二
優吾が美穂と出会ったのは、優吾が店長を務める日本酒バルであった。今年24になる優吾は、いつか自分の店を持ちたいと、高校を卒業後すぐに水商売の道に入った。
店にふらりと入って来た美帆が、まるで知り合いみたいな顔でカウンターの真ん中にドカッと座った瞬間に、優吾は美帆に恋をした。
以来、美帆は時々思いついたようにやってきては、指定席に座った。逆に、その席が埋まっていると帰ってしまう。
美帆との会話で、美帆は大学生で、店からほど近いところにあるコンビニでバイトをしているとわかった。今年4年生になったというから、優吾よりも2つ年下だ。でも、優吾が美帆について知っているのはそれくらいであり、それ以外の情報はほとんどない。本当はもっと知りたいと思うのだが、お客様である美帆に、こちらからしつこく訊くことはできない。
一方の美帆は、優吾を質問攻めにした。いくらお客様だからと言って、そのすべてに答える必要もないのだが、それでもかなりの個人情報まで話してしまった。それは美帆に恋した優吾の弱みからだった。
「ふ~ん。じゃあ、今は彼女いないんだ」
訊かれるままに、前の彼女と別れてから半年以上経つと話していた。
「寂しくない?」
「寂しいと言えば寂しいですけどね」
「私が新しい彼女になってあげようか?」
思わぬことを言われ驚いたが、一目ぼれした相手からそんなことを言われ、内心嬉しかった。しかし、本心なのか読めなかったので、軽くかわすことにした。
「本心だったら嬉しいですね」
「さあ、どうかしら」
自分の声を確かめるような言い方だった。
そんな二人の距離が縮まったのは偶然だった。
いつものようにバルでの仕事が終わり、自宅アパートに向けて歩いていたところ、雨が降り出した。小雨だったので我慢して歩いていたが、次第に雨足が強くなってきた。店にある置き傘を取りに戻ろうかとも考えたが、もう少し先に行けば美帆がバイトしているコンビニがある。店に戻るのも面倒な気がして、コンビニに寄ることにした。近くまで歩いて行ったところで、店の横から傘を差して出てきた美帆に呼び止められた。
「店長?」
「ああ、美帆さん」
「ひょっとして、傘を買いに来た?」
「そう」
「それだったら、私が送ってあげるから、入って」
手招きされた優吾は一瞬迷ったが、素直に好意に甘えることにして、美帆の横に滑り込んだ。
「悪いね」
美帆から発する女の子の匂いが優吾に異性を意識させる。
「ううん。どうせ店長んち、うちのアパートの途中だし」
そう言えば、美帆に自宅アパートの場所を話したことがあったことを思い出した。ただし、美帆の住まいが優吾のアパートの先にあることは今初めて知った。
「そうだったんだ」
必然的に身体と身体が触れ合う距離となる。
「美帆さん。最近店に来ないよね」
「いろいろあってね」
「いろいろ?」
「そう、いろいろ」
その『いろいろ』が訊きたかったけれど、まだそれほど親しくない優吾に訊く勇気もない。
「あっ、ここが俺が住んでいるアパート」
「ここなんだ」
そこで別れるつもりだったけれど、後先考えずに勢いで言ってしまっていた。
「良かったら、ちょっと寄っていかない?」
へんな下心などなかったことが美帆にも伝わっていたようで、拍子が抜けるくらい軽い返事があった。
「うん。いいよ」
幸い、その日は仕事に出かける前に部屋の掃除をしていた。だから、誘ったといってもよい。
部屋にあがった美帆は、もの珍しそうにあちこち見渡している。
「そこに座ってください」
優吾の部屋は5畳のDKと6畳の洋室二間の2DKである。一人住まいには贅沢のようだが、築年数が30年と古いので家賃が安いのである。優吾が指したソファーに美帆が座る。
「案外きれいにしてるのね」
「いやあ、たまたま今日は仕事前に掃除したんだ」
「どうせ、そんなことだろうと思った」
「ところで、美帆さん何飲む?」
「何があるの?」
「ここは店じゃないけど、一通りありますよ。アルコールも含め」
「そう。じゃあ、ウイスキーの水割りがいいかな」
幸い、先日海外から帰って来た先輩からもらった高級ウイスキーがあった。
「わかりました。少々お待ちください」
その日どんな話をしたか、優吾はほとんど覚えていない。ただ、妙に盛り上がって、気づいたら抱き合っていた。だが、優吾の手が美帆の胸に触れた時、美帆は優吾の耳元で『私、あんまりセックスが好きじゃないの』と言った。一瞬怯んだが、優吾を拒絶するようなことはなかった。卵型の小さな顔に涼しく切れ長の目、一番愛しいものだけに向けられる美帆の表情が優吾の心を溶かした。その後も美帆は優吾の求めを断ることはなかったが、いつもどことなくぎこちなかった。しかし、優吾はそれを美帆の慎み深さと理解していた。気がついたら、頭がどうにかなったとしか思えないほど夢中になっていた。
それから半月後、優吾の誘いに応じる形で美帆が優吾の部屋にやってきて同棲生活が始まった。美帆は尽くす女性だった。どちらかと言えばわがままな優吾の性格をよく理解して、でき得る限り、優吾のしたいようにさせてくれた。当初の狂おしいほどの恋情は薄れていたものの、美帆は乾いた土に沁み込む水のような速さで、優吾の心の中に侵入していた。ありふれた退屈な日常に、色がついた。
突然美帆が田舎へ帰ると言い出したのは、同棲生活が半年を迎えたある日のことだった。
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