第19話 天高き七地


 途中で一泊挟みながら、三人は河岸の山道をさかのぼった。


 村にいた桃花の魂は、気が付くといなくなっていた。肉親の墓を探す暇もなかったが、今の虎昴には、死者よりも生者の方が大切だった。すべてが収まったその後に、再びやってこようと心に決めて村を後にした。

 小藍とは上流の村で別れ、二人は休むことなく山頂を目指した。実のところ、チェダはどうやら左の肋骨が折れてしまっていたようなのだが、本人が大丈夫だと言い切ったのだ。しかしさすがに無理はさせられず、上り道というのを理由に、速度を落として進んだ。


 そういうわけで下りの倍の時間はかかったが、山を下りてから六日目の昼頃、虎昴たちは、サククニャ村まで戻ってきた。


「村に着いたら、ちゃんと休んでくださいよ」

「彼女の無事を確かめたら、すぐにでも休むさ」


 その言葉の通り、アユ家で眠り続けていたミイルの様子を確かめた後、チェダはそのまま、客間の寝床で寝込むことになった。骨折だけでなく、そこからの無理が祟って熱まで出していたらしい。その看病をアーイに任せ、ラゴ・ピモは、居間で虎昴と向き合った。


「……それで、どうなったんだ?」


 その声は、娘の目が覚めないまま二人が戻ってきたことに、落胆しているようだった。それを申し訳なく思いながらも、虎昴は故郷の村であったことを子細に語り、そして、亡き妹から手渡された龍の宝玉を取り出して見せた。


「本当にこれが、その龍神の宝なのか……?」

「おれは妹を信じます。それに、自分の目で見たものも」


 きっぱりと言い切った虎昴を、ラゴ・ピモは不思議なものでも目にしたように見返す。何かを口にしようとして、やはりやめて首を振った。そして尋ねる。


「相手の龍神の居所は、わかっているのか?」

「いえ。でも、見つけ出します」


 虎昴には、そのあてがあった。――精霊が恐れる神の居場所なら、同じ神に聞けばいいのだ。


(あの山羊神なら、きっと知っている……)


 初めて遭遇した虎昴の呪いを、龍のものと見破った神だ。それに思い返せば、出会う前からそのにおいに気付いていたようなことを言っていたのではなかったか。


 事情を話したラゴに生贄用の鶏をもらい、野へと取って返した虎昴はすぐそばの丘で精霊を呼んだ。歌を歌い、生贄を絞める。


「〝大昔、上界の勒俄ネウォは太陽と月を中心とする儀礼だった。一方、下界の勒俄の中心は、雲、神と鬼、雲雀、虎、雄鶏、山と谷、水、蜜蜂、魚、錦鶏、竹鶏、猿、暴風だった。……〟」


 崖の精霊スリ。川の精霊ムジ。杉林の精霊ルト。野原の精霊ツピ。時には三日三晩呼んでも応えない彼らだが、この時には、すぐにやって来たのがわかった。

 案の定、龍女の居場所は言わない彼らも、野を渡る山羊神の道は教えてくれた。

 その道行と自分の位置、そして風の強さを確かめてから、交点となる場所へ向かう。もしもこれでだめなら、次はこの龍玉を使うより他にない。そんなことをすれば、確実にあの龍女の怒りを買うだろうから、できれば避けたいところなのだが。


 ――はたして、山羊神はそこに現れた。

 東から連なる峰々を撫で、山肌に音もなく吹きつけた雲とともにやって来た。

 その目を見てしまわないよう、俯いた虎昴のすぐ前で、山羊神は足を止めるやこう言った。


『うまそうなにおいがする』


 あまりに唐突なことに「え?」と顔を上げそうになり、中途半端に視線が止まる。滑らかな美しい鎖骨を見たまま固まる虎昴に、相手は機嫌よく顔を近づけた。


『鱗の子。お前、何を持っている?』

「……地の底の龍に託された、宝玉です」

『鱗尾の宝か。よいな。それを渡すなら、お前が求める答えをやろう』

「っ――」


 息が、止まった。

 それは、考えていなかった。何かの対価を求められるだろうとは思っていたが、それが龍玉である可能性は、なぜだか微塵も浮かばなかった。――どんな願いをも叶える力の源だ。神ですら欲するものであると、少し考えればわかったはずなのに。


 だが、その答えはもう、決まっている。


「……これを、差し上げることはできません。おれが知りたいのは、この宝玉を返すべき相手の居場所なのです」


 どれほど言い方に迷っても、言うべきことは変わらない。

 虎昴がこの宝玉を手渡す相手は、あの龍女でなくてはならなかった。


 すう、と間近で息を吸う音に、背筋がざわつく。山羊神の囁き声は、しかし、面白がるような響きを持っていた。


『それでは引き換えにもならない。お前の知りたいものは、問うまでもない場所にある』

「…………え?」


 今度こそ、顔を上げてしまった。

 幸いにして、眼前の神の目を直視することはなかった。清らかな娘の顔をした山羊神の目は、虎昴の背後へと向けられていた。まさかと思い、振り返る。

 そこに、見るも艶やかな美女が立っていた。結い上げた黒髪を簪で飾り、美しい絹の着物をまとい、長い裳裾からは鱗のついた尾が見えている。その紅い花びらのような唇を開いて出されたのは、しかし、犬歯を剥いての唸り声だった。


『生きて戻ったか、貴様……』


 怒りと嫌悪と侮蔑が混ざったような表情で、それは確かに、あの龍女の口調だった。この山野においては異質な、まさに仙女のような様相の龍女は、噛みつかん勢いでまくし立てた。


『それは、我に首を掻き切られるためか? それとも、我の首を掻き切るつもりでか? あの方はまだ戻らない。お前は何も成し遂げていない。それなのになぜ、ここにいる?』

「――まだ、戻っていない?」


 虎昴は驚いた。しかし同時に、納得もしていた。


 龍は桃花に、桃花は虎昴に言ったのだ。

 宝玉を渡して――『連れて帰って』と。


 だから。


「あなたに、これを」


 差し出した七色の宝玉に、龍女は目を見開いた。


『これは――』


 思わずといった様子で伸べた指先が触れた瞬間、宝玉が光を放って形を変える。


 瞬きの後、そこに立っていたのは、一人の偉丈夫だった。剣を佩き、鱗状の鎧を着込んだ、高貴な佇まいの男だ。その上衣の裾から見えるのは、やはり、鱗のついた長い尾だった。

 それがあの龍神だとわかったのは、その身が、青白い玉虫に透き通っていたからだ。


『……ああ』


 吐息を洩らした花の唇に、身を寄せた男はそっと口付ける。

 永遠でもあるその一瞬の後、男は、妻へと囁いた。


『すまぬ。――先に逝く』


 それを刹那に、龍神の姿は風に解けた。青く輝く美しい残滓だけを、妻のそばに置いて。

 龍女は、天を仰いで瞑目した。その頬を伝うものがあったようにも思えたが、そうと見るより先に、強い風が吹きつけた。光の粒はそれに巻き上げられるように溶け消えて、気付いた時には、龍女は凪いだ眼差しをこちらに向けていた。


『……礼は言わぬ。だが、約束は果たそう』


 龍女が手のひらを反すと、そこに透明な球が現れた。硬質に艶めくその中には、仄かに輝く一輪の花。漏斗状の小さな花を三つつけた、この山頂に春を知らせる白い花。

 ――ミイルの、花。


『これを、あの娘の元へと戻すといい。それで、すべて元に戻るだろう』

「ありがとう、ございます」


 受け取った球体は、ひやりと脆い感触がする。間違っても割ってしまわないようにと慎重に扱う虎昴へと、龍女は「ただし」と忠告した。


『それを成すまで、お前は決して振り向いてはならない。娘へ戻るまで、この花の縁はこちらにある。その縁を断ちたいと願うなら、決して振り向かずに行かねばならない』

「……わかりました」


 神妙に頷いた虎昴へと、龍女が不意に手を伸べる。思わず球体をかばった、その手から腕、首筋、頬に刻まれた龍鱗を指先で撫で、最後に、あろうことか額に口付けた。

 動転して肝を冷やす少年に、表情薄く、女神は告げる。


『我はもう、望むものを手に入れた。これ以上、いらぬものを寄越すなよ』





 ふと気がつけば、辺りは宵闇に包まれていた。山羊神の雲も抜け、星々が輝く東の空には、まどろむような月が昇っている。


 山上の夜はやはり寒く、チャルワを忘れなかった自分を心底ありがたく思う。

 月明かりは薄く、松明もない道行を、虎昴はタオホアの先導で戻った。空と地上とでは状況がずいぶん違ったが、崖や沢などがあると、その上でくるりと回って教えてくれる。虎昴自身、記憶にある限りの難所を、記憶にある限りの方法で越えていった。

 夜には悪鬼精霊が遊ぶ。邪魔するものが現れるのではないかと辺りの警戒も頼んだが、魂の鷹は、間を置かずに『だいじょうぶ』と断言した。理由を尋ねると、さらりと一言。


『にぃに、りゅうのにおいがするから』


 言われて、最後の無機質な接吻の意味に気付いた――におい付けだったのだ。あれは。


(道中の加護……と考えても、いいんだろうか)


 怒れる様相も見ているせいかどうにも落ち着かず、信じられない気もしたが、悪鬼や精霊の悪戯を遠ざけてくれているのは事実らしい。ならば、ありがたく受け取ることにする。


 やがて月が高くなり、吐く息も白く凍る頃。

 何事もなく、虎昴はサククニャ村に帰り着いた。


 村は寝静まっていた。不思議なことに、牆壁の門に詰めているはずの若衆たちの姿もない。それなのになぜか開いているくぐり戸を、虎昴は迷う間もなく通り抜け、一目散にアユ家へと向かった。

 アユ家の戸口もまた、鍵がかかっていなかった。いつもは軋む木戸も、今夜は布でできているかのように音もなく開く。不思議なことだとも思ったが、今は、それにかかずらっている時ではない。虎昴も足音を立てないように、木戸をくぐった。

 奥の囲炉裏には火が起こっていた。ちらちらと揺れるその傍らには、蹲るように座り込んだラゴ・ピモの姿がある。そして、その隣には。


「……タイ・ピモ……」


 早朝に出る靄をまとったような姿で、もういないはずの彼がそこにいた。

 透明な笑みを虎昴に見せたタイは、炉端でうたた寝する弟の肩を、慈しむように軽く叩いた。

 はっと覚醒したラゴが顔を上げると同時に、タイの魂は消えてしまう。それを見ることのなかったラゴは、ただいつの間にかそこに佇んでいる少年を見つけ、ひどく驚いた様子だった。


「いったい、いつ…………いや、それより」


 虎昴は頷き、大切に持ち帰った球体を両手で捧げてみせた。


「これを、彼女に」


 球体の中の輝く花を見て、ラゴは静かに息を呑んだ。わずかに後ずさりさえする。その瞳に映る色がわかるほどの明かりはないが、虎昴がそれを差し出すと、彼は受け取ることなく首を振った。そして、決して声を洩らさぬまま、奥の部屋へと虎昴を招いた。

 その部屋には明かりがなかった。天井近くにある小窓から、薄い月明かりだけが降っている。その銀粉のような光の中に、ミイルは静かに眠っていた。


「ミイル……」


 虎昴は寝台のそばに膝をつき、その寝顔を間近に見た。昼間にも訪れてはいたが、それでも今、確かに続いている彼女の命を前にして、崩れ落ちてしまいそうなほど安堵する。


(いや、違う。まだだ)


 まだそれには早すぎる。息を整え、虎昴は眠る彼女の手を取った。

 その手を慎重に開かせ、そしてそこに、花を抱いた球体を、そっと握らせる。月の清らかな銀粉を浴びて、魂の花は一層、輝きを増す。


 ――瞬間、球体が音もなく弾け消えた。


 そこから零れ落ちた小さな花も、ミイルに触れるや溶け消える。そして彼女自身から、ふわりと、月光より柔らかな光が溢れ返った。

 驚きの中にその手を握り締め、どうか、と虎昴は強く祈った。


(どうか、目を覚ましてくれ。ミイル――)


 光は、やがて収まった。後に残ったのは、しかし変わらず眠り続けるミイルの姿で、虎昴は一瞬、目の前が現実以上の闇に閉ざされたようになった。

 その、矢先だった。


「――――……」


 ずっと規則的であったミイルの呼吸が、不意に深くなる。

 胸を膨らませた息が吐き出されるその瞬間、まどろみから覚めるように彼女の瞼が震え――そして、開いた。

 その目の焦点が、握られた自身の片手を伝い、虎昴に定まる。


「……フーマオ」


 柔らかな唇が、そっと囁く。

 そして、天地の間に咲くどんな花より美しく、彼女は再び微笑んだ。







 ――鳥の目が飛ぶ。


 夜明け前の凍る風を、決して凍らぬ翼に受けて、あらゆるものを越えて飛ぶ。

 獣がまどろむ野の穴を。

 人々が安らぐ里の家を。

 一人の娘が目覚めた屋根を。

 山羊神の雲がゆく尾根を。

 精霊が満ちる山々を。

 龍が眠る大河を越えて、飛んでいく。


 鳥の目が飛ぶ。

 峰々の稜線が黄金に染まり、藤と牡丹の衣をまとった太陽が昇る。


 天高き七地に、新しい日がやってくる。




                              了

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