◆3-2

 玄関ホールである屋敷で一番広い部屋へと階段を下りていくと、男爵が自分の上着をヤズローに預けている姿が見えて、リュクレールは声をあげた。多少はしたないと解っていても、我慢できなかったのだ。

「男爵様、お帰りなさいませ!」

「おお、これはこれはリュリュー殿! 出迎えに来て頂けるとは、このビザール・シアン・ドゥ・シャッス、光栄の至り!」

 長い口上の間にリュクレールは一階に辿り着いており、そこでスカートの裾を抓み丁寧に礼をした。

「いいえ、妻として当然の事です。男爵様も、お勤めお疲れ様でした」

「ンッハッハ、そのお言葉だけで吾輩の気力体力は充填されましたとも! そんな麗しきリュリュー殿に、ささやかながらお土産を。ヤズロー」

「はい、旦那様」

 名を呼ばれ、コートをドリスに預けたヤズローが、跪いて持たされていた小さな箱をリュクレールに差し出す。戸惑いつつも、素直に受け取ったリュクレールが蓋を開けると、そこには金色の光が混じった、美しい青い宝石の装飾具が入っていた。

「男爵様、これは……!」

「魔操師に作らせた護符です。並の病や急な怪我は、これの齎す幸運で弾かれるでしょう。そして貴女のお体の寄る辺となるだけの力も持っております故、どうぞお持ちください。おや、色などが気に入りませんかな?」

 喜びよりも戸惑いを先に見せてしまったリュクレールに、男爵が不思議そうに首を傾げる。首が無いので体ごと傾いでしまっているが。

「い、いいえ! とても素敵です、ありがとうございます。ですが……わたくし、まだ何も奥方として出来ておりませんのに、心苦しく思ってしまいます」

 たった先刻、決意をした筈なのに、更に大切なものを貰ってしまった。多少の頑張りでは、とても報いることなど出来そうにない。じわりと胸の内に浮かんでしまう焦りを、男爵は気付いているのかいないのか、丸い頬をにんまりと弛ませ、まるで舞台役者のように両手を広げてその場でくるりと回った。

「リュリュー殿、全てはこれからですよ。それに貴族の世界では、見栄とはったりは立派な武器です。中身は勿論大切ですが、それに見合った外見を手に入れなければ軽んじられるもまた道理。そのレッスンのひとつだとお考えください」

「……はい」

 言葉の内容は事実なのだろう。だが、彼がどうか自分が気にやまないようにと心を砕いてくれたのも、リュクレールはちゃんと解っている。不安や焦りが、それ以上の喜びに流されていく浅ましさを感じつつも、柔らかく笑顔を浮かべて頷いた。

「解りました、男爵様。わたくし、この美しい石に相応しい淑女になる為、精進致します」

「なんと頼もしい! ではドリス、夕飯の支度を頼むよ。もちろん、リュリュー殿には控えめに、だ」

「仰せの通りに」

 上機嫌な良人にエスコートされ、従者達と共にリュクレールは決意を込めて食堂へのドアを潜った。まずは、ちゃんと食事を取ることから始めなければならないからだ。



 ×××



 自室のベッドに横になり、リュクレールは腹痛を堪えて息を吐く。

 今日の夕飯のメニューは、野菜のポタージュと林檎のジュース。どちらも、ドリスが気を使い薄めてくれたものだが、それでも皿を空にするのに無理をする必要があった。

 その結果が、いまこの有様である。鈍く重たい痛みが続く腹に手を当てて、蹲る。

 じわりと、二色の瞳に涙が浮かぶ。痛みからでは無く、情けなさからだ。

 ――こんなことでは、とても男爵様に報うことなど出来ない。

 部屋の中は静かだ。今まで自分を慰めようと、傍にいてくれた霊達は誰もいない。この沈黙と孤独にも、慣れなければいけない。貴族の淑女として、妻として、いつまでも誰かに甘えているわけにはいかないのだから。

 じゃらり、と鎖の音がした気がして、シーツの隙間で身を竦める。

 違う。違う。あの男はもう居ない。夜を侵されることはもう無い。解っているのに。

 耐え切れず、縋るように掴むのは、チェストの上に置いていた銀の小剣だった。ぎゅうと抱きしめて、体を縮める。

 痛みと恐怖を堪えて縮こまるリュクレールの耳に、こつこつ、というノックの音が響いた。一瞬びくりと震え、すぐに我に返る。

「……はい!」

『失礼、吾輩です、ビザールです。お加減は如何ですかな?』

 恍けた夫の声に、緊張や恐怖が一気に掻き消えて、リュクレールは安堵の息を吐く。もう大丈夫だ、と信じることが出来た。手に持っていた剣を慌てて枕の下に仕舞い、腹痛を堪えて起き上がる。

「問題ありません、お気づかいありがとうございます」

『そうですか、それは重畳。時に吾輩、是非に愛しい貴女と夜中に語り合いたいのですが、この扉を開けて頂いてもよろしいでしょうか? 無論、お嫌ならばこうして扉を挟んで語らせて頂きますが』

「いいえ、そんな! 嬉しいです、今参ります」

 腹痛を堪えて立ち上がり、ドアを開けると、そこにはヤズローを控えさせたビザールが、夕食の時と同じ姿で立っていた。まるまるとした体を揺すり、ほんのちょっとだけ眉を顰めている。

「少々顔色がお悪い。やはり食事が多すぎましたかな」

「いいえ、大丈夫です! わたくしが慣れていないだけですので――」

「リュリュー殿」

 慌てて募ろうとした言葉は、優しい声で遮られた。ビザールは困ったように笑いながら、失礼、と言って部屋に入る。ヤズローは戸口に控えたままだ。

「ご安心ください、吾輩が万が一不埒な事をしようとした際には、ヤズローが吾輩を蹴り出してくれますので」

「不埒……ですか? あの、わたくしと男爵様は、夫婦ですので、何の不埒な事もないと思います」

 首を傾げて、リュクレールは囁くように告げた。夫婦が夜に何を如何するべきか、正直詳しいことを彼女は知らない。自分には縁の無いことだと思っていたし、ヴィオラ達も詳しくは教えてくれなかった。ただ、夫婦は同じ寝台で夜を明かすことは間違いなく知っていたので、当然と思ったのだが。

「おお、なんという誘惑でしょう。吾輩、最早誓いを忘れてしまいそうです。ヤズロー、いざという時には頼むぞ」

「未練がましいですね、今すぐ引き摺り出しましょうか?」

「あの……」

 苦悩する主と冷ややかな従者に挟まれておろおろしていると、どうにか立ち直ったらしいビザールに、そっとベッドへ促された。相手は部屋に備え付けの椅子によいせと腰かける。ぎしりと椅子が悲鳴をあげて、男爵の体が全く動かせなくなった。どうやら容積に対して少々椅子の融通が利かなかったらしく、よし、と言いたげに頷いたヤズローがドアの脇に控えた。

「リュリュー殿。貴女が吾輩の為と、頑張っていただける姿が非常に美しく、有難く存じます。しかしそのせいで貴女の心が追い詰められてしまっては、本末転倒に他なりません」

 爪先を床に付けられずゆらゆら揺らしながら、静かに男爵が伝えた言葉に、リュクレールは僅かに息を飲む。ああ、やはり全てはこの方にお見通しなのだ、と。

「……お気遣い、ありがとうございます。ですがそれでも、わたくしは――わたくしが、許せないのです」

 我儘のような言葉しか出せない自己嫌悪に俯くリュクレールの旋毛に、優しい声が降りてくる。

「ええ、ええ、全くもって。誇り高き貴女にとっては、今は何とももどかしいことでしょう。ですが、出来ない事を無理しても、結局は後戻りしか出来ません。吾輩自身、その体現者でありますので、それは保証致します」

「男爵様も、ですか?」

「無論です。吾輩こう見えましても、子供の頃は随分とひ弱でしてな。以前お話した通り、家業を継ぐことなど無理だと、誰もに思われておりました。吾輩もそれが嫌で、如何にかしようと足掻いてはみたものの、無理に食べても吐いてしまうばかり」

「あ……」

 まだ少し痛みの残る自分の腹をそっと撫でる。男爵は気遣うような瞳を向けながら、両腕を大きく広げて宣言した。

「しかし今やこの通り! 好き嫌いなく何でも頂ける健康優良児にございます。焦りも、屈辱も重々承知ですが、どうぞ程ほどにお考えください」

「男爵様……」

「それでもお気に病んでしまうのならば、如何でしょう? 明日はヤズローと共に、庭仕事などやってみるのは?」

「庭仕事、ですか?」

「ええ、ドリスが育てている野菜や薬草の手入れなどです。リュリュー殿にも薬草の知識はおありでしょう?」

「はい! ヴィオラに教えて貰いました」

「充分ですとも! ――リュリュー殿、吾輩は貴女に自由を与えると同時に、沢山のものを奪ってしまいました。ですからせめて、その代わりになるものを貴女に捧げたいのです。吾輩自信も、ドリスもヤズローも、皆それを望んでおります。どうか一人で思い悩むことなく、笑って下さい。我が愛しの奥方様」

 言葉は相変わらずのおどけた調子だったけれど、手指を差し出してくるビザールの、片眼鏡の下の瞳はとても優しい。きゅ、と小さな唇が自然と綻んでしまい、リュクレールは熱を持った頬をそっと両手で押さえる。

「……男爵様は、本当にお優しいです。わたくしには、勿体なさすぎます」

「ンッハッハ! 大切な相手に優しくするのは自然の摂理ですとも! どうぞ、今日はゆっくりとお休みください」

「はい。……本当に、ありがとうございます、男爵様」

 その後、男爵がその体を椅子から剥がせず一悶着あったが、最終的にヤズローが力づくで引っ張ることで事なきを得た。主従を部屋の外へ見送り、ふうと息を吐いてリュクレールはベッドに戻る。

 横になると、ふと自分の腹痛がすっかり消えていることに気付き、安堵と共にゆるゆると閉じていく瞼に身を任せた。



 ×××



 リュクレールの部屋を出て暫く、自分の部屋の前で、がくりとビザールは両手を床に着いた。畳まれて容積の増した腹で体を支えつつ、絞り出すように呟く。

「……耐えた、耐えたぞヤズロー! 褒めてくれ! 吾輩は己が内の獣に打ち勝った……!」

「お疲れ様です。小さな椅子に感謝するべきでしょうね、何度か立ち上がりかけたでしょう」

「全くもって!! あの椅子を準備したドリスと、運び込んだヤズロー、君にも感謝を捧げよう!」

「謹んでお受け取りします、とっとと寝てください」

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