学生六法
@tatsumaki_10
第1話 日常
この国の始まりを君は知っているだろうか。地球が生まれたのは約四六億年前。人類が誕生し、広い地球には一九六ヵ国もの国があった。一つの地球に言葉も文化も異なる国が存在したのだ。一九六ヵ国もの国で構成された地球。人々はそのほとんどの国に足を運ぶことなく、自国で生涯を終える。行けたとしても、すべての国を回ることは不可能に近い。だが、よく考えてほしい。テレビやラジオ、インターネットを駆使して、地球は一九六ヵ国あるといわれているが、本当に地球にはその国々が存在するのだろうか。国が増えたり、減ったり。実際、その『国』という概念は必要なのだろうか。
君はこれから目の当たりにすることになる。この地球という惑星に存在する、国の変化と行く末を。
1.日常
雨脚が強くなる。車の音と同じくらいの雨音が、耳に流れ込んでくる。雨が耳の中に入り込んできているわけではないのに、その音で溺れているような感覚になる。
一月、気温が低ければ、雨はさらに体の熱を奪っていき、そこに風が吹けば、体感温度はさらに低くなる。
「よく降るな」
傘の枝を短く持ち、風で飛ばないように肩を丸める。今日の最低気温は三度、そこに雨風が加われば、傘はもう形でしかない。雨音が怖いほどに傘を伝って耳に入ってくる。雨に濡れないよう、長靴を履いては来たが、凄まじい雨にすでに服は濡れている。ズボンも濡れて長靴は意味を持たない。こんな日はどこにも寄らずに家に帰りたい。そう思いながら足早に歩いた。明かりの灯った家の前に到着し、自分の時計を確認する。その光を見るだけで、暖かさを感じるほどだった。
時刻は十八時五分前をさしていた。家の門を開けて、玄関前の階段を登る。一気に音のしなくなった傘を閉じ、水滴をできるだけ振り払った。
「まずいな、これ」
独り言が雨の音でかき消され、考えるよりも先に、そのボタンを押せと言っているかのように聞こえた。
足元を見て、色が変わり、重くなった服に触れてみる。井藤はため息をつきながらそのボタンを押した。
井藤は現在大学三年。国立の大学に通い、専攻は経済学。授業の空いた時間を利用し、現在家庭教師をしている。色々なアルバイトがある中、井藤がアルバイトに家庭教師を選んだのには理由があった。
前提として、井藤は勉強が苦ではないということ、むしろ勉強というか、学ぶことが好きな男だった。大学の授業はもちろん優先であるが、受験生の家庭教師をすることで、高校時代の勉強の復習ができ、さらに理解を深めることができることが一つの目的。そして、もう一つの理由は、金銭的にも国立大学というだけで、かなり稼ぐことができるというところだった。
井藤は高校を卒業してから、実家が都内にあるにも関わらず、一人暮らしを始めた。理由は簡単で、勉学に励むためには、家族の存在が時には負担になると気づいていたからだ。
井藤は大学入学と同時に一人暮らしを始め、両親に金銭面での援助は受けない代わりに一人暮らしを提案した。国家公務員の両親をもつ井藤の提案は、いつも決裁で行われる。
まずはなぜ一人暮らしをしたいのか、理由、それをすることのメリットデメリットなど、事細かに計画し、起案する。それを両親が決裁ルートに沿って決裁をしていくという流れだ。決裁ルートといっても、決裁ルートにいるのは両親だけだ。そして井藤の案件は決裁済みとされ、一人暮らしを始めることになった。
一人暮らしを成り立たせるためには、金銭はやはり必要だ。だが、アルバイトだろうと、勉強を優先と考えていた井藤は家庭教師というアルバイトしか選択肢になかった。家庭教師というアルバイトは大学一年から始めている。
ボタンを押すと、その扉はすぐに開いた。
「こんばんは」
雨脚はまだ強い。耳に残る雨の音をシャットアウトするように、扉を閉めた。
「先生すごい濡れてたね、雨すごかったもんね」
そう言いながら暖かい紅茶を差し出される。礼を言いながら熱いはずの紅茶を受け取るが、思った以上に手先が冷えていて、その熱さで手が痺れる。タオルを肩にかけて一息。
さすがにかなりの濡れで家に上がるのは失礼なので、着替えは準備していた。ずぶ濡れになっている服を袋に入れていたら、干しておくからと、若干奪われるように濡れた服を受け渡してしまった。本当は他人に自分の服を触られるのは好まないが、今回ばかりはありがたく受けることにした。本当は嫌だが。そんなことを考えながら、少し休憩をした後、いつも通り授業を始める。
大学受験を控えた高校三年生のやる気は、井藤が見ても凄まじいものだった。目標に向かうということは、こういうことだと、自らの向上心も上がった。井藤の求めるものは勉強をすることで、今まですべて手に入った。だからこそ、井藤は勉強をすれば、大抵のことは手に入るということを、教えている学生たちにも味わってほしいと思っていた。
二時間の授業を終えて帰るとき、綺麗に洗濯し乾燥機にかけられた服を渡された。きれいなブランドの袋に入れられ渡された服は、袋の上からでもわかるほど柔らかかった。きれいに乾かされた服を大事に鞄にしまい、長靴に足を落とす。雨音が迫ってくる。そんな感覚を感じながらドアを開いた。
大きな雨粒が地面を打ち付ける音。傘を広げればまた違う音を奏でる。雨は嫌いではない。
「失礼します」
笑顔を作って扉を閉めて、雨で濡れている地面を眺めながら速足で家へと向かった。
二〇時、すっかり暗くなった空を見上げようにも、雨が降っていればそれもかなわない。車のライトに反射してゆれ動く地面を眺めながら、さらに速度を上げ家へと向かった。
傘についた雨を音を立てて降り落としたが、家の中に入れるにはあまりにも濡れすぎていたため、外に立てかけた。鍵を開けて戸が閉まったことを確認。
「ただいま」
濡れた服を玄関で脱ぎ捨て、そのまま風呂場へ向かった。体は冷え切っていて、湯船に湯をためる時間さえ待つことができないほどだった。体が冷え切って、湯が当たると痺れるように熱く感じるのが心地よかった。
風呂場で濡れた服を一度軽く洗って汚れを落とす。そのあと絞って洗濯機へ。別に誰に教えられたわけではないが、単純に考えて、雨に濡れて砂がついているかもわからない服と一緒に、普通の服を洗うのが嫌なのだ。だが、一度洗ってしまえばそれも気にならなくなる。
体がシャワーの温度に慣れてくる。シャワーを浴びながらふと思った。今日は新聞を読んでいない。井藤の習慣は、毎日新聞を読み、日本の動向を確認することだった。高校の時は家が新聞を取っていたことと、父が毎朝読んでいたこともあり、知らぬ間に習慣づいていたが、一人暮らしを始めてから毎日届く新聞に目は通しても、その内容をすべて読む時間は無くなった。
だが、毎日鞄の中には忍ばせていて、空き時間があるときには読むようにしていた。その習慣を、今日は忘れていたのだ。なぜ忘れていたのかと疑問に思いながら髪を洗い、しばらく頭からシャワーを浴びた。自分が想像している以上に疲れているのかもしれないと、考え事をしながら風呂を出た。家にあるウォータークーラーの蛇口にコップを当てる。きれいな音をたてながら注がれ、一気に喉へと流し込む。先ほどの体の温度でこの水を飲めと言われても絶対に飲みたくないだろうなという温度が喉を通過していく。
カーテンを少し開けて、外を眺めれば、まだ降り続く雨と、その雨を照らしながら走る車の光が揺らめいてきれいで、少し見とれていた。外にいるとわからない。外にいれば空を見上げることは叶わない。空になったコップを片手に見上げた空には、一つも星空は見えなかった。
空には雲が一面を覆い、星空の時よりも、明るい印象を受ける曇り空をみて、雨はこんなにもきれいだが、空には星空は見えないのかと、当たり前なことを思ってしまう。
いつの日か、星のある空がきれいな空と評され、曇り空は特に注目もされなくなったのだ。
この空を、いつまでも見ていたい。ため息交じりに空になったコップを握りしめていた。
時は二〇二〇年。東京オリンピックが開催され二週間以上をかけて、東京で各国が国の威信をかけて戦い抜いた。東京にはたくさんの外人が訪れ、東京という都市だけではなく、日本中を熱気の渦に巻き込んだ。東京オリンピックが閉幕し、日本にも落ち着きが見られたころ。季節は移り変わり、薄着でいるのが肌寒い十月になった。草花は紅葉し、色を橙色へと染めていった。
井藤は風の冷たさに手を隠すように薄いコートのポケットに忍ばせた。広い広い公園にはまだ緑色の葉や、足早に橙色になった葉が混在している。その葉を踏むと、乾いた音をたてたりしなかったり。葉だけで二つの季節を楽しんでいるかのようだった。ゆっくりと歩いて空を見上げた。秋も深まり、曇り空が増えてきた。
井藤は、来年大学四年になる。就職活動を間近に控え、こんなにゆっくりと街を眺めていられるのはおそらく何か月も先のことになるなと、独り言をつぶやいていた。
井藤には親しい友人はいない。容姿はいい方だが、性格がまるでだめだった。自分を自ら一番信じる者であり、自分にも厳しく、友人にも厳しかった。そのため、携帯の電話帳に登録されている人数は二十人弱はいるのだが、そのほとんどが家庭教師の生徒親であり、他は家族と、不動産屋、そして新聞配達員だった。だが携帯はガラケーではなく、スマートフォン。こういうあたりは、いろいろな情報をとり入れ、最新で自分が納得したものを購入する。無駄遣いもせず、金は溜まる。貯金をしている意識はない。だが、何かを買う時には吟味し、自分が納得したうえで購入する。それが井藤の中で無意識に決まっている規則なのだ。井藤には友人はいないが、毎日対話するものがあった。それが新聞。毎日届く新聞は、いつの日か新聞配達員の手から直接受け取るようになった。新聞配達員ははじめ驚いたものの、今では不愛想な井藤に対して笑顔で手渡してくれる。井藤にとってはその笑顔のわけはわからないのだが、人は自分が苛立っている時以外特に苛立たないのだ。
新聞配達員の名前は沢渡(さわたり)。井藤の推測からまだ若い青年ということが推測されていた。なぜならば、フットワークの軽さと、井藤が毎朝同じタイミングで家のドアを開けるとそこにおり、近所迷惑にならないよう、静かに挨拶をして新聞を手渡し、その流れに沿って、隣の家のポストへと入れていくのだ。その音は小さいながらもリズミカルで、速度が落ちたような音は聞いたことがなかったからだった。井藤が沢渡の連絡先を知っているのには訳があった。ある日、井藤が家を留守にするときがあった。朝九時に帰宅してみると、ポストには新聞が挟まっていたのだが、そこには小さなメモ用紙が貼ってあり、『おはようございます。』とだけ書かれていたのだ。井藤は自分が毎朝ドアを開けるタイミングで、沢渡がいることを思い出し、次に朝まで家を空けるときには、ドアに不在とだけ書いたメモを貼り家を空けた。すると、次に帰って来た時にはまた、『おはようございます』とだけ書かれたメモが、新しいメモ用紙に書かれて新聞に貼り付けられていた。井藤は初め律儀な青年だと感じていたのだが、だんだん文字を書くのが面倒になっていった。しかも紙がもったいないとも思うようになった。どうしたものかと考えていたが、その考えにも時間を費やすのが惜しくなったため、次に家を空けるときには何もしなかった。すると、朝自宅に戻ると今まで通り新聞はポストに入っていたのだが、そこにはまたメモが貼り付けられていた。
「試しに何もしないでみれば、今までと変わらずか」
そう目を細めながらメモを捨てようとしたところ、目に入ったのは今までとは違う内容だった。
『おはようございます。次回からご不在の場合は、メモを残すことを取りやめさせていただきます。〇九〇‐XXXX‐XXXX 沢渡』
そのメモを見て、少し口角を上げた。なぜかそのメモには連絡先が記載されており、井藤もなぜか携帯に登録をした。だが、こちらからは一度もかけたことはないため、沢渡というあの青年がこちら側の連絡先を知ることはなかった。
それから、井藤はいつも通り、家にいるときには直接彼から新聞を手渡しで受け取った。留守の時は何もなくポストに入っている。そんな日々が続いたのだ。
そして、春を迎えた。井藤にも就職活動の年がやっていた。井藤は自分に何が向いていて、何が不向きなのかをよく知っていた。そして、自分が大学を卒業後に政治の道へと向かうことを確信していた。井藤は政治の道へと進むため、家庭教師の仕事をしながら政策担当秘書試験に合格し資格を取得していた。井藤の実家は裕福であり、親戚には政治家や弁護士など、政界に精通する人脈を持っていた。そのつてもあり、井藤は大学を卒業したら政治家の秘書になることを自分で確信していた。自分の実力なら、難なくなれるとも思っていたのだ。世の中では、東京オリンピックが終わり、新しい時代の始まりと言われていたが、その新しい始まりは、日本だけではなく、世界の始まりともいえることをこの時井藤は知る由もなかった。
二〇二一年四月、桜が咲き誇り、新しい年度を迎えた。新しい始まりに、心を躍らせ、足取り軽く歩く姿は、何とも言えない春の訪れを感じさせた。井藤はその桜の木をベランダから眺めながら新聞を待った。時計を確認し、いつもの時間にドアの前に立つと、すでに新聞が届いてあることに気づいた。郵便受けから新聞を取り出す。少し違和感を覚えながらも、新聞を広げ、淹れたてのコーヒーに手を伸ばした。だが、口元に運ぶ前に、井藤はそのコーヒーカップを静かにテーブルの上に置いた。
―世界の総力を持って教育する―
新聞の一面を飾っていたのは、世界地図と、その世界からの矢印が日本に向いている図。そしてその横には、『世界教育統一化を目指す』という文字が。井藤はそのまま静かに椅子に座った。
『政界は、二〇二二年を目途に、世界教育の統一化を発表。政界のトップだけが知る秘密機関で調整が今まで行われていた模様。この政策は二〇一七年から極秘に調整されており、総理大臣、秘書三名しか知らなかった事実であり、発表されたのは本日、日本時間の午前二時のことであった。
この発表は報道各社に連絡はなく、テレビ回線を一時遮断。内閣で持っている電気回路を使って行われた模様。日本だけではなく、この発表は全世界で同じ時刻に放送。この発表は、テレビだけではなく、街の大型モニターでも映し出され、文字通り、全日本に放送されたことになる。内閣府が発表した内容としては以下の通りだ。「我が日本は地球の中で海に囲まれた島国である。四季を感じられる日本での教育は、子供たちにとって環境が整っている。よって、二〇二二年、この日本を教育の現場として、世界に受け渡すことが決まった」と日本全国民を揺るがす政策が、国民の許可を得ずに決められた。』
井藤は生唾を飲み込み、大きく喉仏を上下に動かした。新聞を握る手にはじわりと汗をかいている。
「どういうことだ」
一言つぶやいてみても、答えるものはこの家には誰もいない。かといって誰かがいたとしても、返答はかえって来なかっただろう。テレビをつけているはずなのに、その音は全く入ってこない。井藤はゆっくりと外を眺めた。街並みはいつもと変わらない。ただ変わったのは、この無機質な新聞という紙面だけなのではないかと初めて新聞を疑った。
井藤はそのあとも、新聞を読んでいた。一面を飾った世界教育統一化。その文字が頭から離れない。自らテレビやインターネットなどを駆使し調べたが、まだ情報がなくあまり詳しく理解することができない。その時、井藤は世界の時差を思い出した。全世界で同じ時刻に放映されたということは、昼の時間帯に放送された国があるということだ。
「日本で放映されたのは、今朝の二時、ということは、米国は昼の一二時か。なるほど」
おそらく世界が米国の放映時間に合わせたの時間だったことを井藤は察知した。米国が一二時に放映されたのであれば、昼から夜までの間、何らかの政策や糸口を調査しているはず。井藤はシャツに着替え、ある人物に電話を掛けた。
井藤は待ち合わせの場所へ早足になる。寒さで手がかじかまないように革の手袋をし、トレンチコートの後ろ襟を立てた。この時期には珍しく、薄いマフラーをして、ゆっくりと歩いていた公園を足早に歩いた。井藤の耳には何も入らない。頭の中を駆け巡るのは、今朝新聞で見た文字だけだった。
井藤がその場所に到着した時には、受付前の椅子にきょろきょろと落ち着きなく腰かけている者の姿があった。受付でカードを渡し、個室へと案内される。その姿を立ち上がって眺めていたその者に、井藤は何も話しかけなかった。扉が開かれ、中に入ると、音を立てて扉が閉まった音が聞こえた。
「おはようございます」
井藤はその声に振り返った。
「おはようございます。沢渡さん」
そう言って、井藤はコーヒーを入れた。所沢の分は入れなかった。井藤がコーヒーを入れた後、並べられたテーブルに腰を掛けようと振り向くと、沢渡はその姿を眺め立っていた。井藤が席を進めると、失礼しますと小さな声を出して静かにに座った。
「生憎、私は人にコーヒーを入れることはしなー」
井藤が飲み物は自分で入れろと言わんばかりに話し始めたとき、沢渡は自分の鞄の中から水筒を取り出した。その光景に、話していたことが恥ずかしくなるわけもなく、井藤は不気味に笑った。
この場所は、会員制のラウンジである。井藤が大学に入ったとき、家庭教師の仕事をするときに、家庭までいけない場合に利用していたラウンジだった。すべてが個室となっている。井藤の会員ランクは中で、飲み物も自由に飲み放題だった。井藤の両親は、最高ランクのラウンジを使うといいと話していたのだが、最高ランクともなると、干渉されすぎるため、中ランクに勝手にしていた。このラウンジはあまり使うことはなく、家庭教師の時や、よほど気が向いたときにしか使わない。そう、今日がそのよほど気が向いた時だったのだ。
「お呼びいただきありがとうございます」
静かな雰囲気に糸口を見つけたのは沢渡の方だった。その言葉に、井藤はコーヒーを一口すすり答えた。
「沢渡さん。私が君を呼んだのは―」
「新聞の一面、世界教育統一の件ですね」
沢渡は先ほどから井藤の話をすでに分かっているかのようにかぶせて話してくる。井藤はそれにいら立ちながらも、どこか不気味に笑いながら、沢渡を見ていた。
「今日の朝刊は私も拝読させていただいて、とても驚きました。午前二時の放送があったとき、私は新聞配達の勤務をするために準備をしておりました。放送をみて、すぐに職場に行ったところ、電話が鳴り、近くにいた私がとったのですが、放送を見た方から詳しいことは新聞に載るのかという問い合わせでした。そのあとも問い合わせは止まらず、留守電にする始末。なので、本日は皆様のご家庭により早く新聞配達を行っていたのです」
そう話す沢渡の姿を見て、初対面なのになんでこんなにべらべらと話すのか理解できなかった。だが、沢渡の言っていることは間違ってはいなかったことは確かであった。
「それで、なんで私に呼び出しをされたのかはわかっていますか?」
井藤は沢渡を試すかのように質問した。
「すべてはわかりませんが、おそらく、電話を職場にくださった皆様と同じ考えなのではないかと予測をしています」
「ならばなぜ、職場の電話には留守電で対応をし、私にはいきなりの電話呼び出し、しかも初めてまともに会話をし、名前も知らないにもかかわらず、承諾をしてくれたのでしょうか」
井藤は初対面の人には決して馴れ馴れしく話しかけたりしない。
「そうですね、おそらく、私の直観ではありますが、私があなた様に電話番号をお教えしたのは、これからさき、あなたと何かをやり遂げるという直観が働いたからです。根拠はないのですが」
沢渡はそう言って少し笑って見せた。井藤はこの沢渡という男に興味を示した。今まで自分以外の人間に興味を示したことはなかったが、沢渡という男は、なぜか話を聞くだけで吸い込まれる感覚があった。自分の思い通りに事が運ばない。そんな気さえしていた。井藤はなぜかこの言葉を聞いたときに、立ち上がり右手を差し出した。
「井藤といいます。これからよろしくお願いします」
その言葉に、沢渡も立ち上がり、右手を差し出した。
これが井藤が初めて人に心をゆるした瞬間であった。
「ところで、ごあいさつ程度に、沢渡さんのことを少々お伺いしてもいいでしょうか?」
「はい、その前に、井藤さんは私よりも年上と見えます。どうぞお気軽にお呼びください」
その言葉遣いと、物腰の柔らかさに、井藤は間違いなかったと確信した。
沢渡は長崎県出身であり、現在、高校に行きながらアルバイトとして新聞配達をしている青年だった。今には珍しい新聞学生だ。新聞を配達した後、学校に向かい、授業を受ける。放課後は宿題を終えた後、睡眠をとり、新聞配達をするという流れだ。
沢渡は長崎の出身であるが、東京の高校に出てきて、新聞配達の下宿所に住んでいる。なぜ東京に来たのかと聞くと、東京は日本の中心ですからと、それだけを答えていた。沢渡はもともと新聞が好きだった。田舎暮らしの沢渡にとって、日本の情勢を知るには、インターネットはもちろんであるが、一番わかりやすいのは新聞だという。紙面であることによって、読みたい記事、読み返したい記事がいつでも読むことができるのだ。沢渡は毎日届く新聞の情報量に感動を覚え、東京の新聞に興味を示すようになる。そして、高校に上がると同時に、東京へと出ていたようだ。井藤はここまで話を聞いて、自分とは全く正反対だと感じた。
「沢渡くんは新聞に憧れがあったんですね。私にはその憧れという気持ちはなかった。なぜならば、新聞は小さい時からあって当たり前で、読むのも当たり前の行為だと思っていたからだ。あまり人をほめることは好きではないのだが、沢渡くんは私に新聞に対して知らない感情を教えてくれたことになる」
井藤は頭を下げてお礼を言った。が、その時に気づいた。この沢渡という男の流れに流されていると。井藤は気を取り直し、話を本題にもどした。
「さて、本題に入るが、世界教育統一化についてなんだが、これは―」
「これは、おそらく日本に全世界の子供たちが集まるという意味だと思います」
また被せて言いたいことを言われてしまった。だが、確かに言いたいことだから良しとしよう。
「そうですね。でもそんなことが本当に―」
「可能なのか、ですね」
若い勢いに推されて敬語になったにもかかわらず、結論まで言われてしまった。井藤は少し人の話を聞くことが大事であるというべきだと思い、口を開いた瞬間
「日本に暮らしている人口や土地からして、世界の子供たちを日本に集めるのは不可能。ですよね」
にこやかに言われてしまった。井藤は頭を抱えながら、あとという沢渡の声を制するように手を広げた。その思った以上に大きな手を目の前に、沢渡は井藤の予想通り話すのをやめた。
「沢渡君、ちょっと待ってくれ、まず―」
「井藤さん!手がとても大きいんですね!しかも細くて爪のケアもきちんとされている。さすがです!」
またまた覆いかぶられて言われたその言葉は、言いたいこととは全く関係のない話だった。
時刻は十七時三十五分を指していた。手袋をしてマフラーを巻き、日の光を浴びない風に身を守るため、首を縮める。沢渡と話していた時間は十時から昼をまたいで今まで。時計を見れば十七時だった。昼飯は珍しく出前を取り、ラウンジ内で食べた。井藤はあまりにも長い時間人と話をしたのは久しぶりの出来事だった。疲れたと一言。だが、疲れたような、充実していたような勉強をしているよりも頭を使った気がした。
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