愁いを知らぬ鳥のうた〈Part2〉
野森ちえこ
チキンカレー
「悩んだり悲しんだり心配したりするのって、人間だけだと思うの」
「はぁ」
街路樹がうっすらと色づきはじめている、大学から駅へと向かう道で、彼女はとうとつに語りはじめた。
「鳥とかさ、気持ちよさそうに空飛んで。悩みなんてないんだろうなぁー、いいなぁー、うらやましいなぁーって思ってたんだよね」
「なるほど」
「でも、それはちがうって気づいた」
「ほぉ」
「一生懸命なんだよ」
「なにが」
「鳥にきまってるでしょ」
「……そうか」
中学で出会ってかれこれ八年。先月、彼女が二十歳になったのを機に同棲をはじめたのだが。彼女の思考におれがついていけたことは一度もない。
「天敵に狙われたり、変な気流に巻きこまれたり、飛行機に激突したり、毎日命がけなの」
「そうだな」
「そもそも鳥は『用がなければ飛ばない』んだよ!」
「えっ。そうなの?」
「そうなの! たべるためで、逃げるためで、あとは季節ごとの引っ越しのため。生きるために必要だから飛んでるだけで。好きで飛んでるんじゃないんだよ!」
「そ、そうなんだ」
自分でいっているうちに興奮してきたらしい彼女にちょっと引く。心配いらない。いつものことだ。
「それを、人間が勝手に自由だとかうらやましいとかいってるだけなの!」
それはおまえだろ。というツッコミは心にとどめた。へたにさえぎると、あとあと面倒なことになる。
「つまりね、人間が悩んだり悲しんだりするのは暇だからなのよ!」
「へぇ」
なにが『つまり』なのか、さっぱりわからないが。
「生きるために生きてる鳥たちは、生きることに必死で思い悩んでる暇なんてないの」
「なるほど」
「……人間でも、おとなになったら、忙しくて悩んでる暇がない人もいるけど」
「まぁ、そうだな」
ちょっとトーンダウン。我に返ったのか。
「早朝から深夜まで会社の歯車になって、くたくたになって寝るだけの生活に、悩みがはいりこむ余地なんてないものね」
……そうでもなかった。ていうか。
「そりゃどこのブラック企業だ」
「ん? ということは、鳥も安全だと悩んだりするのかな。ペットとか」
思いっきりスルーされた。
「野生の鳥がさえずるのはおもに繁殖のためらしいけど、かごの鳥がピーピー鳴くのは悲しいからなのかな」
「いやいやいやいや……」
なんで涙ぐんでんだよ! 情緒不安定か!
「秋ってそういうこと考えたくならない?」
「はい?」
「ほら『
……うん。ついていけない。大丈夫。いつものことだ。泣かれるよりずっといい。
「……んー。やきとり……から揚げ……親子丼。どれも捨てがたい」
「……なんの話?」
「え? 夕飯の話にきまってるでしょ?」
きまってない! 断じてきまってない! が、長いつきあいでわかってしまう。
つまり彼女は今日、とり肉料理がたべたいのだ。とり肉、鶏、鳥……と考えているうちに、悩み云々という方向にいってしまったと。そういうことだ。もっとも、なにがどうなってそこにたどり着いたのかは、まったくの謎であるが。
「チキンカレー、チキンソテー、とり鍋……」
「お、鍋いいな。急に寒くなったし」
話があっちこっち飛びまくる彼女のことを、三歩あるけば忘れる鳥頭だと陰口を叩く人間もいるけれど。
「鍋に一票はいりましたー」
彼女の中では、ちゃんとひとつひとつ整理がついているのだ。そのスピードに、まわりがついていけないだけで。
「じゃあ、あいだをとってチキンカレーにしよう」
「えっ。鍋となにのあいだ?」
「ないしょー」
「なんで!」
調子っぱずれな鼻歌を楽しげにうたう彼女の手をとると、うれしそうにこちらを見あげてきた。
……ちくしょう。かわいいな。問いつめてやろうと思ったのに。
「当たったらご褒美あげる」
しかもご褒美ときた。いつのまにそんなワザおぼえたんだ。
「チッチッチッ……はい、時間切れー」
「はえーな!」
「十数えたよ」
「せめて声に出せ!」
うれしそうに、しあわせそうに笑って。彼女はまた調子っぱずれの鼻歌をうたいながら、つないだ手をぶんぶんとおおきく振りまわす。通りすぎる人たちの目がなまぬるい。
「楽しいね」
……ちくしょう。やっぱりかわいい。
(おしまい)
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