イデオロギーは悪なのか〈14〉
人間とイデオロギーの、イデオロギー的関係の内部で、人間をイデオロギー的主体として指名し、その諸行為をもってイデオロギーを表現するように促し導く「機能」を果たすものを、アルチュセールは「イデオロギー装置」と呼ぶ(※1)。
イデオロギー装置とは、イデオロギー的関係の内部で、イデオロギー的主体のイデオロギー的諸行為を、そのイデオロギーにおいて様式化されたさまざまなイデオロギー的「儀式(=ふるまい・行為)」を通じて、そのイデオロギー的主体自身において行為されることを促し導く機能を持つものだと言える。
そのイデオロギー装置に導かれた、イデオロギー的主体の諸行為は、そのそれぞれの行為において、その行為に関連づけられている、イデオロギーとイデオロギー的主体のイデオロギー的関係を、あるいはその関係の持っているイデオロギーを現実化=表現しているのだと見なしうる。
イデオロギー的主体のそれらの諸行為はまた、それらの諸行為によって表現されているイデオロギー的関係、またその関係の持つイデオロギーは、そのイデオロギー的関係の内部において現実的であるがゆえに、イデオロギー的主体にとっては唯一の現実であり真の現実であると言えるのであり、なおかつそれがイデオロギー的主体にとって唯一の現実的な関係であり、真の現実的な関係であると言える。少なくともイデオロギー的主体自身はそう見なし、それにもとづいて行動する。また、そう見なしそれにもとづいて行動するイデオロギー的主体自身は、「それ以外のイデオロギー」にもとづいて行動することはもはやないし、もはやできない。「唯一」であり「真の」ということはそういうことなのである。
イデオロギー的関係がその内部において物質化され、なおかつ固定化され、その内部において諸個人すなわちイデオロギー的主体に、イデオロギー的関係の「価値観や世界観が注入される」のは、あくまでもその「イデオロギー的関係の内部」においてである。
それはそれとして、なぜアルチュセールは、イデオロギー的関係を物質化・固定化し、その価値観・世界観をイデオロギー的主体に注入する機能を果たすイデオロギー装置を、何よりもまず「国家のイデオロギー装置」として見出すのか?
イデオロギー装置は、どのようなイデオロギーもそれを現実化する機能として持っているものだと言える。
言い換えると、たとえば「学校装置」は「教育のイデオロギーを現実化する機能を持っている装置」であり、同様に「宗教装置」は「信仰のイデオロギーを現実化する装置」であると言える。それは一見「それ自体として機能する」装置であるようにも思える。であるのになぜ、それらの装置は「国家のイデオロギー装置」なのか?
国家は、領域的に言えばもっとも広範囲に、しかも具体的なものとして見ればそれが限界ギリギリの範囲において、人々の諸関係を互いに関連づけて体系化し、調整し、統制することが、現実的に可能な社会機構である。言い換えると、国家はその内部において見れば、それ自体として機能する社会機構として、それが具体的に機能する、あるいは現実的に機能するものとして、もっとも大きな領域を持ち、なおかつその領域の大きさとしてはそれを限界とする、社会的構成体として存在するのだと考えられる。
社会集団として人々の具体的な関係を作り上げ運用しているものは、国家以外にももちろん存在している。しかし、領域的に言えば国家は、それらの個別の社会集団を超える範囲で、それらの個別の社会集団によるものと同様の、なおかつそれらの社会集団の持つ個別的な関係の機能を一つに兼ね備えた、具体的で現実的な人々の関係を一手に作り上げ、運用していくことができる。
逆に、領域的に国家を超える範囲での人々の関係は、むしろそのほとんどが具体性と現実性を欠いていると言える。たとえば「世界」という領域での関係性は、領域的に見るとそれに具体性と現実性を持たせ得ない範囲にまで広がっていると言うことができる。
ゆえに領域性と具体性と機能性を兼ね備えた、人々の社会的関係を体系化し調整し統制する社会機構としては、国家の持つそれが限度いっぱいであるだろうと考えることができる。逆に言えば、そのような機能を兼ね備えることができるのであれば、たとえ「国家以外の社会機構」であっても、機能的には「国家として機能する」ものだと言える。してみれば「世界」もまたそのように機能しうるのであれば、それはすなわち「国家として機能している」と言うことができるような社会機構として成立しうるのだということである。
領域的に言えばもっとも広範囲に、しかも具体的なものとして見ればそれが限界ギリギリの範囲において、人々の諸関係を互いに関連づけて体系化し調整し統制することが現実的に可能な社会機構である「国家」の中で、その人々の諸関係を互いに関連づけて体系化し調整し統制する「イデオロギー諸装置」は、結局のところ「最終審級的には、国家のイデオロギーを現実化していることになる」わけである。
これはけっして、国家あるいは国家のイデオロギーに「従順」である者だけに当てはまるのではない。一見して「自分は国家が推奨するイデオロギーに反対しているのだ」と考えている者でも、実はそのように「反対すること」によって、むしろその反対する当のイデオロギーを現実化してしまっていることにもなるのである。
たとえば、「今の教育は子どもたちの成長やその将来に有益ではないから改革すべきである」と主張するのだとする。そのときその主張=イデオロギーは、その当の改革すべき対象としての教育のイデオロギーに依存することによって成立しているのであり、その教育のイデオロギーは言うまでもなく、国家のイデオロギーにその存立の条件を依存している。結果としてその改革の主張=イデオロギーは、国家のイデオロギーにその存立の条件を依存しながらそれに対立する主張をしていることになるのである。
少数者のイデオロギーもまた同様である。少数者のイデオロギーは多数者のイデオロギーにその存立の条件を依存し、多数者のイデオロギーはその「対立」の構造そのものに対して「支配的」なイデオロギーに依存し、その支配の中で「多数」なのである。彼らが「多数」であるということは、その支配的なイデオロギーの現実化であり、逆に少数者が少数であるということもまたそうなのである。
このように、国家の「その内部で機能している」イデオロギー諸装置は、結局のところ「最終審級的には、国家のイデオロギー装置として見出しうる」ということになるのである。
(つづく)
◎引用・参照
(※1)アルチュセール「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」
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