内緒話

◆3-1

 貴族の子女は一般的に、十歳前後、ともすればもっと前から、高貴なるものの振る舞いを勉強していくものだ。リュクレールは十五歳、もう社交界にデビューすべき年齢であり、今からでは少々遅すぎるとも言えるが。

「……全く問題ありません。奥様、お見事です」

 茶器を音無く置いて、ドリスの静かな言葉にリュクレールはほうと溜息を吐いた。茶会の作法についても、彼女のおめがねに叶ったらしい。

「礼儀作法、ダンスの心得、全て素晴らしゅうございました。良い教師が付かれていたのですね」

「ええ、皆わたくしの先生でしたわ」

 ぱっと顔を輝かせてから、子供っぽい喋り方だったと恥ずかしくなるが、ドリスは笑みを浮かべないながらも満足げな顔をしていた。カートに乗せていた菓子の乗った皿を、すいとリュクレールの前に置く。

「社交界の知識についてはこれからの勉学が必要ですが、今少し休憩致しましょう。どうぞ、お召し上がり下さいませ」

「ありがとう。でも……」

 食べるという行為にまだ自信の無いリュクレールは僅かに臆してしまうが、ドリスは静かに首を横に振る。

「食事量を増やすには、少なく、何度も取ることが大切です。無理をせず、少しずつ参りましょう。こちらの蜂蜜ケーキは淑女達が泣いて喜ぶ、一口で体重が煉瓦一つ分増えると評判の代物です。旦那様の大好物でございます」

「……解りました。頂きますわ」

 メイド長の表情はやはり動かなかったが、その言葉にくすりと微笑んでリュクレールはフォークを手に取った。

 ほんの少し、一口分を切り取って口に含むと、甘さが一気に口を席巻して驚く。菓子というもの自体を食べることが初めてのリュクレールにとって、慣れぬ味と感触だ。だが決して不快では無いので、飲み慣れた月光草の茶と共に少しずつ片付けていく。どうにか一切れ――これも普通の大きさの半分だったし、男爵ならば一口でいける代物だったが――ちゃんと食べ切ることが出来た。

「お疲れ様でした、奥様。お茶のお代りは如何いたしましょうか」

「ありがとう、頂きますわ」

 試練を乗り切ってほっと息を吐く少女の姿を見て、ドリスがほんの少しだけ目を眇めた。咎めるというものではなく、何か懐かしがっているような瞳の輝きに、リュクレールは小さく首を傾げ、躊躇いつつも口を開いた。

「ドリス、聞いても良いかしら?」

「何なりと」

「わたくしのように、食べることが苦手な方が、他にもいらっしゃったのかしら」

 女主人の真っ直ぐな言葉に、ドリスは僅かに瞠目した。聞かれたくないことだったのか、と慌ててリュクレールが撤回するより先に、メイド長は軽く顎を引いて頷いた。

「ええ。俄かには信じがたいでございましょうが――嘗ての旦那様が、そうでございました」

「えっ!」

 はしたなく大声を上げてしまい、慌てて口で手を塞ぐ。その驚愕は解ると言いたげに、ドリスは静かに頷きつつなおも続けた。

「まだ、幼い頃の話でございます。坊ちゃま――旦那様は、生まれつき非常にお体が弱くございました。暑くても寒くても食欲が湧かず、特に冬はいつも眠りの病を患って、ベッドの上で過ごす時間が一番長くございました。そのお体はおいたわしくも、柳の木の如く痩せ細っていらしたのです」

 今の男爵しか知らなければ信じがたい事実を、ドリスは訥々と語った。

「私は坊ちゃまの乳母として、どうにかお食事を食べて頂くため、様々な工夫を致しました。量、味付け、回数等、苦心惨憺しました末、あのようにお元気になられました。僭越ながら、誇らしゅうございます」

「そうだったの……」

 ここにヤズローか瑞香がいたら、成程あの腹の原因は貴女かと突っ込むところだったろうが、リュクレールにとっては希望であった。

 彼女の薫陶を受け、いずれ自分もあのような健啖家になることが出来れば、ちゃんと肉体も成長出来るかもしれない。

 今の自分は、中途半端だ。赤子の頃から、肉体は殆ど成長しておらず、体の殆どは霊質で出来ている。幽霊でも無い、生者でもない。こんな体では、男爵様の妻として役目を果たせない。

 頑張らなければとテーブルの下でぎゅっと手を握るリュクレールを、ドリスは静かに見詰め――つと、口を開いた。

「奥方様。失礼を承知の上で、お耳に入れて頂きたいことがございます」

「はい、何でしょうか」

 居住まいを正してきちんと頷くリュクレールに、ドリスは深々と感謝の礼をして、ゆっくりと口を開く。

「どうか――坊ちゃまを、旦那様を、支えてあげて下さいませ」

 その声は、相変わらず抑揚のない、ともすれば冷たく聞こえるような声音だったけれど、確りとリュクレールの胸に響いた。その言葉の中に含まれた願いが、ちゃんと届いたからだ。

「下女として出過ぎたことを申し上げておりますのは、紛れもない事実です。ですが、どうか。……あの方の虚ろな孤独を、ほんの少しでも、癒して下さいませ。旦那様がお選びになられた貴女ならば、きっとそれが出来ると、恥ずかしながら愚考いたします」

 何故ならリュクレールにも、こんな声に覚えがあるのだ。あの塔の中で、恐怖に泣きじゃくる幼い自分を、抱き上げて慰めてくれた、紫髪のメイドの声にとても似ていたから。

 リュクレールにとって、未だ自分は男爵の庇護に入ったままだ。虚ろな孤独というものが如何なるものであるのかも解らない。ただ、それでも。

「……わたくしに、出来るでしょうか。いいえ、出来なければなりませんね」

 尚も深々と頭を下げるドリスの真摯な言葉を受け止めて、リュクレールは僅かな怯えを振り払う。

「もう既に、男爵様には有り余る幸福を頂いております。あの方にはわたくしの、命だけでなく、誇りも、大切な者達も救って頂きました。微力ではありますが、全力で、あの方を守らせて頂きますわ」

「――有難うございます、リュクレール様」

 ドリスがすっと背筋を伸ばし、丁寧に腰を折った。従者が主に向ける最敬礼だった。

「我が主の奥方様として、末永くお仕えすることをお許しくださいませ」

「ええ、ドリス。わたくしにも、貴女の力を貸してください。男爵様の為に」

「勿体なきお言葉……。ええ、仰せの通りに」

 頭を上げたドリスの目の端に、ほんの少し輝きが見えたのは、見間違いでは無いだろう。

 一つ息を吸って気合を入れた時、玄関のドアが開く音がした。

「旦那様がお帰りになられたようです。奥様、お出迎えを」

「ええ、すぐに参りましょう」

 さっと立ち上がり笑顔を見せるリュクレールに、ドリスもごく僅か、口の端を緩めていた。

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