第5話 2月17日(水)23:00
僕にはわかっていた。
彼女に会う前から…たぶん、全てわかっていた。
それでも、無意識のうちにそれを自分の中から消してしまっていたのだろう。
だから僕は何も知らないふりをしなくても、自分を偽装しなくとも、偽りの2日間を生き続けることができたのだろう。
だけれど、記憶は、壊されても、粉々に砕かれても、その断片までもが完全に消滅することはなかった。
その存在は確かなモノのままだった。今日行くべき場所もわかるし、結末さえも知ってしまっている気がするが、それは真実味を帯びることなく、不自然に僕の横に横たわっている。
断片的で、不安定な記憶が僕を導いていた。
『816』
この数字を見るのはいつぶりだろうか。
子どもの数の少ない田舎の病院では、大部屋を二人で使うことになっている。あの時、杏と僕は『816』の部屋をともにしていた。薄過ぎるカーテンが1枚だけで二人を仕切っていた。
僕は、重い足どりで真夜中の『816』のベットの片割れへと向かう。カーテンがかかっていてベットの中は見えないが、月の光に照らされたカーテンには、小さな人影が写っていた。
彼女は座っていた。
マネキンのようにぴくりとも動かない姿は、無生物の香りを醸し出していた。
ふと、隣のベットの方へと視線をやると、ベットが真っ白に洗濯されたシーツを被りシワ一つ無く存在していた。
無機質に存在していた。
人が睡る場所という目的のためにだけそこに在り、それ以上を何も求めていないようであった。
もしも…仮にも、もしも何か他の目的を、意味を見出したらなら、きっとその存在が消えてしてしまうような儚さがあった。
「来てくれたんだね。」
彼女は今にも消え入りそうなか細い声で、そっと囁いた。
僕は、何も言わずに頷いた。僕の仕草は見えていないだろうけれど、彼女は続けた。
「本当はね…ここに涼ちゃんを呼んでいいのかずっと迷ってた。呼ぶべきだとはわかってたんだけれど、勇気が出なかったんだ。例えね、それがいくら正しい行動だとしてもさ……私にはね、私にとってはね、それが本当に意味のあることには思えなかったから。」
彼女の言葉が途切れた。
息の出来ないほどの無音がこの部屋を包んでいた。
だから、僕にははっきりと見えた。
カーテン越しに。
彼女の震えが、痛いほどに見えていた。
「でもね、涼ちゃん。
昨日線香花火が消えた時…辺りが真っ暗になった時…涼ちゃんがさ、私を掴めなかった時にね、私、思ったんだ。
涼ちゃんはやっぱり全部知っておくべきなんだなって。
それが涼ちゃんにとって一番大切なことなんだって。」
彼女は深呼吸をした。
生きるための空気すら存在しないようなこの部屋で、ゆっくりと息をはいて、そのまま続ける。
「だけど、涼ちゃん。
先に言わせてほしいことがあるの。
もう一度会えた時、絶対に言いたかったこと。
私ね、入院してる時、涼ちゃんに会えて本当に嬉しかった。初めての入院だったからさ、本当に心細くて…隣に同じ歳の子どもがいるって聞いて心強かった。
初めはそれだけだったし、涼ちゃんとも全然話せなかったから、やっぱり入院て面白くないって思ってた。
嫌だった。
そんな時に、そんな私に、涼ちゃんが初めて私に言った言葉…覚えてる??
私、あの言葉を言われて、ハッとした。ずっと私の奥底にあった黒くて重くて冷たい塊が、本当に言いたかったことがコロって出てきたの。
涼ちゃんは怒られちゃったけどね。
だからね、あの日以来、私は自分の親に言いたいことをきちんと言えるようになって言ったんだよ。少しづつだけど、確実に変わっていけた。今までずっと我慢してた自分の気持ちを、やっとやっと言うことが出来た。
それでね、気づいてくれなかっただろうけどさ、私はずっとずっと涼ちゃんの側にいたいって思うようになってたみたい。
自分を初めて認めてくれた涼ちゃんの側に…私、結構必死だったんだよ。どうすれば涼ちゃんの側にいれるのかばっかり毎日毎日考えて、色々頑張ってたんだよ。
完全に惹かれていたんだよ。涼ちゃんにとっては、かなり迷惑な話だったろうけど…
だからさ…涼ちゃんに初めてあった時あの時も、私が退院したあの時も、何で謝っちゃったのだろうって、ずっーと後悔してた。
謝りたいんじゃなくてさ、ごめんじゃなくて…さ、#ありがとう__・__#って、ただそれだけの言葉を何で言えなかったんだろうて。
…泣いてごめんじゃ、ほんとわけわかんないよね。」
ここまで一気に話終え、彼女は立ち上がった。
カーテンはゆっくりと引かれ、彼女の姿が露わになる。
冬の光が差し込んだ病室に浮かぶ彼女の姿は、影のように浮かび上がっていてその表情を見ることはできなかった。だけれど、その震えと笑顔は感じることができた。
「#最後に言わせてください__・__#。朝倉涼くん。
私はあなたのことを一生忘れません。
私が、あなたが、どこにいても何をしていようとも、あなたと過ごした日々は永遠に色鮮やかな記憶のままです。
本当に、ありがとう。私の側にいてくれて、私を変えてくれて、本当に本当にありがとう。ずっとずっと…」
彼女は崩れ落ちた。無音のまま崩れた。
彼女は泣いていた。
溢れ出す涙に、漏れ出す嗚咽に、彼女は震える身を任せていた。
僕は彼女を抱きかかえた。
触ることのできない彼女を、それでも必死に抱きかかえようとした。
声を掛けようとした。
自分には何もできないことなんてわかっていたけれど、身体が、気持ちが反射的にそうしていた。
彼女が泣き止むまで、立てるようになるまで、笑顔を見せてくれるまで、僕はここにいられるであろうか。
僕は自分の気持ちを、自分の言葉で伝えられるようにはなるのだろうか。
#僕は…彼女は、僕の声を聞くことができるんだろうか。__・__#
その答えはあまりにも明白過ぎた。
でも、それでも抗わずにはいられなかった。
自分の人生に抗いたかった。
ただただ、ただただ、生きたかった。
だからこそ、僕は叫んでいた。誰にも聞こえない叫び声を上げずにはいられなかった。
壁にかかった時計はもうすぐ0時を刻もうとしていた。
彼女に触れることも、話すことも許されない亡霊は、冷酷に時を刻む時計と、3日前まで自分が寝ていた空の病室と、そこに置かれた1セットの花火とを滲んだ瞳に映し、叫び続けていた。
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