第14話 告白
この家で、こんなに安らいだ気持ちで眠りにつくのは初めてのことだった。
世界が闇に沈んでいても、不安じゃない。ここは家だから、家族がいるから、安心して眠っていいのだと言われている気がした。
真也がくれた熱帯魚の水槽の水音だけが聞こえる。コポコポと細かい泡が弾ける音が、眠りを誘う。
ふいに戸が開く音が聞こえて、母が入ってきたのかと思う。母は父と話したいことがたくさんあるから、珈涼には先に休むようにと言っていたのだ。
お話は終わったの、お母さん。そう言いかけて、珈涼は空気の流れに違和感を覚える。
母のまとうせっけんの香りではない。性急で、珈涼とは違う熱を帯びた肌の匂い。
異変に気づいて体を起こす前に、耳の横に手をつかれて身動きが取れなくなる。耳元で低い声が響く。
「言ったでしょう。絶対に手放さないと」
名前を呼ぼうとして、彼の暗い瞳に射抜かれた。
「泣いても暴れても構いません。もう連れて行きますから」
月岡は珈涼を抱き上げると、部屋を出る。部屋の外には月岡の配下の者らしい男たちがいた。父の家の者たちを制して、月岡を外に誘導していく。
「つ、月岡さん。待ってください。母たちが心配します」
月岡は言葉を違えなかった。珈涼が懇願しても、せめて話を聞いてほしいと頼んでも、決して足を止めることはなかった。
車体の長い車に乗せられて、珈涼はシートベルトに似た拘束具で座席に固定される。
「……珈涼さん」
どこに行くのか。それを問おうとして、月岡が珈涼の前で膝をついたことに目を瞬かせる。
「珈涼さん。どうか、私にあなたの世話をさせてください」
まるで下僕のように珈涼の前で頭を下げる。
「お体に触れるなというなら、もう一切触れませんから。私のことが嫌いで構いませんから。でも、でも」
次第に子どもがわがままを言うような口調に変わっていく。
「……好きなんです。あなたが可愛いんです。あなたに笑ってほしくて、ただ馬鹿なことを繰り返すしかできないんです」
珈涼はその告白に息を呑んだ。
月岡が、自分のことを好き。その言葉は雷が走ったように衝撃だった。
月岡が顔を上げる。その途端に目に映った光景を、珈涼は一生忘れることはないと思う。
「……月岡さん?」
両目から零れ落ちる透明な雫。それは涼やかな目を赤くにじませながら溢れて、頬を伝っていく。
泣いている。月岡は、とめどない感情の奔流を露わにしていた。
「子どもの頃、に」
珈涼から涙を隠すこともせず、月岡はにじんだ目で珈涼をみつめて口を開く。
「私が十四の時でしたから、珈涼さんは四つの頃でしょう。私は珈涼さんのお母様のお店に行ったことがあります。そこで、初めて珈涼さんにお会いしました」
月岡は珈涼の手に目を細める。
「まだ小さな両手でカップを置いて、どうぞ、と仰ったんです。はにかんだような笑顔が、胸をつくようで」
珈涼の脳裏に一人の少年の姿が浮かんだ。
「……コーヒーを注文されました」
一度きりだったから顔立ちはよく思い出せない。ただまだ中学生くらいなのにコーヒーなんて、大人っぽいお兄さんだと思って憧れを抱いたのを覚えている。
そんな頃から自分は月岡に憧れていたのだと、珈涼は不思議な思いがした。
月岡は苦笑する。
「背伸びをするのが好きな子どもだったんです。でもそんな背伸びも無意味でした」
口元を歪めて月岡は言う。
「思わず外に飛び出して、二度とお店に行けませんでした。四歳の子ども相手に、私は無力でした」
自嘲気味に笑いながら、月岡の目は珈涼から逸らされる気配もない。
「それから、どんなに真面目に誰かとつき合っても、憂さ晴らしのように遊んでも……どうあっても」
ぽろ、とまた月岡の目から涙がこぼれ落ちた。
「珈涼さんでなければ何一つ満足しない。そういう自分に気づいたんです」
首を横に振って、月岡は言葉を切る。
「珈涼さんが龍守の家に来てからは、毎日遠目から姿をみつめるのが楽しみでした。でも珈涼さんが進学もさせてもらえないと聞いて、それなら資金的に援助できればと。そんなことは都合のいい言い訳でしたが」
月岡の目が熱を帯びる。
「欲に目がくらんだんです。そして一度触れたら、もう離せなくて」
けれどすぐに月岡はその熱を抑え込んで、また頭を下げた。
「それでも珈涼さんを失うくらいなら、私は下僕で構いません。お願いです、珈涼さん。側に……いさせてください」
珈涼はやっと、月岡の心に触れた思いがした。
体は何度も触れたのに、ずっと遠かった。珈涼自身が遠ざかっていたのだから。
「月岡さん。手を」
珈涼は手を伸ばす。拘束具があって届かないのがもどかしい。
月岡は膝立ちのまま近づいて珈涼の手を取った。大きな手が珈涼の手を包み込む。
「私、お父さんたちに伝えてきました。月岡さんの側に行かせてほしいと」
月岡の目が驚きに見開かれる。
「あなたのことが好きですから」
泣き笑いの顔になった月岡は、今までの完璧な大人の姿ではなかったけど、珈涼は胸が詰まるくらいに愛おしかった。
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