次男ふたり ~弁当の話~
紺堂 カヤ
第1話
春の日差しと、熱い手のひらを太一は思い出した。
白くひらひらと揺れる薄布が、まるでモンシロチョウみたいだったからだろう。
何歳ごろのことだったのか、虫取り網を持って兄と、と目の前の光景が揺らいだ。
「おおっと!」
考えるよりも先に、太一の体は動いていた。とっさにつかんだ腕の細さに驚いたと思ったら。
バリッ、と、嫌な音がした。
※ ※ ※
「白い三角巾がモンシロチョウのように見えた、というところまでは実に文学的だったが」
開いているのか閉じているのかイマイチわからない細い目を太一に向けて、まどかは硬質な声を出した。
「階段から落ちそうだった女性を助けた拍子に、ジーパンの尻が破れた、とはな……。一気に吉本新喜劇じゃないか」
「笑いごとじゃないんだぞ、めちゃめちゃ恥ずかしかったんだぞ!」
「僕は笑ってないが?」
「うん、まあそうなんだけど」
太一は大柄な体を折りたたむようにして、「はしもと古書店」の店内の古びた椅子に座った。椅子、と読んではいるが、実際はただの木箱を椅子として使っているだけなのだが。
「で、どうしたんだ」
まどかが、太一の斜向かいに腰を下ろしながら麦茶を差し出した。まどかが腰を下ろしたのは、ちゃんとした椅子だ。
「偶然通りかかった先輩が持ってたジャージを貸してくれた。初対面だったのに親切な人でさ、助かったよ」
「へえ。大学というところも捨てたものではなかったんだな」
「お前は大学にどんな印象を持っているんだ」
まどかという男は、必要以上に感じの悪い発言をする癖があると、太一は思っていた。本人自ら「中二病だよ」と言って笑っていたことがあるから、おそらくわざとなんだろう。
「そう悪いところじゃないよ、施設はキレイだし、教授も変わり者は多いけど授業は面白い。俺なんかより、よっぽどお前の方が行くべきだったと思うぞ」
太一のセリフに、まどかは黙って肩をそびやかし、麦茶を飲んだ。
橋本まどか。太一と同じ十八歳で、二か月前、高校を卒業したばかりだ。成績優秀で、最高学府も狙えたほどだというのに、進学せず、家業である古書店を手伝っている。
「大学は、タダじゃない。まあ、もちろん高校もそうだったが。高校まで行かせてくれたリツさんには、感謝しているよ」
「……まあ、それを言われると……。ところで、そのリツさんは? いないの?」
「旅行。京都に二泊三日。婦人会のご友人とだとさ」
まどかは橋本家の養子だ。養母である橋本律は、母と呼ぶには随分、歳を召している。
「人生を楽しんでるなあ、リツさんは」
「なんだ、お前は楽しくないのか」
「そういうわけじゃ、ないけど」
太一は曖昧に笑った。
「なんだ、早々に兄さんのことがバレたか?」
「まだだよ。やめろよ、今から頭が痛いのに」
太一……、薗城太一の名前は、ここらでは有名だ。正確には、太一の兄である薗城健治の名前の方が有名なのだが。剛腕バッター・薗城。太一の兄、薗城健治は、プロ野球選手なのである。プロになったのは三年前で、ちょうど、太一が高校に入学する年だった。おかげで、高校三年間は誰も彼も兄の話ばかりをもちかけてきて閉口したのである。
「お前の方こそどうなんだ、実家の方とは」
「実家とはずっと連絡を取ってない。……兄さんとは、ときどき電話をするけどね。兄さんも、実家には近寄らないようにしているらしいから」
「そうか」
まどかにも、兄がいる。まどかが橋本家へ養子に出された理由は、この兄にあるらしい。だが、まどかとその兄の仲は良好らしく、こまめに連絡も取っているという話だった。それならいいか、と、太一はあえてそれ以上を尋ねないようにしている。
「学生じゃなくても大学の施設には出入りできるし、お前も一度来てみろよ。図書館、広いぞ。あと、学食も安いし美味い。まあ、俺はほとんど弁当だけど……、って、あれ、弁当箱がない」
太一が日々持ち歩いている帆布製のシンプルなトートバッグは、いつもよりぺたん、としていた。
「落とした、のかな」
「ジーパンの尻破いたときに」
「そう、たぶん。って、その言い方やめろよ」
顔をしかめながら立ち上がって、太一は空のグラスをまどかに渡した。
「明日、学生課に寄って訊いてみるさ」
「……太一、その弁当箱、空っぽだったんだよな?」
「え、うん。食ったあとだったからな」
「……じゃ、その弁当箱、たぶん、中身が詰まった状態でお前のところに返って来るぞ」
「は?」
突然何を言い出すのかと、太一が怪訝そうにまどかを見た。まどかは細い目をそのままに、それ以上は語らなかった。その、代わりに。
「俺の言う通りになったら、不朽園の最中、買ってこいよ」
「はあ?」
空のグラスを受け取って、まどかは店の奥の居住スペースへ入って行ってしまった。太一はぽかんと見送って、首を傾げつつ、のしのしと、はしもと古書店を出た。
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