007 古本屋

 甘ったるい香りが本棚の前にとどまっていた。向こうの棚の前にいる高校生が香水をつけている。高校生は一心に携帯電話をいじっていた。両足の間にかばんが置かれている。肩が薄くて、シャツが滑り落ちそうな角度だ。彼はそれで、私が入店した時からずっとそうして携帯を操作していた。


 私の見ている棚の向こうには、やはり高校生くらいの女の子が二人いるようだ。何とかというバンドの話と別の友人の話、次の日曜の予定などがサブリミナルみたいに入り混じって同時進行している。アクロバティックだ、私は心から感心する。彼女達はいともやすやすと、複数の世界を同時に見ている。


 数歩動くと、別の通路に親子連れの姿があった。早く選びなさい、と母親が言い、娘は甘ったれた、しかし気のない声で返事をする。ええー、だって、どれがいいかわからないもん。英語専攻なんだから英語関係のにすればいいでしょ。どれが英語のかわかんないもん。じゃあどうするのよ。わかんないー、おかあさん調べて決めてよ、英語のやつ。母親は自分のバッグの他に、娘の通学鞄を持っていた。娘は熊のマスコットとアクリルの真っ赤なハートがぶら下がった携帯だけを手に持っていた。


 踏み台に座って男が漫画を読んでいた。汚れた白いスニーカがたかたかと忙しなく床を打っていた。男の足元には鞄とコンビニのポリ袋がごたごたと置かれていて、鞄からは白いコードが伸びピアスだらけの耳に嵌まったイヤホンに繋がっていた。実際、この男は本棚の作る角に相当溶け込んでいたのだが、ただそのイヤホンからシャカシャカと音漏れがするので私は彼に気付いたのである。いらっしゃいませえ、と店員が叫ぶ時だけシャカシャカは押されて失せたが、すぐまた戻ってくる。


 棚の裏側に回ると、中年の女がかごに選んだ本を入れるところだった。籠にはもう何冊も入っていて、女はそれを床に置くと再び本のぎんを始めた。籠の本はおおかた生き方本とスピリチュアル本で、いま女が手に取っているのは前世療法の本だった。不安なのだろうか。幸せになりたいのだろうか。自分が可哀想なのだろうか。理由を見付けたいのだろうか。目覚めた少数の特別な私になりたいのだろうか。真実に出会った私でありたいのだろうか。女は本を棚に戻し、次に守護霊の本を手に取って、しばらページめくると籠に入れた。彼女の合否ラインがどこにあるのかだけは知りたいような気がした。


 さっきの母娘が移動している。いいの買わなくて?と母親がいている。なんかさあ、今日じゃなくても良くない?  どうせ今日読まないし。だけどあんたあんまり時間ないでしょ?  でもお、みんなまだ小論とか何って感じだし。本は先に買っておけば?  だあからあ、どれが英語っぽいのか急に選べって言われてもわかんないー。いいよ明日みいこにきくから、みいこ超本とか読んでるし留学してたもん。娘はやはり携帯しか持っておらず、母親はバッグと通学鞄を抱えている。正面から見るとこの母親がグレイのカラーコンタクトをしていたのには参った。


 香水携帯少年はようやく携帯を閉じ、ライトノベルの棚の前で立ち読みをしていた。香水のざんは先程よりも更にその浸食範囲を広げており、空調と少年の体温であたためられた甘い香りで私は胸焼けを起こしかけていた。彼が本の頁を表紙ごときつく丸めて立ち読みしているのがどうしても気になったが、それよりも香水のきついことが堪えたので私は彼から遠去かった。


 私は版の古い文庫本を四冊買って店を出た。きりりと冷えた夜気の中で買った本の一冊を開き顔に近付けると、本が長年本棚に納まっていたあかしのあの親しい匂いがはっきり分かる。頁のざらざらした感じは最近二、三十年の紙のものではない。活字のインクにむらがあるだろう匂い、頁の三方が控え目に日焼けしているかも知れない匂い、スピンの先がほどけてふわふわになっていそうな匂い、物語の匂い。

 月が足元に影を作っていた。それが見えると古本屋での様々なことは全てすいと消え失せて、本の分だけ重くなった鞄が滅法心地良く、私は今夜の珈琲を求めて歩き出した。




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