第2話 望み
父は珈涼にとって限りなく他人に近い認識だったが、兄の
「お前、今日倒れたんだって?」
夜に珈涼の部屋にやって来るなり、真也は憮然とした顔で問いかけた。
二つ年上の真也は父の後をつけて何度か母の店に来ていて、珈涼とは幼い頃からよく知る仲だった。
「倒れたわけじゃないの。喘息の発作が出て、ちょっと熱が出ただけ」
「なんだ。人騒がせなことするなよ」
テーブルの前に腰を下ろして、真也は茶菓子の包みを投げるようによこす。
「これ、今日の茶会の。余ったからやるよ」
「ありがとう。綺麗なお菓子ね」
「余りものだって言ってるだろ。さっさと茶淹れろよ。気が利かないんだから」
むくれながら真也は早口に言う。
珈涼はこの兄が好きだった。いつもつっけんどんな態度だが、真也は昔から何かと珈涼を構ってくれる。新品の玩具を、飽きたからお前にやるなどと言ってよく押し付けてきたものだ。
この部屋にも真也がくれた水槽と熱帯魚がいる。尾ひれをひらひらさせながら泳ぐ熱帯魚をみつめている時は、珈涼にとって心安らぐ時間だった。
「真也さん、お茶会はどうだった?」
愛人の子どもに兄さんと呼ばれたくはないだろうと、珈涼は彼のことを真也さんと呼んでいる。
真也は一瞬だけ表情を消したが、すぐに言葉を返した。
「つまらねぇ。主役は月岡だ。俺の若頭襲名祝いって言いながら、連中は補佐の月岡しか見ちゃいない」
そっぽを向きながら、真也は珈涼が淹れたお茶を飲む。
「いいけどよ、別に。俺は金の仕事なんてやりたくねぇし」
真也は母親に似て、きつすぎるくらいの華やかな顔立ちをしている。けれど乱暴な言葉使いをしていても、大好きな生き物である魚をみつめる眼差しには生来の優しさが覗く。
しばらく茶をすすりながら水槽の中の熱帯魚を眺めていた真也だったが、やがて切り出す。
「月岡、またお前のところに来たんだって?」
本当はそれが一番訊きたかったのだろう。長年の付き合いで、真也が大事なことを告げる時は目を逸らすことを知っていた。
珈涼はその仕草に気づかなかったふりをして、なるべく自然に返した。
「咳を聞きつけてお医者さんを呼んでくださったの」
「何の用があってこの部屋の前なんか通りかかったんだ」
真也はじろりと珈涼を見る。
「気をつけろよ。月岡はお前を使って何かしようって魂胆かもしれない。あいつは野心家だからな」
「私を使う?」
それはまるで珈涼には思いつかなかったことで、珈涼はきょとんとする。
「まさか。私はこの家の子どもでもないのに」
珈涼の言葉に、真也は苛立ったようだった。睨むように珈涼をみつめて、ぷいと目を逸らす。
「ふん。じゃ、自分の愛人にでもしようとしてるのかな。あいつの女遊びは酷いもんな」
「そうなの」
禁欲的な雰囲気の月岡だが、地位もお金もある人だからそれも仕方ないのだろう。珈涼は落胆するというより、諦めの心境で相槌を打った。
真也はうっとうしそうに首を横に振った。
「お前と話してるとほんと、イライラするよ」
それはこの家で一番親しい人から言われるには悲しいはずの言葉だったのに、珈涼は何も感じなかった。
「うん」
仕方ないと珈涼はうなずく。
「だから……っ!」
勢いよく真也が立ち上がった拍子に、珈涼の手と引っかかる。
「……危ない!」
珈涼の手にあった急須が傾く。熱いお茶が珈涼にかかりそうになって、真也は珈涼を突き飛ばした。
バランスを崩して二人とも倒れる。珈涼は仰向けに倒れて、真也は彼女の顔の横に手をついた。
「あ、ありがとう」
幸い、急須はテーブルの上を転がっただけで済んだ。珈涼はお礼を言って起き上がろうとしたが、真也は珈涼の上で動かない。
真也は溢れそうな感情をこらえるように、唇を噛んでいた。食い入るように珈涼をみつめて、ぽつりとつぶやく。
「お前さ、いつまで俺たちのことを他人だと思ってるわけ?」
それは問いかけではなく、独り言のように聞こえた。
「……それって、大嫌いより下だって言ってるのと同じだろ」
小声でうめいて、真也は顔を背けた。
「坊ちゃん。お風呂が入ったそうですが」
静かな声が聞こえて、真也は跳ね起きる。珈涼も声の方を見ると、扉の内側に月岡が入って来ていた。
「お前が呼びに来なくたっていいだろ」
月岡は元々、真也の世話係だったと聞く。だが若頭補佐となってからは真也個人の世話からは手を引いていた。
「俺はもう坊ちゃんじゃない。お前、自分の立場がわかって……」
だが振り向いた真也は、月岡の目の鋭さに怯む。
月岡は張りつめた空気をまとっていた。彼はもう、言葉をなくした真也ではなく珈涼を見ていた。
「よくわかりました。今の立場がどういうものか」
珈涼は月岡の眼差しに怯える。彼の怒りは自分に向いているらしいと気付く。
珈涼は思う。きっと月岡は、大切に守っていた真也が珈涼のことを気に掛けるのを快く思わないのだろう。珈涼は真也の来訪が嬉しかったが、若頭になったばかりで忙しい真也が自分などにかかずらっていていいはずがない。
どうすればいいだろう。沈黙する月岡に早く返答しなければと焦りながら、珈涼は言葉を紡ぎだした。
「私、早くここを出て行きますから」
「何言ってんだ」
真也が怒ったように言葉を挟む。
「お前の体で一人暮らしなんてできるわけないだろ。親父だって許しやしないさ」
「でも」
「それが珈涼さんのお望みなのですね?」
月岡が真也を黙らせるように言った。珈涼は反射的にうなずく。
月岡は目を細めて珈涼をみつめた。それから短く告げる。
「では一週間お待ちください」
珈涼はそれを聞いて、やはり彼にとって自分は邪魔者なのだと悲しくなった。
だけどここが本来の自分の居場所でないこともわかっている。
憂いを浮かべる珈涼の横顔を、月岡は食い入るようにみつめていた。
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