リリーとアメシスト

戸間愁

零章 紫水晶の少女

Tale1 雪と光に包まれて



 ここは、人の世界でいうところの、西洋の地である。たいそうな辺境であり、人目に付くことのない山奥だった。今日は珍しく静かだ。というのも、この山を含めたごく限られた周辺部分のみ、非常に不安定な天気をしているからである。


 雷鳴の良く響く山だった。


 今日は、そのいつもの様子からは信じられないほどの静けさをたたえ、淡い雪が灰色の空からしんしんと舞い落ちる。その山の深い、深い場所に、小さな洞窟があった。人の入った痕跡が一切見られない、穢れ無き小さな空間だった。雲の隙間から差すほのかな陽光がその空間を優しく照らしていた。


「わあ! 綺麗な洞窟ね~」

「ここで少し休みましょうか」

「長旅の疲れが吹っ飛んでいきそうね」


 金色と桃色の光を振りまく蝶たちは、楽しそうに言う。そうしてその中の一匹が、その空間に差し掛かった時のことであった。


「ねえ、見て! こんなもの、初めて見ない?」


 ひときわ神秘的な光が、彼らの触角を刺激する。


「なんて綺麗な紫水晶なんでしょう」


 世界中を飛び回り、様々なものを見てきた彼らの目にも、この世で比べるものがないほどに、美しい輝きを放つ紫水晶だった。紫水晶は、空間全体を覆い尽くすように存在していた。その中心にあった一際大きなものが、彼らの触角を奪った。生きているかのような鮮やかな光を放っている。


「ん?」


 蝶の一匹が、奇妙な感覚を捉えた。洞窟中にふわふわと舞っていた光の粒が、その大きな紫水晶のもとへ集まってきた。淡い紫色の光は一点に収束した後、徐々に膨らんで何かを形作り始めた。触れることのできそうなかたちへと変化した。


 そして、くびれができて、頭と体のようになった。頭と思われる方から、ぽわんと柔らかい物が現れた。体と思われる方からは、四肢のシルエットらしきものが見え始めた。一通りの変化を経て、集まっていた光が小さくなり消え始めた。


 光が消えたその下には、小さな女の子がいた。人間の形をしている。


 今まさに、この空間の外で舞っている雪のように、白く柔らかな肌だった。何より目を引いたのは、その髪である。まさに紫水晶そのもののような、きらきらとした輝きを持ち、ゆらゆらと優しくウェーブした髪であった。


 目を閉じて、すやすやと気持ちよさそうに、指をくわえながら眠っている。白く薄い、肌着と変わらない、白く薄いワンピースを身にまとっていた。


「む、紫水晶が、女の子になった!」

「宝石が魔力をまとい、人の形を成すことがあるっていうのは、おとぎ話じゃなかったんだ……」

「生きている間に宝石の魔法使いに会えるなんて、なんという幸運なんだろう」

「ちょ、ちょっと! 目を覚ますよ」


 眠っていた女の子は小さな手で目を擦りながら、ゆっくりと目を開き始める。紅く透き通った瞳だ。女の子は、生まれて初めて自分の目で見る世界を、きょろきょろと見回した。その視界内に蝶たちを確認するや否や、目を大きく見開いて、彼らの方へよちよちと歩みだした。


「あ、私たちのことすっごく見てるよ」

「かわいい~っ」

「こんにちは!」

「……?」


 その女の子は、初めて聞く言葉に、何とも愛くるしい様子できょとんと首を傾げた。言葉は理解できなかったが、蝶たちが彼女に興味と好感を抱いていることは感じ取ったようだ。


 そんな彼女も、金色に輝く美しい蝶たちに魅入ったようで、にゅっと手を伸ばした。そして彼らの中の一匹をぎゅっと握ろうとした。


「わっ、わわぁ、いててっ、離してぇ」


 なんと、掴んだだけでなく、口の中に入れて、もにょもにょとし始めてしまったのだ。


「うわわわ」

「だ、大丈夫っ? ほらつかまって」

「ありがとう……」


 仲間を女の子の口から助け出し、急いで洞窟の外へ出た。何とか危機を乗り越えた。しかし、危機はそう簡単には過ぎ去ってくれなかった。なんと女の子は洞窟の外へ付いてきていたのだ。ぎゅむ、と再び別の個体を掴んだ。


「わ!」

「あはは、なんか私たち、気に入られちゃったみたい?」


 逃がすまいと、小さな手にも力が入っているようだった。仲良く、とは言い難いが、楽しそうに戯れる女の子と仲間の様子を見て、蝶達の一匹が女の子に向けてこう言った。


「ねえ、あなた。私たちと一緒に来る?」


 彼女の表情は、遊んでいた際に増して、明るくなった。


「うん!」

「あら、喋れたのね!」

「しゃべ……りゅ……?」

「やっぱり……ダメ?」

「やぱ、だ……め?」


 女の子は、おぼつかない言葉遣いで、蝶たちの言葉を反芻している。


「か、可愛過ぎるっ」


「そうだ! 私たちの名前、言ってなかったわね。私たちはウィスタリアっていうの。ご覧の通り、蝶の形をした魔法使いよ」

「うぃす……たりあ?」


 首を小さくかしげながら、蝶たちの名前を呼ぶ。


「上手上手!」


 彼女の懸命な喋りを愛でた後、大切なことに気が付いた。


「この子、名前がない……よね? 名前を付けてあげない?」


 ウィスタリアたちは、この娘にぴったりの、良い名前がないか、考えを巡らせた。


「可愛い名前を付けてあげたいね」

「有名な人間から拝借してみるとか! エリザベス、マリー、ヴィクトリア、ジャンヌ…」

「紫水晶から生まれたから、パープル、クリスタル……」

「ねえねえ、『アメシスト』は?」

「紫水晶から生まれたのはもちろん、響きも綺麗でピッタリね」

「あ、ついでに私たちの名前を姓にしようよ!」

「いいねいいね!」


 ウィスタリアたちは女の子を取り囲んで、代表者の蝶が彼女に向けて言った。


「あなたの名前はアメシスト・ウィスタリア!」

「あめしすと、うぃすたりあ……!」


 アメシストはあまりの嬉しさに、自分の名前を連呼しながら、雪の上を仔うさぎの如くぴょんぴょんと飛び跳ねた。見ているウィスタリアたちも嬉しくなってくるような、喜ぶ様子だった。


「あめしすと! うぃすたりあ! あめしすと! うぃすたりあっ!」


 ウィスタリアたちも続けた。


「アメシスト! ウィスタリア! アメシスト! ウィスタリアっ!」


 アメシストとウィスタリアたちの笑い声は、枯れた冬の木立の中に、明るく響き渡った。


「可愛い服も着せてあげようよ」

「いいねっ」

「アメシスト、ちょっとそこに立っててもらっていいかな」

「うん!」


 アメシストは、ウィスタリアの指示した場所に、ぴんと背筋を伸ばして立った。


「せーのっ!」


 アメシストは桃色の光に包まれた。ウィスタリアは服を作り出す魔法を、彼女に向けて使った。光が消えた時には、彼女は生まれたままの服とは全く異なる服を身にまとっていた。


 彼女の輝く紫色に、ウィスタリアの淡い桃色を足して割ったような色の生地をベースに、フリルをたっぷりあしらった可愛らしいドレス。上品なデザインでありながら、そのスカートの丈は膝までの長さになっていた。きっと、この娘のことだから、動きやすい方がいいだろうという気遣いが反映されたものであった。


 筆舌に尽くしがたいほど、似合っていた。


「とっても似合ってる……!」

「きゃーっ! アメシストほんと可愛いーっ!」


 異常なまでの興奮により、ウィスタリアの一匹はアメシストにじゃれついた。嬉しそうにアメシストも応えた。


 奇跡的に穏やかな天候を見せ、新たな宝石の魔法使いが誕生し、人も魔法使いもほとんど立ち入ることのない深い山奥に、明るい笑い声が響いた。


 偶然に偶然が重なって生み出された、素晴らしい一日だった。




 幾つもの歳月が流れた。


 ウィスタリアたちとアメシストは楽しい旅の最中だった。アメシストは成長していた。


 紫色の輝く髪は腰のあたりまで伸び、そよ風に靡いたり、彼女が動いたときに揺れたりするたびに光を様々な方向に反射する。身長は生まれた時よりはぐんと伸びた。ただ、一人前になるにはまだまだ足りない。


 ウィスタリアとの道中において、いろいろなものに見て、聴いて、触れて、感じてきた彼女の感性は、中々に研ぎ澄まされているかもしれない。ただ、物を覚えたり、要領よく考えることは少々苦手なようで、ウィスタリアたちに頼り切りな場面の方がまだまだ多い。


 ウィスタリアたちは、彼女の成長も、まだまだ幼いところも併せて、彼女の全てを愛おしく、大切に感じていた。アメシストも、いろいろな知識を分け与えたり、優しく語り掛けたり、時にはユーモアを振りかけてくれるウィスタリアたちのことが、大好きだった。そんな彼らに、一つ気になることがあった。


「ねえ、アメシストは……魔法使いだよね?」

「そうなの?」


 あまりに気の抜けた返答に、思わずウィスタリアたちは驚いた。


「あなたは紫水晶が魔力をまとうことで生まれたんだから、『紫水晶の魔法使い』なのよ」

「あ、そうだった! 私もウィスタリアみたいに魔法を使えてるから、魔法使いだよね! お洋服を変えられるもんっ」

「でもね、私たちがあなたに教えたのは、基本的には誰でもできることが多い、簡単な魔法の一種なの」

「へえー、そうなんだー……」

「それでね、魔法使いには、その人が得意とする魔法が、少なくとも、一つはあるはずなの」

「お洋服の魔法は違うってこと?」

「その通り! 私たちの得意な魔法は、周囲から身を隠す魔法よ。それと、怪我を治してあげたりもできるのよ。それでね……あなたにも、得意な魔法が一つはあるはずなんだけど、何なのかしらね?」

「うーん、確かに、今の私はお洋服の他に魔法はできないなぁ。でも、いつか分かると思う! 私だけの、特別な魔法!」

「アメシストは、魔法の杖をまだ持っていないのかしら。もしくは、必要としないのかしら?」

「つえ?」


 アメシストは、杖が何であるのか分からなかった。


「木の棒、みたいなものと言えばいいのかしら……金属のような場合もあるし、色々ありすぎて説明は難しいかも……あ」


 少し遠くに、森の魔法使いとみられる、緑の髪をした人型の魔法使いたちが、草原を移動する姿が見えた。何人かは木の棒を携えている。人によって形が異なる。太いものから細いもの、枝分かれしているもの、していないもの、花や葉が付いているもの、多種多様だ。


「へえー、あれが魔法の杖? すごーい! 私も使えるの?」

「あの人たちのものを使うことは、ちょっと難しいけど、アメシスト自身の杖が手に入れば、使えるようになると思うわ」

「どこで私の杖を見つけられるのかな? 早く欲しいよ~」

「杖を始めとした魔法の道具は、誰かからもらったり買ったり、拾ったものを使うこともできるようだけれど……成長すると自然と自分自身に付属する物が出せるようになるって、よく聞くわね」

「ウィスタリアはないの? 杖」

「私たちは杖を使わない一族なの」

「へえ、色んな魔法使いがいるんだね。面白いなあ」


 アメシストは、魔法への興味をより深めたようだ。


「杖を持たないウィスタリアたちと一緒にいるから、杖を持たないように決まったんじゃないかな? きっとそうだよ!」

「うふふ。そうかもしれないわね。アメシストと一緒! 嬉しいわ」

「私もー!」


 パステルカラーの花畑の上で、蝶と少女が楽しそうに追いかけっこをする。彼らが動く度にふわふわと色とりどりの花びらが舞う。


 魔法についての思索も楽しいが、皆で過ごす、この時間が至福なのだ。彼らはそう考えていた。


 魔法使いの世界で生きてゆくためには、言うまでもなく、魔法の扱いに長けていた方が良い。ウィスタリアたちだって、姿を隠す魔法、怪我を治すような魔法に長けていたからこそ、事故に巻き込まれることなく、世界を翔け巡ることができている。


 アメシストがこの先、魔法を使えるように成長するならば、それは喜ばしいことだと、ウィスタリアたちは考えている。


 けれど、こんなにも愛おしいのだから、魔法が使える、使えないだなんて、関係ない。今までの旅で、そのような者たちもたくさん見てきた。今、大切な存在がここにいる、それだけで良かったのだ。


「ねえねえ! ウィスタリア! 次はどこにいくの?」

「そうね、『南の国』もいいし『北の森』も捨てがたいし、『東の湖沼地帯』も素敵なところよ!」

「わあ、全部行ってみたいなあ。そうだ、ウィスタリアたちが教えてくれたけど、私たちのいる世界ってまん丸なんだよね? だから私、この世界をぐるっとまわってみたいの! いいかな?」

「すごいわね、アメシスト」

「へ?」

「だって私たち、まさにそうすることが生きる目的なのよ」

「わあ! ウィスタリアと同じこと考えてたんだ私……! 嬉しいよぉ~」


 白く柔らかいほっぺを赤く染め、ふにゃりと笑うアメシスト。その愛らしい笑みを見て、いつものように嬉しくなるウィスタリアたちであった。




 ある日の事だ。アメシストとウィスタリア一行は、とりあえず、一番近い『北の森』目指して進むことにした。いくつもの山を乗り越えている最中だった。濃い緑、瑞々しい緑、茶色がかった緑、など数えきれない緑の葉で覆われた自然豊かな山々であった。ぬかるんだり、崩れたりすることなく、地面がしっかりとしており、歩きやすい山であった。地面の状態なぞ、空を飛んでいるウィスタリアたちにとっては関係のない事であったが、アメシストへの気を使って、そのような道を選んでいた。


 山道を歩き続ける中、アメシストが怪訝な顔をしていた。


「ねえ、ウィスタリア。なんか変なにおいがする……」

「におい……?」


 ウィスタリアは、触角を研ぎ澄ませた。


「赤いものが、見えるよ? あれかなあ? なーに?」

「炎! 山火事かしら、逃げるわよ!」


 迫りくる赤い炎は、容赦なくアメシストに襲い掛かる。ウィスタリアたちは魔力を振り搾って、アメシストを守ろうとした。


 しかし、そうできるのも時間の問題だ。炎は手加減を知らない。収まるどころか、勢いを増す。ウィスタリアの翅は熱により細胞が死に、塵となっていった。一匹、また一匹、消えてゆく。


 そして、最後の一匹が残った。彼女は魔法で壁を作り、アメシストを庇い続けた。しかし、力の限界が来た。力を失った薄い体に、もう輝きは無かった。枯れ葉のように、地に吸い寄せられた。アメシストは、涙を浮かべながらその一匹を受け止めた。


「いつまでも、あなたを守るから……ずっと一緒よ……」


 最後のウィスタリアは、自身の身体を、髪飾りに変えた。


 ――死体となる前に、身体を生体ではない物へと変化させる、魔法の一種だった。


 アメシストは、どうして炎に晒されたウィスタリアが消えていったのか、どうして最後の一人が動くのを止めてしまったのか、その意味が理解できなかった。


 その一匹を大事に手に取り、頭に飾り付けた。


 ただただ、祈ろうとした。この苦しみから、解放されたいと。


 一人残された幼いアメシストは、助けも求められずに、ひたすらに泣き叫んだ。しかし、熱と怪我により気を失った。


「ん……んん……」


 アメシストは目を覚ます。


 目をごしごしと擦る。彼女はふかふかの白いものの上で眠っていたことに気づいた。目をぱっちりと開けると、見たことのない空間が彼女の周りに広がっていた。


 大きな透明な板を通して、穏やかな朝日が彼女を暖かく照らす。その板の上の方からは、白くて薄い布が掛かっている。彼女を取り囲む空間は、木のような、石のような壁で、四方を囲んだ構造をしていた。閉鎖された場所のようだが、窮屈には感じなかった。その他にも、彼女の知らない物体がたくさん置かれていた。


 不安に思い、周りを見回していると、不意に低く落ち着いた声が彼女の耳に飛び込んできた。


「目は覚めた?」

「わっ!」

「ああ、驚かせてしまってごめんね。私はレオンハルト」

「れおんはると?」


 穏やかな外見の老紳士のようだ。


「君は?」

「アメシスト・ウィスタリア……」

「アメシストというのか。本物の紫水晶のように綺麗な髪をした、君にぴったりの素敵な名前だね」

「あり……がとう」


 アメシストは知らない人物との会話に戸惑ったが、名前を褒められたことを嬉しく思った。


「そうだ。えと、レオン……ハルト、私はどうして、ここにいるの」

「近くの山で山火事が起こっていると聞いてね、人が迷い込んでいないか心配だから、見に行ったんだ。そして、その中に君がいるのを見つけたんだ。こんな小さな子が命を失うなんて、あまりに可哀想だからね」

「熱かった……でしょ? 怖くなかった?」

「いや、そんなに恩に着ることはないよ。あんな光景を見たら、誰だって放っておけるわけ無いよ。それに、少々火傷を負っただけだから、全く大したことはないよ」

「レオンハルトは、とっても優しいんだね……」


 彼の行動に、アメシストは思わず感動した。


「アメシスト、レオンハルト、だと長くて呼びにくいだろう? レオンと呼んでくれて構わないよ」

「レオン?」


 アメシストの髪を、柔和な手つきでさらりと撫でながらそう言った。


 初めはその行為に少し緊張してしまったが、彼女はすぐに彼に対する警戒を解いてしまった。アメシストは、かなり人懐こい性質であったのも要因の一つである。


 それにまして、この男性の笑顔を見れば、彼のことを疑ったりするような人は、そうそう見つからないだろうと言っても過言ではない程の、優しい顔をしていた。


「……ねえ! レオン! ウィスタリアは……」

「ウィスタリア……か、この綺麗な蝶のことかい?」

「う、うん。でも、もうあの時に……みんな」


 アメシストはその名を聞き、ウィスタリアたちとの思い出を頭の中に廻らした。もうこの世界で彼らと触れ合うことは不可能である。残酷な炎の中で苦しみながら灰となって散っていった彼らのことを思うと、勝手に瞼の裏が熱くなってきた。


「私は、どうすればいいの? どこへ行けばいいの……? ウィスタリアが……いなくなっちゃって、分からないよ……っ」


 彼女の紅い瞳から、大粒の涙が溢れ出し、彼女の白い頬を伝う。目の周りが赤くなっている。


「可哀想に、さぞ悲しかっただろうね」


 レオンは深い同情の念を浮かべ、俯くアメシストの顔をじっと見つめた。


「なら、アメシスト。私の所に来ないかい?」

「どういうこと?」

「行く当てがないなら、私の家族にならないかということだよ」

「かぞ……く?」

「君が生活するのに必要な、食べ物、服、部屋は出してあげられる。何より、私は、君と暮らしたら楽しいに違いない、そう思うんだ」

「……!」


 アメシストは俯いた顔を上げ、びしょ濡れになった目をめいっぱい擦り、ぱあっと明るい顔をして、レオンに抱き付いた。


「レオンのところに行くっ!」

「わっ! こんな私みたいな老人に勢いよく飛びついたら駄目だよ? 腰が逝ってしまうかもしれないからね」

「わわっ、ごめんねレオン。次からは優しくぎゅーってするね!」

「ははは、冗談だよ。子供は元気が一番だからね」

「じゃ、もう一回! ぎゅーっ!」


その二人の姿は、まるでずっと昔から一緒にいたかのようであった。




「そういえば、レオン、どうしてウィスタリアのこと知ってたの? もしかしてお友達なの?」

「それが本当だったらとっても嬉しいよ。ウィスタリアは人間の作ったおとぎ話の中に出てくる蝶なんだ。私が昔読んだ本に出てきて、よく覚えていたんだ。だから、君の綺麗な髪飾りを見て、すぐに分かったんだ」

「へえー、ウィスタリアってすごいんだ! とっても綺麗で、魔法が使えるもんね!」

「ああ。とても魅力があるよね」




 現在、レオンハルトは外出中だ。


 アメシストは彼の帰りを待ちながら、一人で遊んでいた。彼女の遊び場となった庭園には、色とりどりの可愛らしい花々が、美しく咲き乱れていた。


 アメシストは、ウィスタリアたちに教えてもらった、花の冠を作っていた。桃色、橙色、白、黄色、赤のお花を摘み、違う色が交互に並んでいくようにしてカラフルな花の冠を作った。


 白い花ばかりを集め、少しだけ赤い花をアクセントとして混ぜ込んだもの、桃色、橙色、黄色、それぞれ一色だけ集めて作ったもの、輪っかの大きさを小さな腕輪ほどの物から、体に通せてしまいそうなほど大きな輪っかのものまで、彼女なりの工夫を加えて、小さな手は種々の愛らしい造形物を次々に生み出した。


 そして、彼女はそれらを花壇の煉瓦に整然と並べてみた。壮観である。しかし、何か決定的なものが欠けている。とアメシストは思った。


「レオンにはやく見せてあげたいな……」


 レオンハルトはアメシストを家に置いて、しばしばどこかに出かけていた。


 朝に家を出て、昼になる前には必ず帰ってきていた。レオンと過ごして長い時間が経ったため、慣れたと言えば、慣れている。けれど、その度にアメシストはとてつもなく寂しがっていた。


 だから、レオンハルトは帰ってくると、アメシストのことをいつも以上にめいっぱい可愛がってあげるのであった。


 しかし、今日はいやに遅い。日は大きく傾き、西の空は濃い橙色へと姿を変えた。宵の明星が顔を出している上に、白い顔の三日月も、ひょっこりと姿を現し始めている。


「レオン、今日はどうして遅いのかなぁ? もしかして、森で迷子になっちゃったのかな」


 そう言ってアメシストは紅い瞳で真っ赤な空の遥か彼方を見つめた。しばらくそうしていると、門をギイと開ける音が聞こえてきた。


 レオンハルトが帰ってきたようだ。


「レオンっ! 大丈夫?」


 急いで、アメシストが駆け寄る。


「いっぱい……ケガ……してる?」

「心配かけて済まなかったね、アメシスト」


 レオンハルトの衣服は、赤く染まっていた。妙なにおいがする。これが血だということはアメシストにも分かった。転んだりすると、ぶつかった部分から赤い液体がにじみ出す。


 そして、痛い。アメシストは調子に乗って傷を作っては、大泣きしていた。ウィスタリアたちが魔法で治してくれるのは分かっていても、耐えられるものではなかった。


 彼女は、大好きな者のあまりにも痛々しげな姿に、思わず涙ぐむ。


 ゆっくりとレオンハルトの方に歩み寄り、彼に向って両手を広げた。レオンはそれに応えて、彼女と目の高さを合わせるためにそっとかがみ、彼女を優しく抱きしめてあげた。

「レオンがいなくて、さみしかった……」

「私は大丈夫だよ。どこにも行かないから」


 しばらく抱擁を交わすと、アメシストは不安そうに言った。


「レオン、私のそばに……ずっとずっといてくれる、よね?」

「ああ。もちろんだよ」

「もう一回、ぎゅーっとしていい?」


 くすりと微笑んで、再びレオンハルトはアメシストを抱きしめてあげた。ずっとずっと。一緒にいられるように。




 レオンハルトは、外出の準備を行っていた。


「ソル」


 アメシストに接するのとはまるで違った声色で、ソルという名を呼んだ。


「はい、レオンハルト様」


 レオンハルトには、たった一人の部下がいた。部下であることには間違いないが、側近と称したほうが方がふさわしいような存在だ。


「暫く外出する。アメシストの面倒を見てやってくれ」

「かしこまりました」


 ソルは、レオンハルトの命令通り、アメシストの部屋へ向かう。妙に目立つ、悪く言えばこの建物内では浮いている、パステルカラーの扉の向こうに、アメシストがいる。


 丸い字体で名前の描かれた表札が、この涼しい石の空間の中で、不思議な雰囲気を醸し出していた。


「失礼します」


 ソルは、ゆっくりと扉を開ける。


「レオン……?」


 紫色の輝く髪を、ソルは見た。


 その頭には蝶、だろうか。桃色、黄色の美しい色調の蝶だ。それをかたどった、髪飾りが付けられている。髪飾りではなく、まるで生きているかのように精巧だ。


 ソルは、なぜだかは分からないが、無意識のうちにそれに目を引かれていたらしい。


 彼には似つかわしくない部屋であった。そこにいた小さな少女は、さまざまな色の積み木を不規則に積み上げ、遊んでいる最中であった。しかし、周囲には絵本や人形、料理の真似事をするための玩具など、多くの物が散らばっている。


「ええと、あなたはだあれ?」


 アメシストは無邪気に尋ねる。レオンハルト以外の人物と接する機会がなかったから、興味津々のようだった。


「申し遅れました、私はレオンハルト様の部下、ソルと申します。アメシスト様」


 小さな少女は、とびきり愛らしく微笑んで、彼に挨拶をした。その瞳は紅かった。紅、といっても、さまざまなものに例えられるであろう。


 ソルは、自分の瞳が紅色であると認識していたが、彼女の色とは異なると感じた。彼女の瞳は、見事に咲いた、花のような鮮やかな、それでいて上品な紅に喩えられる類のものに違いないだろう。


「はじめまして! あなた、ソルっていうお名前なのね!」


 ソルは、会釈をした。


「レオンはどうしたの?」

「レオンハルト様は外出中でございます。そのため、私がアメシスト様のお相手をするように、とのご命令がありましたので」

「え、えーと、ソルが遊んでくれるってこと?」

「そうです」

「わーい! 新しいお友達ができた!」


 ぱあっとアメシストは笑った。ソルの周りをぐるぐると駆け回りながら、ぴょんぴょんと飛び跳ねていた。初めて日の光を浴びる、元気な仔犬のようだ。


「お喜びいただいて、何よりです」

「んーと、じゃあ積み木で遊ぼ!」

「つみき、とは、如何なるもので」

「じゃあ、わたしが教えてあげる! こーやってね」


 アメシストはひょいと、ソルの手を取った。ソルの手に比べ、彼女の手は随分と小さかった。


 彼女は彼に積み木を持たせてやる前に、何かを感じたようだ。


「ソルの手、あったかいね」

「そうですか」


 彼は、機械的に答えた。


「あのね、手があったかいひとは、心もあったかいんだって!」

「……そうですか」


 『心』。自分はレオンハルト様のご命令に従うという意思があるのみだ。それが、自分にとっての『心』なのだろう、とソルは考えてみた。


「どうしたの?」

「いえ、アメシスト様は、面白い事を仰る方だと」


 ソルは、自分とは異なる考えを持つ者に対する反応として、適切だと思われる答えを返した。


「えへへ、わたし、面白い?」


 アメシストは、柔らかな頬を指でこすった。ソルに「面白い」と褒められたことに、照れ笑いをした。


「ソル、今笑ってるでしょ!」

「大変ご無礼な事を申し上げることになるかもしれませんが、私の顔を、お分かりになることはできないのでは」


 ソルは、必要最低限の所作で、自分の顔を指し示す。その顔は、固く冷たい、白い面で覆われていた。


「ああ、そうだった」

「誠に申し訳ございません」

「……いつか、ソルの笑ったお顔、見てみたいな」

「そう……ですか」

「きっと、すてきなお顔なんだろうなぁ」


 やりとりを終え、アメシストはソルに遊びを教え始めた。


 レオンハルトと遊ぶのも楽しかったが、初めて出会った彼と遊ぶことも楽しかった。ソルは、レオンハルトと違い、遊びというものを全く知らないようだった。アメシストは、生まれて初めて、自分が教える立場になっていたことに新たな喜びを見出した。


 ソルにお願いして、絵本を何冊も読んでもらった。ウィスタリアたちの高く澄んだ声とも違う、レオンハルトの低く少し枯れていて、安心感を与えてくれる声とも違う声だった。その声色は、冷たいようだけれど、嫌な気持ちを感じるものではなかった。


 西からの日差しが窓から差し込んできた。その光は暖かかった。


「アメシスト様、もうじきレオンハルト様がお帰りになられます。このあたりでお暇させていただきます」

「うん、レオンがそう言うなら……しょうがないね」

 アメシストは、ソルと別れることを、名残惜しく思っていた。

「では、失礼いたします」

「待って!」

「何でしょう。少しの間であれば」

「あのね、ソルは、ウィスタリア、レオンの次にできた、大事なお友達だからね!」

「ありがとうございます」


 ソルは、その中の一つの言葉に耳を奪われた。


「ウィスタリア」


 ぼそりと呟く。


「んー? この子だよ! ほら!」


 アメシストは髪飾りを手に取り、ソルへと差し出した。彼はかがんで膝をつき、彼女に目線を合わせた。


 そして、それを手に取った。


 この蝶は、生きてはいない。仮面によって自分の視界は狭められ、光は幾分遮られているはずなのに、きらきらと輝いている。これが、何なのか、今の彼には理解できなかった。


「どうしたの? びっくりした? ウィスタリア、綺麗でしょ!」

「はい、とても」


 無難な返答だった。会話を終え、ソルは、扉の方に戻り、主人の元へ帰ろうとした。


「ばいばい、ソル。とっても楽しかった!」

「それは何よりです。アメシスト様がご機嫌ならば、きっとレオンハルト様もお喜びになるでしょう」

「わあ、うれしい! あっ」

「どうされましたか」

「ソルは……楽しかった?」

「はい」


 短く答えた。


「そう! よかった!」

「それでは、失礼します」


 はっとアメシストは思い立ち、ソルの黒いコートの裾を掴んだ。


「うう、ごめんね、また引き留めて。あの」

「わかりました。身勝手ながら、これを最後とさせていただきますが、どうぞ何でもお申し付けください」

「次に会った時は……私のこと、アメシスト、って呼んでほしいの」


 アメシストは、顔を上げてソルを見つめた。


 紅の瞳は寂しそうに揺らめいていた。


「……承知しました」


 彼は扉を開く。


「では、再びお会いする機会があることを願っています」

「うん、また来てね! 絶対だよ!」


 彼は、手を振って見送ってくれる彼女に、軽く会釈をした。




 何度も繰り返したやりとりが、まさにちょうど行われている。屋敷の玄関で、アメシストはレオンハルトの帰りを待っていた。ソルの姿はなかった。


「おかえりレオンっ!」


 アメシストはいつものように、外出から帰ってきたレオンを、小さな体で抱きしめた。彼の暖かい感触が伝わってくる。


「ただいま。アメシスト。今日はお土産を持って帰って来たんだ」

「なーに?」

「ほら、これを紅茶にして、一緒に飲もう」


 レオンが手にしていたのは、まどろむような青い色の花を咲かせた、可愛らしい植物だった。


「綺麗なお花、いい匂い……楽しみ!」

「じゃあ、今から作るから、一緒に私の部屋へ行こうか」

「レオンのお部屋で一緒に紅茶を飲めるの? はやくいこいこ!」


 アメシストは、おやすみの時間になると、いつもレオンが歩いて行く方向に進もうとした。そこが、彼の部屋の位置する場所だと思い込んでいたからだ。


「アメシスト、私の部屋はこっちだよ」

「あっ、そうだったんだ!」


 アメシストは方向を変えて、レオンの示す方へ進んだ。



「へぇー、レオンのお部屋ってこんなふうだったのね!」


 アメシストは、レオンハルトの部屋と、自分の部屋との違いを探り始めた。


「私のお部屋のカーテンは、フリルがいっぱいついてるけど、レオンのお部屋のカーテンは、真っ白で、とってもお上品だね!」


 くしゅくしゅと、カーテンに触れながらアメシストは感想を述べる。


「私のお部屋には、おもちゃや絵本がいっぱいあるけど、レオンのお部屋にはないね……。でも、その代わりに難しそうな本がいっぱいある……! 私もいつか読めるようになるのかな? レオンに教えてもらいたいな!」

「楽しそうだね。私の部屋は遠いから、たかが屋敷の中で君の足を使わせるのは可哀想だと思っていたのだけれど……連れて来た甲斐があったね。アメシストのこんなに嬉しそうにしている姿が見られるなんて」


 レオンハルトの寝室は、アメシストの部屋とは別の棟にある。アメシストが行くには少々遠い上、レオンハルトの屋敷には部屋も階段も沢山あった為、アメシストでは迷子になってしまうかもしれない。


 うかつに部屋を教えてしまえば、確実に彼女は一人でレオンの部屋に行こうとするだろう。そして、迷子になって泣きわめくに違いない。そうなることを未然に防ぐ為に、アメシストに自分の部屋を教えていなかったと言う。


 レオンハルトが屋敷の構造の厄介さを教えようとする間に、アメシストの目は様々な物を捉えて放さなかった。


「これはレオンの使ってる机? ここにも本がいっぱいあるね! 白い紙もいっぱい……レオンもお絵描き好きなのかな? ……わぁ!」


 アメシストが一番嬉しそうに目を付けたものは。


「レオンのベッドおっきいーっ!」


 アメシストはベッドに勢い良く飛び込んだ。


「ふかふか~! いいなぁ……。レオンは大人だから、私よりもベッドは大きいに決まってるよね! 私も大きくなったらこんなベッドで寝てみたいなー……かわいくフリルやリボンもつけてあげたいな」


 アメシストは嬉々として夢を語る。レオンハルトは微笑みながらその言葉に耳を貸していた。


「……そろそろ紅茶を作るよ。アメシスト、椅子に座って待っていてくれるかな?」

「紅茶を飲みにきたんだった! あんまり楽しくて忘れちゃってたよ……。うん、待ってるね!」


 アメシストは大人しく、椅子に座った。椅子は二つあった。机は丸型で、上にはカップが二つ、数本の切り花が活けられた花瓶が一つ、机の中心に、一つだけ角砂糖の入ったガラス瓶があった。


 本当はもう少し部屋を見ていたかったけれども、そう言われたら急に紅茶も飲みたくなってきたのだ。暫くすると、レオンは高級なティーポッドで、先程の草花で淹れた紅茶を持って来た。


「お待たせ、アメシスト」


 アメシストのカップから先に、レオンハルトは慣れた手付きで、丁寧に紅茶を注いだ。


「綺麗な色……!」


 花の色と同じ、爽やかな青色が広がる、見たこともない不思議な紅茶だった。アメシストはよくレオンハルトと一緒に紅茶を飲んでいた。レオンは自分でも数え切れない程の種類の紅茶葉を持っているようだった。


 アメシストの飲んでいない種類の紅茶の方が多いだろう。それなのに、わざわざ外で摘んで来てくれたもので紅茶を作ってくれるなんて。


 始めてアメシストがレオンの部屋に来た記念だろうかと彼女は心の中で喜んだ。素直な彼女の顔には、その気持ちが余すところ無く現れている。


「そんな顔をされると、見ている私も嬉しくなってくるよ」

「えへへ。レオンと一緒にいる日はいつだって嬉しいけど、その日の中でも、今日は特別な日になりそうなんだもん!」

「そうか、なら私にとってもきっと特別な日になるね。……アメシスト、紅茶がそろそろ丁度良い温度になったんじゃないかな」

「じゃあ、いただきます」


 アメシストはゆっくりと、その紅茶をすすった。


「おいしい……! 今まで飲んだことのない味がする!」

「良かった。そのガラス瓶に入った角砂糖もいれてみたらどうかな? その紅茶にとても合う甘さなんだ」


 レオンも紅茶を飲みながら言う。


「お砂糖、一個しかないね……。すっごく欲しいけど、お部屋に連れて来てくれたお礼! このお砂糖はレオンにあげるよ!」

「ありがとう。アメシスト。遠慮なく取らせてもらうよ」


 ガラス瓶の蓋を開け、レオンハルトは最後の角砂糖をつまんだ。


「えっ」


 なんと、レオンハルトは最後の角砂糖をアメシストのカップに入れた。角砂糖は青の中にすうっと溶け、跡形も無くなった。


「アメシスト、君は私に角砂糖を『あげる』と言ったよね。ということは、この角砂糖は完全に私の物になり、私が煮るなり焼くなり好きにして良い、ということになる。どうしてもこの味をアメシストに知って欲しかった。だから、私の望み通りにさせてもらったよ」

「レオンばっかり私にいいことしてくれて。……ずるいよぉ」

「ははは、ごめんね。冷めない内に飲んでみなよ」


 彼女はぷうと柔らかいほっぺを膨らませながら、再び青い紅茶に口を付けた。


「ふぁぁ……お腹いっぱいになったら、眠くなってきちゃった。そろそろお部屋に帰るね……ありがとう、レオン」


 彼女は椅子から降り、ふらふらと歩き出す。


「アメシスト、私のベッドを気に入っていたようだから、今日は特別にここで寝ても構わないよ」

「……ありがとう。……おやすみ、レオン」


 急な眠気に、おぼつかない足取りで、アメシストはベッドへ向かう。


「ああ、おやすみ。アメシスト」


 レオンに従い、彼のベッドでアメシストは深い眠りについた。レオンはその安らかな寝顔を見つめた。その頬をゆっくりと撫でた。


「本当に、馬鹿な小娘だな」




 アメシストは、目を覚ました。


 起き上がろうとすると身動きが取れない。


 暗い部屋。冷たい台の上。鎖に繋がれているようだ。彼女には、状況が飲めない。


 突如鎖に激しい電光が走り、激痛が彼女を襲った。まるで生気を奪われるような感覚だ。彼女の悲痛な叫び声は部屋全体に反響した。その声は閉じ込められていた。


 彼女はレオンハルトに助けを求める。しかし反応はない。彼の名を呼び続けると、ゆっくりと彼女の前に現れた。


「助けて! 助けてっ! レオン!」


 レオンハルトは、苦しむ彼女の姿を冷ややかな眼差しで見つめる。


「なんで……助けて……くれないの……?」


 彼は、彼女の言葉に耳を傾けてはいるものの、反応の兆しを見せない。


「レオン……どうし……て……」


 悲鳴を上げながら、次第に力を失っていくアメシスト。


 彼女のからは見えない場所に、彼女が生まれる元となったものと、同じような紫水晶が現れていた。


 ――そう、レオンハルトは、アメシストの力を奪おうとしていたのだ。


 魔力を奪う装置にかけ、紫水晶として再生成することで。


 この世界において、魔力は本人の精神状態によって強さが変動するものである。身体も精神も衰弱したアメシストの魔力は弱まり、紫水晶の成長は止まっていった。


 物足りなく思うレオン。


 やっとのことで、彼はアメシストに向かって言葉を投げかけた。その手には美しく輝く灰が散りばめられていた。


「どうだ? アメシスト。美しいだろう?」


 その灰を、さらさらと床に落としながら言った。どこかで見た、懐かしい光だ。


「何故ならこれは、お前が愛していたウィスタリア達の遺灰なのだからな」


 あの火事は、レオンハルトが作為的に引き起こしたものだった。つまるところ、今目の前にいる男は、敵だ。


 目を見開くアメシスト。唇を噛み締めながら、強く言い放つ。


「美しかった彼らの翅に、貴様などが触れるなッ!」


 強い怒りにより、彼女の魔力は急激に増幅した。


 レオンハルトは彼女を挑発し、彼が欲するには物足りない分を補おうとした。


 しかし、失敗に終わる事となる。膨れ上がる魔力に、装置は耐え切れなくなり、爆発する。部屋の壁は無残に砕け散った。


 怒り狂うアメシストの手には、彼女自身の魔法の杖があった。


 白く、彼女の背丈に近いくらいの長さの杖だ。先には、彼女の紫水晶が付いていた。大きな塊だった。


 この世界において、多くの魔法使い達は、自分自身の魔法の杖を持っている。その杖が現れるタイミングには、個人差がある。彼女のように、あまり魔法に関わらないで生活していると、魔法の杖が現れないことも珍しくは無かった。


 そして、固有の魔法を持つ者もいる。それが現れる時期も、まちまちであった。


 アメシストは、その二者に、今この場で同時に遭遇したのである。


 彼女の固有の魔法は、雷だった。雷鳴の鳴り響く山で生まれたため、その力を宿していたのだ。


「やはり雷の力を有していたか。それこそが、私の欲していたものだ!」


 レオンハルトは喜んでいた。アメシストと遊んでいた際の、優しい老紳士の笑顔とはかけ離れたものだった。


「そしてお前は宝石の魔法使いだ。その魔力を抜き取れば、結晶として集約される。これほどに奇跡的な存在に、またしても巡り合えるとはな」


 彼の喜びの言葉が、耳障りでならない。理解もできない。アメシストは激怒にまみれながら無作為に紫電を放ち、レオンハルトを攻撃しようとした。


 刺すような紅い眼光で、憎き男を睨み付ける。彼は彼女の攻撃をものともせず躱している。


 しかし、アメシストは魔法を放つことに慣れておらず、魔力は奪われたままなので、到底力及ばず、すぐにレオンハルトにに捕えられてしまった。


 暴れるアメシストの腕を押さえつけ、レオンは彼女の胸元に、刻印を焼き付けた。


「うぐっ、あああああああ!」


 彼女は、再び悲鳴を上げる。薄い皮膚が溶かされてゆく。刻印は、バラの花の文様だった。


 レオンが手を緩めた瞬間、アメシストは腕を振り切り、急いで逃げ出した。彼女は真っ直ぐに自分の紫水晶へと向かい、それを手に取った。


 その時、離れていたレオンは彼女に向かって手をかざした。


 強い風が起こったようだった。


 それはアメシストを強く吹き飛ばすと同時に、レオンの屋敷の壁をも破壊し吹き飛ばした。アメシストは、真っ逆さまにに落ちてゆく。


 彼女は強く地面に叩きつけられた。だが一命は取り留めた。彼女が自分の一部の紫水晶を握り締めると、すうっと体に戻っていった。


 ――この場所で過ごした事を、ほんの僅か思い返すだけでも虫唾が走る。あの男に、騙され、利用されていたのだ。


 彼女の進む道は、ただ一つしかあり得なかった。


 遠く、遠くへ行くこと。かの忌々しき男、レオンハルトから逃れる為に。


 アメシストは、あの頃の服を身にまとった。彼らがくれた、薄紫で、膝丈の、動きやすく愛らしい衣装であった。


 彼女は傷だらけの小さな足でゆっくりと歩み始めた。


 その先が、荊にまみれていることも知らずに。

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