第3話 愛人

 一週間の間、珈涼はアルバイト先を探すために隠れて飲食店を回った。


 しかしどうにも採用してもらえない。面接の時はすぐにでも雇ってもらえそうな雰囲気だったのに、次に訪れると必ず断られてしまう。


 断る場には必ず父の家の者がいて、珈涼を家に連れ帰る。


「お嬢さん、お小遣いが足りていないんですか」


 決まって彼らはそう問いかけてくる。そういうわけではないと珈涼が弁解すると、それならアルバイトはやめてくださいと続く。


「親父さんのメンツがあるんです。わかってください」


 珈涼は反発しそうな気持ちを抑える。父と自分とは何の関係もないと言ってしまえば楽になるだろうが、現在父に世話になっているのは事実だ。


 珈涼は認知もされていない子どもだ。父も引き取りたくはなかっただろう。それでも珈涼が未成年で、母も行方知らずでは放っておくわけにもいかなかった。

 

 それこそメンツのためだけに引き取っただけかもしれなくても、珈涼はそれに異議を唱えられる立場ではなかった。


 部下から報告を受けたからか、珈涼に小遣いとして振り込まれるお金は増えた。残高が貯まって行く預金通帳を見てため息をつく。


 いっそのこと、この資金を元手に遠くへ行こうか。未成年では家も借りられないが、黙っていればわからないかもしれない。珈涼が本気でそう考え始めた頃、月岡が言っていた一週間という時間が経った。


 家の中が騒がしい。忙しなく人が行き来して、言い争いがあちこちで起きている。


 それは気づいていたが、珈涼は自室から一歩も出なかった。近い内に出て行く家のことだ。珈涼は、自分に関係ないと思うことからは完全に目を逸らすことができる性格だった。


――情がないな、お前は。


 以前父が母に言ったことを思い出す。


 きっと自分にも情がない。行方をくらました母を探しにも行かないところなど、まさにそうだ。


 でもたぶん、母は珈涼が探しに来ることなど望んでいない。母と珈涼はよく似ていて、母の考えることは何となくわかる。


 珈涼を一人にしたのは、母が望んだこと。だから珈涼は一人であることを受け入れているのだった。


 ノックの音が聞こえて、珈涼は自室の扉を開く。そこにいたのはいつもお風呂が空いた時に呼んでくれる、住み込みの若い青年だった。


「親父さんが居間にお呼びです。大事なお話があるそうです」


 彼の表情は引きつっている。珈涼はこれが悪い知らせであることを察した。


「……月岡が」


 青年は奥歯を噛みしめてうめくように言う。


「若頭補佐の月岡が、組を乗っ取ったんです。自分を後継者の若頭に就けなければ、親父が任せておいた株や不動産を売りに出すって脅して」


 途中からは今にも爆発しそうな口調だった。


 珈涼にはその話と自分との関係を見いだせなかった。つまりは月岡のクーデターで、父の組にも仕事にも触れていない自分とは遠い世界のことだ。


「それで……」


 青年は言葉に詰まる。


「親父が約束を守る証に、お嬢さんを手元に頂きたいって」


 珈涼は一瞬、不謹慎にも喜んだ。

 憧れていた月岡の側に行くことができる。月岡は自分を外に出してくれるだけでなく、側に引き寄せてくれるという。


 でも次の瞬間には、珈涼の冷静な部分が結論を出した。

 これは、そういう夢見がちなことではない。


 珈涼は部屋を出て渡り廊下を歩く。何人かすれ違ったが、いずれも暗い表情で珈涼を見ていた。

一歩進むごとに、体が沈むような思いがする。まるで生贄に差し出されるような気分だった。実際その通りなのだろうとも考えながら居間の扉を開く。

 

 そこには父と真也、姐である父の本妻に組の幹部数人、そして月岡がいた。


 最初に動いたのは月岡だった。席を立って珈涼に近づこうとする。


「近寄るな!」


 真也が制する。それに構わず、月岡は数歩で珈涼の元までたどり着いた。


 月岡は珈涼の手を両手で包み込む。そして例の、獲物を狙う目で珈涼をみつめる。


「妹はまだ十八だぞ。そんな子どもを愛人にするのかよ!」


 真也の声に振り向きもせず、月岡は珈涼をみつめ続ける。

 愛人という言葉を、珈涼は心の中でつぶやいた。


「大切にいたします。私のところにいらしてください」


 月岡がそっと告げる。こんな状況でなければ、愛を囁くようにも聞こえた。


 珈涼はすとんと理解した。月岡は美人だった母譲りの顔に興味を持ってくれたのだ。所詮それだけのことで、愛人でもなければ月岡が自分を選ぶはずがない。


 ……でも胸の奥が焼け焦げるように痛いのは、どうしてなのだろう。


 視界の隅では、今にも殴りかかりそうな真也を彼の母親が必死に制止している。父は押し黙って動かない。


 抵抗してみようなどとは思わなかった。珈涼が月岡のところに行くのは決定事項で、珈涼の意思程度ではどうにも動かない。


 まだ月岡は珈涼の手を握っていた。珈涼は指先が冷たくなっていくのを感じた。


「……わかりました」

 

 そう答えるしかなかった。

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