日、水曜日十九時はほのぼのボーノ・リコリス先生の小説が投稿される時間だ。週に一度の定期更新を心待ちにする健全な百合オタクたる私は三十分前から画面の前で待機している。


 そして、視界に羅列された【19:00】。サイトのリロードボタンを押すと、ほのぼのボーノ・リコリス先生の小説が投稿されていた。


 タイトルは「リコリスの花言葉」。


「やった! 新作だ!」


 血の繋がった姉妹の恋愛模様を描く連載が先週完結を迎えたため、今週からは新たな百合物語が紡がれるのだ。はやりに震える手を抑えて、小説のページを開く────




 ▼  ▼


 『第一話:私と幼馴染』


 幼い頃から彼女は私の憧れだった。自分の気持ちに素直で、笑顔が絶えない人だったから。

 対する私は不愛想で、語気が強くて、性格が悪い。

 一緒に居たって絶対に楽しくないはずなのに、あの人はずっと私の傍にいてくれた。


 いつの間にか彼女を目で追うようになった。


 この想いは抱いてはいけないものだと分かっていても、止めることが出来ない。


 これは、幼馴染のに憧れてしまった私の恋の物語だ────


 ▲  ▲




 第一話を読み終えて暫く放心していた。文量こそ多くないものの、そこに込められていた内容はナズナにとってあまりにも衝撃的だった。


「ナズナって、私と同じ名前……」


 ほのぼのボーノ・リコリス先生の小説に登場した「ナズナ」は黒髪を肩甲骨のあたりまで伸ばし、背丈は平均より少し高いくらい。運動部に所属していて、テストの点数はお世辞にも良いとは言えない。


 客観的な事実だけを集めてみても「ナズナ」は日々原ナズナその人だった。 小説のヒロインとして私が登場していた。

 そして、小説の主人公は「リコ」という名前の少女。


「ど、どういうこと……!?」


 幸せな読後感よりも混乱がまさっている。

 もし私の解釈が間違っていないのであれば「リコという少女が幼馴染のナズナに恋をしている」という話なのだ。冷静でいられるわけがない。


「どうしよう……本当にどうしよう」


 部屋の中を右往左往した後、心を整理するためにパソコンの電源を落とす。

 この日は胸の鼓動がうるさくてなかなか寝付くことができなかった。


 ◆


 翌週の水曜日。私は落ち着きなくパソコンの前で待機する。

 この一週間、リコに不審な動きは無かった。いつものように登校して、私と昼食を取って、隙間時間にスマホで小説を執筆。

 勘繰ることがバカらしくなるほどリコはどこまでもリコだった。

 そして、来たる投稿時間。




 ▼  ▼


  『第二話:ナズナとの日常』


 私とナズナは幼稚園からの仲。小学校、中学校を共にし、受験を乗り越えて高校も一緒になった。

「腐れ縁だねっ」なんてナズナは冗談めかして言ってきたけれど、それは違う。私がナズナの後を追いかけているだけだ。


 彼女が隣町の中学校に通うというから、私は親に無理を言って電車通学にしてもらった。

 彼女が地元の高校に進学するというから、私は第一志望を蹴って同じ高校に進学した。


 ただ、傍にいたいという一心だった。恋人のような繋がりも、将来を確約するような言葉もいらない。

 私たちは幼馴染で親友。それだけでよかったのに……。


 私の心は悲鳴を上げ続けていた。十年来の片思いを簡単に捨て去ることはできなかった。希望を持つことがダメなのだと理解していても、心の奥底で燻る恋慕は消えてくれない。


 いい加減、この気持ちに決着ケリを付けるべきなのかもしれない。

 これ以上自分に嘘を吐いていたら頭がどうにかなってしまいそうだ。


 今週末の休み。ナズナを遊びに誘い出してみようと思う。

 そこで私のありったけの気持ちをぶつけて、この想いを清算しよう────


 ▲  ▲




 翌日の昼下がり。教室の中で机を並べて昼食を取る私とリコの間に言葉は無かった。

 私の胸中を埋め尽くすのはほのぼのボーノ・リコリス先生────リコの小説。あの物語では主人公である「リコ」がヒロインの「ナズナ」に恋をしている情景が描写されている。小説内の「リコ」と「ナズナ」の関係性がノンフィクションなのだとしたら、現実のリコがナズナに恋をしているということで────


「ナズナ? お弁当食べないの?」

「えっ」


 気が付くと、息がかかりそうな距離にリコの顔があった。慌てた私は盛大に仰け反り、椅子から転げ落ちそうになる。


「そんなに驚くことないじゃん」

「ご、ごめん。ボーっとしてた」

「ふーん。風邪とかひかないでよ。移されても困るし」


 リコはパックの野菜ジュースをストローで吸い上げながら、やれやれと首を振った。

 対する私の心臓は跳ねっぱなしだった。いきなり声を掛けられて驚いたということもあるが、それ以上にリコの顔が近くにあったことにドキドキしていた。


(────ううっ、意識するなってほうが無理だよ)


 先週から四六時中リコのことを考えていたせいで彼女の一挙手一投足に対して過敏になっている。

 ほのぼのボーノ・リコリス先生の小説に出てくるキャラクターが架空の人物ならば私の懸念は杞憂であるのだが……。


「そうだ。ナズナは今週末ヒマ?」

「え、まあ、時間あるけど……」

「じゃあさ、水族館に行かない? ペアチケットあるんだけど」

「水族館かぁ……いいね。行く」

「やった。じゃあ、土曜日の朝にウチに来て」

「はーい」


 私は深く考えることなくリコの誘いを承諾したが────


『今週末の休み。ナズナを遊びに誘い出してみようと思う。』


 ────小説の内容を踏襲しているではないか。

 そして、小説は次のように続いていたはずだ。


『そこで私のありったけの気持ちをぶつけて、この想いを清算しよう────』


「あっ…………」


 リコを見遣ると、彼女は物憂げに教室の外を眺めていた。その横顔はとても綺麗で、私の胸は高鳴るばかり。

 今までリコを恋愛対象として意識していなかった私にとって、この有りようは過分に劇的ドラマチックだった。


(ど、どうしよう……顔が熱い────)


 小説を通じてリコが秘匿してきた想いを知ったことで、私の中にトクトクと新たな感情が芽吹いていた。


 ◆


「おかしなところはないよね」


 土曜日。家を出る前に身だしなみのチェックを行う。

 美容室は昨日行ったし、メイクもバッチリ。ダークグレーのサロペットスタイルにネイビーのキャスケット帽を合わせた。いつもより大人っぽいコーディネートはリコとの……で、デートを意識したものだ。

 もしかしたらもしかするかもという思いを胸に、私は徒歩五分の場所にあるリコの家へと向かった。


「おはよ。時間通りね」


 リコは玄関先で待っていた。薄手のロングカーディガンに黒のスキニーパンツ、同色のパンプスで足元を纏めた彼女は私同様に気合が入っている……気がする。

 腕時計で時間を確認したリコは私の手を引いてバス停へと歩いて行く。


 リコとは親友の仲なので毎月一回は遠出をする。今回は隣県までバスに揺られて行くことになったのだが、その道中で私は緊張に身を固めていた。


「見て、きれいな海」


 海沿いを走るバスの車窓から見える景色は確かに壮観なのだが、それよりも体を寄せてくるリコに気を取られてしまう。首元のひらけたブラウスから覗く鎖骨がなまめかしい。花のような香りパルファムが鼻腔をくすぐった。

 スキンシップなんて慣れているはずなのに、今日の触れ合いは筆舌に尽くしがたいむず痒さがある。私が意識的に「リコ」という存在を感じているからだろうか。



 バスに揺られて二時間。

 近くの喫茶店でお腹を満たしてから水族館に足を踏み入れた私たちは揃って感嘆の声をあげた。

 広大なエントランスには巨大な水槽が併設されていて、「ああ、水族館に来たんだな」という当たり前の事実を突きつけられたような気がしていた。

 受付から入場を済ませた私たちは幻想的な水の世界を遊覧する。水生生物について明るいわけではないためクラゲが綺麗だとかクマノミが可愛いだとかの愚直な感想しか出てこないが、リコと一緒に過ごすアクアリウムがかけがえのないものであることは間違いない。

 こんなことを言ったら間違いなく飼育員の人に怒られるけれど、私は魚を見に来たのではない。リコと幸せなひと時を紡ぐためにここを訪れたのだ。


「ナズナ、見て。チンアナゴ水槽」


 手を引くリコにつられて私も腰をかがめて中を観察する。水槽に敷かれた砂利の中から触手のような生物たちがウヨウヨと顔を出したり引っ込めたりしている。得も言われぬ気持ち悪さを感じた私は粟立つ肌を抑えるように腕を撫でさすった。


「きもちわる……」

「そう? 私は可愛いと思うけど。チンアナゴ」

「どこが?」

「丸っこいところとか。ニョキニョキしてんのも健気けなげでイケてない?」

「えぇー……」


 丸っこいのが見たいならヒヨコでいいし、ニョキニョキが見たいなら雨後のたけのこでも観察すればいい。わざわざミミズの進化系みたいな生き物を眺めなくても……。


「あ。どうしてこの生き物にチンアナゴって名前が付いたのか知ってる?」

「へ?」


 リコからの唐突な質問に素っ頓狂な声を出してしまった。どうしてチンアナゴはチンアナゴなのか。そんな哲学的な問題、考えたことがある筈もない。

 チンアナゴというくらいなのだからアナゴの仲間なのだろう。さすれば「チン」とは。

 触手のようなフォルム、ウネウネとうごめく姿。そこから連想される……チン、チン、チン…………。

 私は顔が火照ることを自覚した。


「い、言えるわけないじゃん!」

「……何が?」


 恥ずかしさで語気が強くなる私にポカンとした顔を見せるリコ。どうやら彼女の望む答えを返せなかったらしい。


「チンアナゴをよーく観察すれば分かると思うんだけど、こいつらすごい愛らしい顔してんの」

「顔?」

「この顔がちんっていう犬に似てることからチンアナゴって名付けられたらしい」


 リコが指さす先には『よく分かるチンアナゴの解説!』なる立て札があった。なるほど、リコはそこから知識を手に入れたらしい。

 それにしても────


「犬の顔……?」


 勇気を振り絞ってチンアナゴを凝視する。しかし、やはりというべきか生理的に無理だった。

 私はリコの手を掴んでチンアナゴから引き剥がす。ヒトデやナマコといった棘皮きょくひ動物も見た目が苦手なので、申し訳ないが彼らの水槽の前は足早に通り抜けさせてもらった。

『おもしろい海の生き物!』と銘打たれた回廊を抜けると屋外プールが現れる。『楽しいイルカショー!』という看板が掲げられていた。

 今日は土曜日ということもあって家族連れやカップルの観覧者が多いため、人気があるエリアは人でごった返している。イルカショーの会場となるこの場はほぼ満員だ。


「見ていく?」

「せっかくだし見ていこうか」


 互いの合意をもって空席を探す。暫く歩き回って腰を落ち着けた場所は最前列だった。

 思わぬ良席に小さく息を吐く。


「一番見栄えが良い場所なのに誰も座ってないんだね」

「濡れるのが嫌なのよ。きっと」

「子どもとか率先して座りそうだけどなぁ」

「そこは、ほら……現代っ子ってそういうもんだし」


 そういうものらしい。現代っ子ではない十六歳の我々は水しぶきに濡れることもいとわずイルカショーを楽しむことにした。配布されたビニール製の合羽カッパを纏うと、ドルフィントレーナーのアナウンスとポップ調の背景音楽BGMが場内に響く。

 そして始まるイルカたちの演舞。

 水面から顔を出した彼らは音楽に合わせてクルクルと回り始める。場内に響く拍手の音。

 エサを貰ったイルカたちは水中に身を潜め────曲のサビが訪れる寸前、水しぶきと共に宙へ飛び出す!


「すっご……!」


 後方伸身宙返り二回ひねり。流線型の美しいフォルムに見惚れる。

 しかし、呆けている場合ではなかった。

 イルカたちは着水と共に観客席へと水を弾き飛ばしたのだ。


「ひゃーっ!」

「うわっ、口の中に水入った!」


 イルカのパフォーマンスにまんまとしてやられた私たちはビニールに覆われていない顔面を濡らす。その後フラフープなどの小道具を交えて美技を披露したイルカたちに称賛の拍手と歓声を送り、ショーは幕を閉じた。


「けっこう濡れたー……」

「だねー。私、お手洗い行ってくるね」

「ん。近くの土産屋で待ってる」


 リコに一言断って化粧直しのために館内のトイレへと向かう。鏡に向かって二分でメイクを終えた私はリコのもとに戻らず、個室へと足を踏み入れた。

 バッグから取り出したスマホでを読み直す。


 ▼ ▼


 今週末の休み。ナズナを遊びに誘い出してみようと思う。

 そこで私のありったけの気持ちをぶつけて、この想いを清算しよう。


 遊びに行くなら水族館とか遊園地がいい。デートスポットでありながら、友達と行っても不審に思われない場所。

 その後は夜景が綺麗なレストランに行こう。オレンジジュースのグラスを傾けて、二人で思い出を語ろう。


 そして、ディナーの終わりに告げるのだ。


 ずっと私のそばに居てください、って。


 ▲ ▲


「……」


 スマホを持つ手が僅かに震えた。リコが書いた小説通りに予定が進むのであれば、これからレストランで彼女の想いを伝えられることになる。


 私にとってリコは幼馴染で唯一無二の親友だった。

 愛の告白を受けることになるなんて考えたこともなかったから、この十日間は悩みに悩んだ。

 私とリコが付き合ってもいいのかな。お母さんとお父さんは私たちの関係を認めてくれるかな。彼女の愛を受け止めきれるのかな。

 だが、そんなものは些事だ。リコと一緒にいられるのならば、私の懊悩は些末なものでしかないのだ。


(この胸の中にあるドキドキを大切にしよう)


 リコの気持ちを知ってから、私は仄かな熱を抱いていた。

 これを愛と呼ぶのならば。育んでいこう。リコと共に。

 心の準備は出来ている。あとは彼女の言葉を待つだけだ。


 スマホの電源を落とした私は愛しい彼女のもとへと赴いた。


 ◆


 時刻は十八時を回ったところ。いつもより早めの食事は夜景に彩られている。

 オレンジ色に染まったグラスを交わして私たちのディナーは始まった。


「すごく綺麗だね」

「そうね。予約していた甲斐があった」


 リコはステーキを一つ口に含んで嚥下した。その首元にはイルカのチャーム付きネックレスが光っている。


「あのさ、今日はありがと。色々付き合ってもらっちゃって」


 リコは口元をナプキンで拭き取って話を切り出した。


「ううん、色々連れて行ってもらって、こちらこそありがとうだよ」

「そっか。ナズナに楽しんでもらえたのなら何よりだ」


 リコは口元に笑みを作る。しかし、その笑顔はどことなくぎこちなかった。

 緊張、だろうか。


「もしよければ、これからも一緒に色んなところへ遊びに行ってくれる?」

「……う、うん!」


 リコの言葉に数瞬だけ反応が遅れてしまった。

 もしかして、今の言葉が愛の告白だったのだろうか。「私のために毎朝味噌汁を作ってください」的な。

 威勢のいい返事に何を思ったのか、リコは小さく唇を噛む。手元のグラスを小さく揺らした彼女は掠れた声で独り言ちた。


「────ありがと。うん……そうだ、きっとこれが正しいんだ」


 眩しいものを見たというようにリコは目を細める。


「ね、ねえ、リコ────」

「ん、何?」

「なに、って……」


 泣いている。リコが泣いている。

 いつも好奇心に溢れていて、大きくて、綺麗なリコの双眸そうぼうから涙がこぼれている。


「あ……」


 リコも気がついたようだった。しかし、その表情は驚きに満ちている。理解できない、信じられないと言わんばかりの相貌。


「あ、あれ、なんでだろ……涙が」


 私は慌てふためくばかりでハンカチを差し出すことすら出来ない。

 リコはややして落ち着きを取り戻したのか、消え入るような声で呟いた。


「ごめん……取り乱した」

「だ、大丈夫?」

「へーきへーき。ちょっと思うところがあっただけ」


 リコは顔をふせたまま私の手を取った。


「今日はナズナと遊べて楽しかったよ。これからもずっととして一緒に居てほしいな」


 友達。

 恋人ではなく、友達。


 リコは愛の告白をしてくれなかった。


 その日の帰り。バスの中で私たちの間に言葉は無かった。


 ◆


 休みが明けて平日。私たちは嫌でも学校で顔をつきあわせることになる。暗雲立ち込める心持ちのまま登校した私を待っていたのは、いつもと変わりない様子のリコだった。


「おはよ、ナズナ。数学の課題やった?」

「おはよう、リコ。課題はやったけど……最後の問題が分からなかった」

「じゃあ、答え合わせついでに教えてあげる」


 リコは本当にいつも通りだった。それが空恐そらおそろしくなって、私は無理やり話題を引き出した。


「あのさ、この前の水族館のことなんだけど」

「────っ」

「楽しかったよね」

「…………うん」

「ごめん、それを伝えたかっただけ」

「…………」


 私が先日の話をすると、リコは罰が悪そうな顔をして目を逸らした。

 やっぱり、何か思うことがあったんだ。

 それが何かはわからないけれど、今は無理やり聞き出すべきではない。私は────いや、は互いに平静の皮を被って学生生活を送ることにした。







 それは、ある種の予感だった。長年ほのぼのボーノ・リコリス先生の小説を愛読していた私だからこその芸当とも言える。


 ─────本日分の小説更新でリコの気持ちが露わになる。


 どうしてレストランで想いを吐露しなかったのか。何故、急に涙をこぼしたのか。彼女は何を諦め、何を失ったのか。

 その全てが今からここに映し出される。

 私は緊張に痛む胸を押さえながら、その本文に目を通し始めた。




 ▼ ▼


『最終話:伝えられなかった想い』


 私とナズナは約束通り、週末を水族館で過ごした。少し気恥ずかしいけれど、その時の思い出をここに書き記していこうと思う────


 ▲ ▲




 小説の書き出しはたったの二文。

 ほのぼのボーノ・リコリス先生の小説は韻文いんぶん調であることが多いのだが、この話は情動的で散文的だった。

 流れに任せて書き殴ったような、彼女らしくない文章。

 小説を読み進めていくと、暫くリコ視点でのデートの話が続く。

 思い出すような形で描かれているため、ところどころに彼女のバイアスがかかっていることが分かる。

 そして、物語は終盤を迎える。




 ▼ ▼


 ナズナとレストランを訪れて、言の葉を交えて、私はほんの少しだけ未来に想いを馳せてしまった。

 私と違い、ナズナは明るくて笑顔が絶えない子だ。この子にはきっと、私なんかより相応しい人がいる。それを想像できてしまう自分が憎かった。

 屈託なく笑うナズナに想いを伝えることが怖い。

 私に告白されたって、ナズナからすれば迷惑以外の何物でもないのだと思うと辛くて涙が流れた。

 苦しくて手が震える。浅ましいことを自覚してナズナの顔を直視できなかった。


 どうにか平静を保とうとして、でも、保てなくて、絞り出した声は「ずっと友達でいようね」という一言。


 十年間秘めてきた思いが言葉になることはなかった。


 私は無力だ。必死に必死に必死に勇気をかき集めた結果がコレだ。もう、これから先に何があったって私は告白なんてできないのだろう。


 だから、この話はここで終わり。オチなんてものはない。

 どれほど先になるか分からないけれど、いつか笑い話にできたらいいな。

 そんな思いを胸に抱いて、今夜も枕を濡らすことになりそうだ。


 ▲ ▲




 小説を読み終えた私は茫然としていた。これがリコの本心なのだとしたら、あまりにもむごい結末。

 ページを下にスクロールしていくと、小説を読み終えた読者の感想が並んでいた。


【リコリス先生って失恋話も書くんですね!】

【素敵です。これからも応援してます。】

【リコちゃんが前向きになれるといいなー】


 読者にとって「ほのぼのボーノ・リコリス先生」が書いた話はフィクションだ。しかし、この話を娯楽として片付けられることが悔しかった。

 なぜなら、リコが書いた話は恋愛小説でもなく、百合小説でもなく────


「────ナズナ宛のラブレターだから」


 作品のタイトルは「リコリスの花言葉」────つまり、「悲しい思い出」。

 リコは最初から自分の想いが成就しないことを心の何処かで理解していたのだろう。だから「届かないラブレター」として恋情を形に残した。十年に渡る大切な想いを忘れないために、失わないために。彼女が得意とする「小説」という枠に当てはめて。


 そうと分かれば私にできることなんて明白だ。このラブレターに対する返事を────小説に対する感想を送ればいい。

 文字ではなく、言葉で。


 スマホを手に取った私は押し慣れた「通話」マークをタップする。彼女は二十秒足らずで応答した。


『ナズナ? どした、こんな時間に』

「今から会いたい」

『は、はあ!? いま何時だと思って────』

「リコが何と言おうと私は会いに行くよ。だって────」


 返事をしなきゃ。その言葉が届くと、電話口から息を呑む音が聞こえてきた。

 会話もそこそこに家を飛び出す。向かう先はリコの家。走って行けば二分で辿り着く。


 これからのストーリーに私の顔は緩む。

 あなたにバッドエンドは似合わない。


 ◆


 リコの私室に足を踏み入れると、彼女は不安と緊張が綯交ないまぜになった顔で私を見つめていた。お互いに立ったまま、時間が惜しい私はたちまちちに切り出す。


「話があるの」

「それは分かってるけど……何?」

「単刀直入に言うね。リコの小説読んだよ」

「────っ?!」


 リコは目を丸くする。次いで耳まで赤くなった。彼女は誤魔化すようにわたわたと手を振る。


「な、なんのことかサッパリなんだけど!」

「ほのぼのボーノ・リコリス。これってリコだよね」


 スマホに映した【ほのぼのボーノ・リコリスのホームページ!】を突きつけると、リコは明らかに狼狽ろうばいした。

 言い逃れをさせないためにリコの顔を見つめる。我慢比べが続いた後、彼女は観念したように小さく肩を落とした。スマホを懐に収めた私は一歩、リコとの距離を詰める。


「私はリコの書く話が大好きだよ。匿名で何度も感想メッセージを送ってる」

「えっ……」

「そして今日は、ほのぼのボーノ・リコリス先生のファンとしてではなく、入須リコの幼馴染である日々原ナズナとして感想を伝えに来た」


 コクリ、とツバを飲み込む。

 ここからは引き返せない。だが、覚悟はとっくにできている。


「本日更新の最終話。私はあの終わり方に納得できない。だって────」


 大きく吸い込む。思いの丈を一息に。私の感情をリコにぶつける。


「私はリコのことが好き。サラサラの髪と大きな瞳が好き。手入れの行き届いた綺麗な肌が好き。形のいいネイルが好き。長くて細い脚が好き。他人に対して思いやりのあるところが好き。時々ツンケンした態度を取っちゃうのは恥ずかしさの裏返しだってところが好き。一緒に居るだけで安心できる包容力が好き。頭が良くて頼りになるところが好き。可愛い小物を集めてるところが好き。嫌いな食べ物も我慢して食べるところが好き。努力を惜しまないところが好き。私と同じ趣味を持っているところが好き。落ち着いた雰囲気のファッションセンスが好き。透き通るように綺麗な声が好き。丁寧な文章を書くところが好き────」


 もう一歩、リコとの距離を縮める。


「私が世界で一番リコのことを理解してる。リコに相応しい人は私以外にいない!」


 私を見つめるリコの目尻に小さな光が灯る。

 本当はまだまだ言い足りないけれど、充分に伝わったようだ。リコはくずおれるようにしてペタンとベッドの縁に腰を落とした。


「そういうところ…………本当に敵わないな。私が十年も我慢してきた言葉を臆面もなくスラスラ言っちゃうし」

「私はリコの奥手で慎重なところも好きだよ」

「……ばか」


 私もリコの横に腰を下ろす。彼女の熱を近くに感じながら、今日この場で一番言いたかったことを告げる。


「あのさ、リコの本当の気持ち聞かせてよ」

「っ……小説、読んだんでしょ。わざわざ言わなくても」

「それでも聞きたいの。直接。言葉で」


 リコは文を書くのが上手だ。語彙力が無い私なんかに比べて情緒溢れる言い回しをたくさん知っている。

 だからこそ、私はリコの口からその言葉を聞きたかった。飾り付けられたものではなく、不愛想で不器用で、どこまでも純粋なリコの気持ち。


「うっ、あの…………」


 リコは唇をわななかせて身を縮める。私は緊張に悶える彼女の背中を押す。


「大丈夫。私とリコの気持ちはきっと同じだから」

「うん────」


 覚悟を決めた少女の瞳に迷いは無かった。

 真っ直ぐに見つめてくる宝石に射抜かれる。


「私は……ナズナのことが好き」


 いつの間にか私たちの手は触れ合っていて、熱を交換するように指を絡め合う。


「愛情表現が上手くできなくて、ナズナへの気持ちを隠すことだけ上手くなっていって…………信じてもらえないかもしれないけど、今の私、死ぬほどドキドキしてる」


 ちゃんと伝わってるよ。指先から伝わる脈動がリコの気持ちなんだよね。


「絶対に叶わない願いだって、叶えちゃいけない想いなんだって勝手に諦めてたけど────やっぱり、好き」


 強張っていたリコの顔から力が抜けていく。ああ、素直になれたんだ。

 これが、彼女の本心。


「好きなんだ、ナズナのこと。大好き」


 屈託なく笑うその顔を見ているだけで、こちらまで泣きそうになってくる。


「恋人として、ずっと私の傍に居てください」


 リコの気持ちを正面から受け取った私は何度も何度も強く頷く。

 想いは通じ合った。


「ありがと。私に勇気をくれて」


 こちらこそ、ありがとう。よろしくね。

 この人の彼女になれて、本当によかった。


 ◆


 晩秋を迎えて冬の足音も近づいてきた頃。学校からの帰り道はイチョウの葉に彩られている。

 私は人肌が恋しくなって、隣を歩く恋人の手を握った。


「きゅ、急に手を繋がないでよ。びっくりするじゃない」

「いいじゃん。私たち恋人なんだし」

「〜っ! ほら、周りの人も見てる……」

「仲良しアピールしていこうよ」

「もう……」


 首を縮めて顔を赤くするリコは小動物のようで愛らしい。


「そういえば、今日は小説更新するの?」

「うん。新作の短編小説を出そうと思ってる。少し長めだから、時間がある時にでも読んで」

「やった。すごく楽しみ」


 にぱっ、と笑って見せると、リコはむず痒そうな顔をした。

 私がリコと付き合い初めてからも「ほのぼのボーノ・リコリス」先生への敬愛は続いている。作者に口頭で感想を伝えられるようになったことはファンとしてこれ以上にない喜びだ。


が完結してから一ヶ月くらい経つけど、書き直さないの?」

「べ、別にアレはアレでいいでしょ……フィクションだし」

「フィクションになってよかったね」

「うん………………ありがと」


 伝えられなかったリコの想いは、ちゃんと私のもとに届いた。だから、私たちの物語はハッピーエンドだ。


 秋風に舞う帰路の中で、私たちはいつまでも笑い合っていた。


 ◇







「もしも私がリコのラブレターを読んでいなかったら、どうするつもりだったの?」

「……どうもしないよ。時間に任せて、傷が癒えるのを待つしかなかった」

「そっか。じゃあ、私たちの関係は神様に貰った奇跡だ。一生かけて大切にしていかないと」

「そういうこと言えるところ、ほんとカッコいいよ。ナズナは」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

幼馴染の神百合作家様が私をヒロインにして百合小説を書いている。 虹星まいる @Klarheit_Lily

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ