第2話 三日前

 時は三日前に遡る。


 ヨハンの故郷――ブリック公国の公都ヌアーク。

 その中央に屹立する城の、敷地内に設けられた屋外練武場で、木製の武器が激しく打ち合う音がこだまする。

 現在練武場では、軍服に身を包んだブリック公国軍の兵士たちがそこかしこで模擬戦を繰り広げていた。

 そして、公国軍兵士の一人であるヨハン・ヴァルナスもまた、木剣ぼっけんを握り締めて模擬戦に臨んでいたわけだが、


「くっ……!」


 模擬戦の相手となる巨漢の木剣を受け止めたヨハンは、あまりの剣撃の重さによろめきながらも踏み止まる。

 すぐさま反撃に移り、がむしゃらに木剣を振り回すも、巨漢はその体躯からは想像できないほどの鮮やかな剣捌きで、ヨハンの攻撃を容易く防いだ。


 、圧倒的な実力差にヨハンは思わず歯噛みしてしまう。


(クソ! どうして僕の剣の才能は、魔法の才能の一〇分の一もないんだよ!)


 世界最大にして唯一の大陸ミドガルドにおいて、魔法の使用が全面的に禁じられて早五年。

 生前、大陸最高と謳われた偉大なる魔法士を父に持ち、自身も天才魔法士の名を欲しいままにしていたヨハンは、時代の流れを、自身の剣才のなさを呪わずにはいられなかった。


 対する巨漢は、ブリック公国軍最強の剣士と謳われる、レグロ・ランティア。

 年齢はヨハンと同じ一八だが、巨漢と称したとおり体躯はヨハンよりも一回り以上大きい。

 背丈も、同年代では平均的な高さのヨハンよりも、頭一つ以上高い。

 剣才に至っては、体格以上の差が開いているのは明白だった。


 ヨハンと、レグロ。

 魔法の天才と、剣の天才。

 かつてはライバルに近い間柄だった二人だが、魔法の使用が禁止された現在では、比べるのもおこがましいほどに致命的な差が二人の間に横たわっていた。


 そんな内心の愚痴と劣等感が顔に出ていたのか、短く刈り込まれた鳶色とびいろの髪と同色の双眸が、猛禽の如き鋭さでこちらを射抜いてくる。


「今は魔法ではなく〝武〟の時代。ヨハン、お前はいつまでそんなザマでいるつもりだ。待っていれば、また魔法の時代がくるとでも思っているんじゃないだろうな?」


 体格同様、同い年とは思えない堅い物言いでレグロは言う。


「思っていたら、練武場こんなところでお前と模擬戦なんかしていない!」


 両手で力いっぱい柄を握り、意地とともに渾身の力で木剣を振り下ろす。が、その意地すらも軽いと言わんばかりに、レグロは片腕だけでヨハン渾身の一閃を容易く受け止めた。


「ならば、言葉ではなく実力で示すことだな」


 冷たく言い放った刹那、レグロはヨハンの木剣を力任せに払いのけ、諸共押しのけられたヨハンの体が再びよろめく。

 なんとか踏み止まろうとするも、今度は容赦しないとばかりにレグロは間合いを詰め、防御する暇すら与えない一閃でヨハンの木剣を弾き飛ばした。

 普通の模擬戦ならばこの時点で終了になるが、レグロは普通で終わらせるつもりはないらしく、さらに一歩間合いを詰めてくる。

 そして、丸腰になったヨハンに向かって木剣を振り下ろ――


「させません!」


 凜とした声音とともに、一人の少女がヨハンとレグロの間に割って入る。

 続けて、少女はその手に持った木剣をはすに構え、レグロの剣撃を受け止めると同時に、その力に逆らうことなく受け流す。美しさを覚えるほどに巧緻を極めた剣技だった。

 その剣技に負けず劣らず美しく、その剣技に似つかわしくないほどに可憐な容貌をした少女は、肩に届かないほどに短い黒髪を揺らしながらおとがいを上げ、怒気が入り混じった緋色の瞳で、自分よりも頭二つほど大きいレグロを見上げた。


「ヨハンの剣を弾いた時点で勝負はついていました。これ以上は模擬戦の域を出てしまいますよ」


 かろうじて棘を取ったような声音で、少女は言う。

 練武場で模擬戦を行なっているのはヨハンたちだけではない。

 周囲に配慮して、少女は怒りを表に出さないよう努めたのだ。

 だが、


「それがどうしたというのだ、クオン」


 少女――クオン・スカーレットの配慮を無視し、レグロは事もなげに言う。

 自然、クオンの表情が険しくなる。


「それは、ヨハンが怪我をしても構わないということですか?」

「そのとおりだ。そこの阿呆は、魔法が禁止されてから五年も経っているのに、いまだに現実を受け入れ切れていないからな。言ってもわからない阿呆には、体でわからせるしかない」

「あなたという人は……!」


 一触即発。


 クオンは美しくも可憐な見た目に反し、剣の実力はレグロに次ぐ。

 周囲にいる者たちが異変に気づいて模擬戦を中断するも、ブリック公国軍で一、二を争う剣士の間に割って入られるような剛の者はおらず、ただ固唾を呑んで見守ることしかできなかった。


 当事者である、ヨハンただ一人を除いて。


「ありがとうクオン。僕のために怒ってくれて。でも、ここは剣を収めてくれないか?」


 平然と二人の間に割って入る、ヨハン。


 クオンは言われたとおりに木剣を収め、彼女に合わせるようにレグロも一歩引き下がる。

 それを見て安堵したのか、あるいは、つい今し方自分を打ちのめそうとした相手の眼前に立つヨハンの胆力に感心したのか、そこかしこからため息から漏れ、張りつめていた空気がゆっくりと弛緩していく。

 そんな空気を嫌うように、レグロはヨハンに向かって冷ややかな言葉をぶつけた。


に護られるとはいいザマだな、ヨハン」

「自覚はしてるし、このままでいるつもりもない」

「だといいがな」


 そう言い捨てると、これ以上は時間の無駄だと言わんばかりに背を向け、ヨハンたちの前から立ち去っていった。


「……わたし、やっぱりあの人のことだけは好きになれません」


 そう言って、クオンはヨハンの手を掴み、優しい手つきで掌を拡げさせる。

 ヨハンの掌は木剣の振りすぎでマメが潰れ、ボロボロになっていた。

 

「魔法を禁止されたという現実を受け入れていない人が、こんなにも頑張れるわけないじゃないですか」


 愛おしげにヨハンの掌を見つめた後、クオンは柔和な笑みを浮かべながら言う。


「後で手当てしてあげますね」

「……ああ、頼む」


 こそばゆさを感じて視線を逸らすヨハンに、柔和だったクオンの笑みがいたずらっぽいものに変わる。


「もしかしてヨハン、照れてます?」

「……照れてない」

「顔、ちょっと赤くなってますよ」


 そう指摘され、半ば反射的に顔に手を当ててしまう。が、クオンがクスクスと楽しげに笑っているのを見て、すぐに嘘だと気づく。


「まったく、君という人は」

「ふふ、ごめんなさい。ヨハンのそういうところが大好きなものですから」


 一つ年下の恋人からストレートに「大好き」と言われ、今度こそ頬が熱くなるのを感じたヨハンが、視線はおろか顔すらも逸らしていると、


「ダメだよ二人とも~。こんなところで見せつけちゃ~」


 気の抜けるような声とともに、木斧を担いだ兵士が、のしのしとこちらに歩み寄ってくる。

 鮮やかな金髪と碧眼が絶妙に似合わない、小太りの男だった。


 ほどなくしてヨハンたちのもとにたどり着いた男は、声を小さくしながらこう付け加える。


「今君らの周りにいるの、男女問わず独り身ばかりだから視線が凄いことになってるよ」


 その言葉を聞いたヨハンはそれとなく周囲を見回し、男兵士から向けられている視線に殺気が混じっていることに気づいて頬を引きつらせる。

 控えめに言っても美少女なクオンを恋人にしているのだ。

 ヨハンに嫉妬の眼差しが集中するのは、必然としか言いようがなかった。


 一方、ヨハンも充分に整った容貌をしているが、異性の目を引くにはどうにも物足りないものがあるらしく、女兵士からクオンに向けられた視線の中に、恋人にしていることを妬む視線はほぼ皆無だった。

 もっとも、単純に恋人がいることを妬ましく思う視線は思いっきり集中しているものだから、さすがのクオンも申し訳なさそうに苦笑するしかない。


「特にヨハンは、あんまり見せつけすぎると夜後ろから刺されちゃうかもしれないよ~」

「シャレにならないし、ちゃんと反省もしてるからそう脅かさないでくれ、カルセル」


 反省していることを示すように、ヨハンとクオンがお互いの距離を半歩だけ離すのを見て、小太りの男――カルセル・マルセルは満足げに頬を綻ばせる。


「そ~そ~。それでいいの。付き合ってまだ半月だからイチャつきたくなる気持ちはわからなくもないけど、時と場所はちゃんと選ばないとね」

「別に、イチャつきたいとか思ってたわけじゃ……」

「わたしはイチャつきたいと思ってましたよ、ヨハン」


 クオンはニッコリと笑いながら、ヨハンとカルセルにしか聞こえない小さな声音で言う。

 恋人にそんなことを言われたら嬉しくないわけがなく、ヨハンは頬が緩みそうになるも、周囲の視線を気にしてどうにかこうにか堪えきる。

 その隣で、カルセルがやれやれと肩をすくめた。


「とりあえず、マメが潰れたそんな手で模擬戦を続けても余計にボロボロになるだけだから、ヨハンはさっさと手当てしに行ってきなよ。もちろん一人で。クオンちゃんもそれでいいよね?」

「そうですね。ヨハンが後ろから刺されたりしたらイヤですし」

「頼むから、冗談でもそんなことは言わないでくれ」


 げんなりとしながら、ヨハンは今一度周囲に視線を巡らせる。

 やけに血走った目をしている野郎がチラホラいるところを見るに、本当に冗談では済まされない気がしてきたので、しばらくは夜道に気をつけようと心に決める。


 さすがに練武場のど真ん中でいつまでも談笑するのはよろしくないので、ヨハンは「行ってくる」とだけ言い残し、クオンたちのもとから離れていった。

 ヨハンの姿が見えなくなったところで、カルセルは言う。


「ま、ご覧の通りちょっと目を離している隙に無茶をやらかすような奴だからさ、これからも末永くよろしくしてあげてよ、クオンちゃん」

「ふふ、もちろんです」

 

 そう言って、クオンは楽しげに嬉しげに笑った。



 ◇ ◇ ◇



 模擬戦を含めた各種訓練を終えたヨハンは、公都ヌアークを護る外壁の上で哨戒任務についていた。

 当然、哨戒任務についているのはヨハン一人だけではなく、三〇〇メートル程度間隔を空けて配置された兵士が、ヨハンと同じく哨戒任務にあたっていた。


 高さ一〇メートルの外壁で護りを固めながらも、なぜそこまでの警戒が必要なのか……ブリック公国がミドガルド大陸に数多く存在する小国の一つにすぎないと理由もあるが、一番の理由は、公都の外に、人類の天敵と呼ぶべき存在が跋扈しているからに他ならなかった。


 今まさにその天敵を見つけたヨハンは、懐から取り出した遠眼鏡で、はるか向こうに見える平原の一点を凝視する。


 遠眼鏡に映るのは、炎の鳥、氷の狼、人型の土人形……超自然的な肉体を持つ多種多様の〝何か〟が、群れを成して平原を彷徨っていた。


 その〝何か〟こそが人類の天敵――澱魔エレメント

 知性もなければ感情もない、ただただ人間を襲う怪物。

 その怪物から身を護るために、公都は外壁を設け、昼夜問わず兵士たちを哨戒にあたらせていた。


 そして、その澱魔エレメントの存在こそが、ミドガルド大陸で魔法の使用が禁じられた要因となっていた。


 魔法とは、呪文の詠唱、あるいは魔法陣を利用して世界の理に干渉し、ねじ曲げることで、人間ならば誰しもがその内に秘めている魔力を、地、水、氷、火、風、雷――六つの属性のいずれかに変容させて発動する術法。

 世界の理をねじ曲げる行為が世界に何の影響も与えないわけがなく、度重なる魔法の使用によって世界にひずみが生じ、その結果、澱魔エレメントが世界に生み落とされ、いつの間にか、ミドガルド大陸中に溢れかえっていた。


 魔法が生まれたのが一五〇年前。

 初めて澱魔エレメントの存在を確認されたのが一〇〇年前。

 魔法を使えば使うほど澱魔エレメントが生まれることがわかり、、ミドガルド大陸に存在する全ての国に魔法の使用の禁止を認めさせることができたのが五年前。

 今や澱魔エレメントの数は、無数としか形容しようがないほどにまで膨れ上がっていた。


 元魔法士であるヨハンは複雑な思いを抱きながらも、遠眼鏡を下げて澱魔エレメントがいる平原から視線を外す。

 澱魔エレメントを野放しにしておくと、公都ヌアークだけではなく、その近辺に点在する村や町に危害を及ぼす恐れがある。

 ゆえに澱魔エレメントは発見し次第、待機中の討伐隊に報告する決まりになっている。

 ヨハンは外壁の要所要所に設けられた側防塔に駆け込むと、塔内にいる連絡員に澱魔エレメントの発見場所とおおよその数を伝えた。


 連絡員が塔内の階段を駆け下りていくのを確認した後、ヨハンは元いた場所に戻り、眼下に拡がる公都に視線を向ける。


 幾何学模様の石畳が敷き詰められ、白塗りの家屋が軒を連ねる街並みは、生まれ故郷という贔屓目を抜きにしても美しいと思った。

 公都の中央に鎮座する、質素でありながらも荘厳さを醸し出すヌアーク城。

 そこに御座おわす主君、セルヌント公にお仕えできることを心の底から誇らしいと思った。

 

 この美しい公都を、そこに住まう人々を、崇敬する主君を護る。

 その誇りを胸に、ヨハンは片時も気を緩めることなく、自身に課せられた務めに勤しんだ。



 そして、その夜――



「これでクオンは、父上の残した手記を全て読破したことになるな」

「そうですか……感慨深くもありますが、正直少し寂しい気もしますね」


 言葉どおり感慨深そうに、それでいて少しだけ寂しそうに微笑む、クオン。

 そんな彼女の言葉を噛み締めるように、ヨハンは、


「一年がかりだったからな」


 と、相槌を打った。


 今宵は二人とも非番ということで、公都のレストランで夕食を済ませた後、ヨハンはクオンを自宅に招き入れ、二人で椅子を並べて、ミドガルド大陸最高の魔法士が残した手記を読みふけっていた。

 ヨハンとクオンが出会って一年、ずっと続けてきた余暇の過ごし方だった。

 休暇日以外は着替える時間も惜しみ、軍服のままで過ごすことも、この一年ですっかり当たり前になっていた。


「つくづく思うが、君は剣が得意なのが不思議なくらいに魔法が好きだな」

「『好き』ではありません。『大好き』なんです。そこのところ間違えないでください」


 わざとらしく怒ってみせるクオンに、ヨハンは微笑みながら「ごめんごめん」と謝る。


「僕と同じく、魔法士だった父上の影響で魔法士を目指してたって言ってたっけ」

「はい。さすがに魔法士としての力も知識も、ヨハンのお父様であるダルニス様の足元にも及びませんが、それでも、わたしにとって父は憧れの存在でしたから。わたしの魔法の才能が絶望的だった分、余計に」


 少しだけ肩を落とした後、クオンは言葉をつぐ。


「だから、父が亡くなった時は本当に悲しかったですし、魔法の使用が禁止された時は本当につらかった。あの時は、目の前が真っ暗になる思いでしたよ」

「僕の父上が亡くなったのは魔法の使用が禁止された後だったけど、目の前が真っ暗になる思いというのは、よくわかる。五年前まで、魔法は僕の全てだったから」

「今はもう魔法は使えない……けど、わたしがヨハンと出会えたのは魔法のおかげだったってこと、知ってました?」


 ヨハンは思わず片眉を上げる。


「それは初耳だな」

「ふふ、どうせだから白状しますけど、わたしが公都ここの募兵に応募したのは、ダルニス様の息子であり、天才魔法士としても名高かったあなたに会うためだったんですよ」


 思いがけないクオンの告白に驚くと同時に、クオンが自分に会うために公都に来てくれたことが嬉しくて、つい頬が緩んでしまう。


 魔法の使用が禁じられ、魔法士としての道が断たれたクオンは、魔法の才能に反比例するように抜きん出た剣才を活かし、傭兵まがいの仕事をこなすことで生計を立てていた。

 そして一年前、ブリック公国の公都で兵士を募集していることを聞きつけ、安定した生活欲しさに募兵に応募した――という話は、クオンの口から聞いていたが、それは嘘で自分に会うためだったとは思いもよらなかった。


澱魔エレメントを生み出す要因だとわかっていても、やっぱり魔法が大好きだという気持ちが抑えられなくて、魔法について色々教えてもらいたくてヨハンに接近したんですけど……」


 クオンは愛おしげにこちらを見つめ、笑みを浮かべながらこう続ける。


「気がつけば、魔法以上にヨハンのことが大好きになっていました」


 ストレートすぎる愛情表現に、ヨハンは胸も頬も熱くなっていくのを感じる。

 そんなヨハンを、クオンはますます愛おしげに見つめてくる。

 自然、並べた椅子以上に二人の距離が近くなる。


 今ならいける――そんな思いに突き動かされるように、ヨハンはクオンに顔を近づける。

 そして、彼女の唇に自身の唇を――――…………


「あ……」


 思わず、そんな声を漏らしてしまう。

 堰き止めるように、クオンが両手で、やんわりとヨハンの体を押さえていた。


 クオンはゆっくりと、こちらから顔を逸らす。

 耳まで赤くなった、可憐さが増したその顔を。


「あの……すみません……。雰囲気さえつくればいけるかな~って思ったんですけど……やっぱり……それはまだ……恥ずかしい……です……」


 クオンに、ヨハンは苦笑を浮かべながら「わかったよ」と応じた。


 こちらの反応を楽しむようにストレートな愛情表現をしてくる割りには、ここぞという時は異常に弱々しくなってしまう……そんなクオンが可愛くて、愛おしくて、たまらない。


 だからヨハンは、自分からクオンに告白したのだ。

 ここぞという時には弱々しくなり、踏み込みきれないクオンに先んじて。

 クオンがこちらのことを想う以上に、こちらの方がクオンを想っていることを伝えたかったから。


 とはいえ、このままでは昂ぶった感情を持て余してしまいそうだったので、


「えうっ!?」


 キスをしない代わりに、クオンを思いっ切り抱き締めることにした。

 抱き締められたせいか、珍妙な悲鳴を漏らしてしまったせいか、クオンはこれ以上ないほどに顔を真っ赤にさせながら、あわあわと両手を宙に彷徨わせる。

 そんな彼女のことをいつまでも抱き締めていたいという想いと、普段からかわれている意趣返しという意味合いも込めて、もう少しだけこのままでいようと心に決めた。


 そんなこんなで二人だけの時間をたっぷりと堪能した後、明日の朝も早いということで夜が更ける前にお開きにする。


 公都で生まれ育ったヨハンとは違い、募兵に応じて公都に住まうようになったクオンに持ち家はなく、城から程近い場所にある兵舎で寝泊まりしていた。

 近いうちに自分の家に招き入れたいという想いは今は脇に置き、ヨハンはクオンを兵舎まで送ろうとするも、


「それじゃあ、途中までお願いしますね」

「途中?」


 と、眉根を寄せるヨハンに、クオンは苦笑交じりにこう答える。


「昼間の練武場での出来事を考えると、二人で連れ立って兵舎に戻ったら、その帰りにヨハンが刺されてしまいそうなので」


 半分は冗談なのだろうと思いつつも、冗談じゃない部分が半分もある時点で恐ろしいことこの上なかったので、ヨハンはクオンの申し出どおり途中まで見送り、名残惜しさを覚えながらも別れた。

 

 家に戻ったヨハンは、後片付けをするために父の手記を手に取るも、そこに書かれていたとある項目が目に止まり、手も止めてしまう。


「聖属性と闇属性、か」


 魔法を使い、世界の理をねじ曲げて変容させた魔力の属性は、地、水、氷、火、風、雷の六種類。

 だが、父――ダルニスは、病に伏せる少し前に、それらとは違う二つの属性――聖属性と闇属性の存在を突き止めていた。


 父の仮説によると、人間の魔力は元々は聖属性かもしれないこと。

 それゆえに世界の理をねじ曲げてまで属性を変容させる必要がなく、澱魔エレメントを生み出すことなく魔法が使えるかもしれないこと。

 その聖属性とは真逆に位置する闇属性は、世に知られる六属性以上に世界の理をねじ曲げる恐れがあり、六属性以上に凶悪な澱魔エレメントを生み出す恐れがあるかもしれないとのことだった。


(聖属性の魔法を研究すればあるいは……)


 そんなことを考え、諦めたようにかぶりを振る。


 天才魔法士と呼ばれたヨハンといえど、大陸最高の魔法士である父と比べたら知識も技術も格段に劣る。

 正直、父がどのような研究を行なって聖属性と闇属性にたどり着いたのか、皆目見当がつかない。

 魔法と澱魔エレメントの因果関係についても、人並み以上の知識は持ち合わせていても、その深淵に触れるほどの深い知識までは持ち合わせていない。

 研究に取りかかる以前の問題だった。


 そこまで考えたところで、ヨハンは「やれやれ」と再びかぶりを振る。


「こんなだから、レグロに現実を受け入れ切れていないとか言われるんだろうな」


 独りごち、自嘲めいた笑みを浮かべたその時だった。

 微かな魔力の昂ぶりを感じ、弾かれたようにその方角に視線を向ける。


 ヨハンの、魔力を感じ取る感覚の鋭さは尋常ではなく、彼が天才魔法士と呼ばれていた所以の一つにもなっている。

 事実、ブリック公国に存在する全ての魔法士と比べても、ヨハンほど魔力感知に優れた人間はいない。


 ゆえに、確信する。

 公都内で、たった今起きた魔力の昂ぶりを感知できた人間が、自分一人だけであることを。


 確かめる必要がある――そう思ったヨハンは後片付けを中断し、すぐさま家を飛び出した。

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