第4話(裏).奥様は女王蜂(ヴェスパーナ) その二
辺りが未だ薄暗い早朝。夜明け近くまで続いた夫婦の営みに疲れて眠っている我が背の君を起こさぬように、ひそやかに布団から出ると、妾(わらわ)は風呂場で水を浴び、情事の名残りを洗い流した。
我が君との愛の行為(ポッ♪)の痕跡を消してしまうのは少々惜しいが、どの道、妾の首筋や乳房、あるいは他人には言い難いような部位には、我が君がきつく接吻した跡がついておるのだ。なに、それだけでも十分、絆は感じられるものよ。
15分ほどで身体を拭き、手早く身仕度を整えると、早速朝餉の用意に取り掛かる。
今日の仕事は、雪山での大猿狩りじゃと、我が君は言うておったからのぅ。防寒用飲料があるとはいえ、精力をつけておくに越したことはない。
妾はボアズ肉を主菜とする献立を頭の中で組み立てた。
──ジゥ……ジュウ……
ほどよくあぶったボアズ肉を細かく裂き、ワイルドハーブの細切りとレッドチーズを合わせて和え物にする。銀雪草の葉のみじん切りを散らしたご飯と、ウォール麦の味噌で作ったスープは、やはり朝餉の基本じゃな。どれ、一夜干しのスモークサーモンもちょいと炙っておくかの。
おおよその準備ができた段階で、我が背の君を寝床から引きずり出す。
む? 「新婚さんにしては穏やかじゃない」とな?
無論、妾とて我が君に“御目覚めの
しかし、我が君の唯一……ではないが数少ない欠点のひとつが、朝の寝起きが悪いことなのじゃ。甘い声で「我が君、起きてたもれ」などと囁いても、起きるどころか寝返りひとつうたなんだわ。(←新婚2日目で体験済み)
まして、今日は必ず昼までに出発せねばならぬお仕事とのこと。少々手荒な起こし方になるのも致し方あるまい。
……決して、せっかく作った朝餉を温かいうちに食べて欲しかったからではないぞえ?
「うぅーーーー、おはやう、らん……」
「御目覚めですか、我が君。朝餉の用意が整っております故、早う起きて顔を洗いなされ」
「うぃーっス」
モゾモゾと我が君が起き出す様を見守っているだけで、何やらほんのり心が癒されるような気がするのじゃから、まこと恋慕の情とは不思議なものよ。
* * *
朝食を平らげて我が君が仕事に出かけたのち、妾は手早く新居の掃除と手入れを始めたが、さして広い家でもないため、すぐに済む。
「むぅ……暇じゃ」
普段なら、この頃合いに隣家のシャルル殿なりお向いのララミー殿なりが料理や手芸の類いを伝授してくださるのじゃが、ここ数日お二方のご亭主が仕事がお休みとのことで、夫婦揃って小旅行に行ってしまわれた。
主婦としての先輩であり、また人外より人にその身を変えた女性の先達でもあるお二方は、元が巨獣怪獣の身でありながら、歯牙にもかからぬ元羽虫たる妾にもよくしてくださる。その点については感謝してもしきれぬ。
されど──先の理由とは別の懸念から、妾は時折無性に彼女達が羨ましゅうてならなくなることがあるのじゃ。
ふと、昨夜のしとねでの我が君との会話を思い出す。
(──「巡り合わせとは不思議なものじゃ」……か。どの口がそれを言うのかのぅ)
決して嘘をついたつもりなどないが、あのとき、妾は一切を包み隠さず我が背の君、マクドゥガル・ホレイショ・フィーン殿に語ったわけではない。
我が君は、妾が人間の女性に変わったのは偶然だと思われているやもしれぬが、それは違う。あれは妾が意図してあの緑の玉へと突っ込んだのじゃから。
* * *
こんな逸話をご存知であろうか?
赤子の頃より、親から引き離され、人の手で育てられた犬猫(コボルやケトシーではなく正真正銘の愛玩動物の方じゃ)の類いは、時として己れのことを“人”なのだと誤解するようになるらしい。
大鬼蜂の身でありながら蜜蜂のごとく人の手にて育てられた妾も、あるいはそれと近いのかもしれぬ。
ただ、その、言わば幸福なうつけ者どもと異なるのは、妾が、己れがただの羽虫であり、決して人ではないことを、残酷なほどに自覚しておったことであろう。
妾は──“人”になりたかった。
自覚はなかったが、農場で働くケトシーのトモエにいろいろ話をねだったのも、育て親が家にいるときは極力そのあとをついて回ったのも、せめて人の暮らしあるいは常識なるものを少しでも知りたいと願ったからじゃろう。
養父は、早くに妻を亡くし、ふたりいる子も10年以上前に成人して独立したため一人暮らしであった。そのことを後悔している素振りはなかったが、時折寂しげな目をしていることは妾も気づいていた。
──妾が人であれば。
──血の繋がりはなくとも、養い子として幾許かの支えにはなれたものを!
トモエが丁度里帰りしている際に、折悪しく病に倒れて床に伏せる養父を見て、幾度そう思ったかもしれぬ。
不器用でいかつい蜂にすぎぬ妾にできたのは、熱にうなされた養父の額に濡らした布を当てることくらい。
妾を人に、せめて人の手助けをできるケトシーなりマンクスなりの獣人にしたまえ、と何度未だ見ぬ神に祈ったことか。
……勿論、その願いは叶わなんだ。
やがて養父が帰らぬ人となり、農場が町に住む息子らの手で売りに出されることとなったときも、妾がせめて人であれば──養女であらずとも人間の使用人か何かであれば、思い出深き“我が家”をむざむざ人手に渡さずに済んだものを!
一晩哭いた妾は、一緒に自分の故郷に来ないかというトモエの誘いを丁重に断り、野生へと帰るべく生まれて6年もの時を過ごした場所を飛び出した。
我が友の誘いは、泣けぬ妾にとってすら涙が出るかと思うほど嬉しかった。
じゃが、人のあいだで規格外に巨きな蜂──メガヴェスパーを連れたケトシーが旅をしていては、いろいろ迷惑になるであろうことは疑いなきことであったが故に、その手をとることはできなかった。
そしてそれから──20年近い時が過ぎた。
人に近い知性を手に入れた妾にとって、ただの羽虫としての暮らしは退屈極まりないものじゃったが、それ以外に生きる術もない。
妾はひたすらに孤独であった。
戯れに雄虫と交わり、卵を産んだりもしてみたものの、人に近いメンタリティーを持つ妾にとっては、それはまさに人で言う“獣姦”にも等しい行為じゃった。また、孵った仔の中にも我に近い知性を持つものはおらなんだ。
それを知った時、妾はすべてを呪うた。
妾の孤独をとんと解せぬ周囲の虫けら共を。
妾を慈しみ、僅かなりとも愛情というものを与えたかの
妾に乞われるまま、人並の知識と言葉を教えた東方の
そして……ただの大鬼蜂の数倍の寿命を持つ女王種のこの身を。
それでもなお、自ら死を選べぬ我が身に宿りし浅ましき生存本能を。
ただ流されるままに灰色の世界を生きていた妾が、仲間うちでマックと呼ばれておる狩猟士を見かけたのは、そんな時じゃった。
とりたてて腕がたつわけではない。
片手剣の扱い自体は及第点であったが、アイテムの使い方はむしろ下手な部類に入るじゃろう。攻撃力が不足しがちで、それらをアイテムで補うことが王道の片手剣使いにとっては、それはある意味致命的な弱点じゃ。
ただ……どこか気になった。
それが彼の者の狩猟中の行動だと気づいたのは、ここ1年ほどのことじゃ。
彼の者は、標的以外を極力殺さぬ。
彼の者は、殺した相手からは必ず剥ぎ取りを行う。
標的以外を狩らぬのは、ただのものぐさなのやもしれぬ。
それでも、折りにふれ妾の目が彼の者の動向を気にするようになったのも事実じゃった。
そして運命のあの日、彼の者が緑火竜に博打玉を投げつけようと虚しい努力を続けている場面に出くわしたのじゃ。
好機、と妾は思うた。
博打玉の煙を吸って人になった竜の御伽話は、妾もトモエより聞いたことがあった。
どの道、今のような暮らしにさして未練はない。失敗して火竜の炎に焼かれ散るのも一興であろう。
そして……それから後のことは、知ってのとおりじゃ。
あえて言及するなら、妾の彼の者に抱く感情が、“恋慕”であったことに気づいたのは、人となり、彼──我が背の君となったお方に初めて抱き締められた時じゃった、と言うことくらいかの。
何? お惚気はいい? 「はいはい、ご馳走様」?
ホホホ……暇潰しに何か語れと申したのはそなたであろう?
おお、もう間もなく我が君が仕事より戻られる頃合いじゃ。
さて、夕餉の用意に取り掛からねばならぬ故、話はここまでじゃ。
我が愛しの背の君には、しっかり精をつけていただかねばならぬからのぅ。
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