第28話 vs ヤキモチ
グリアムの目は、完全に冴え渡っていた。
(いや、全然寝れん)
ぱちりと瞼を開き、目の前の壁を見つめる。胸の中にへばりつく得体の知れないモヤモヤが邪魔をして、一切眠る事が出来ない。いや何でだよ。めっちゃ眠いんだけど。
(くそ……早く寝たいのに……)
謎のモヤモヤに苛立ちながら、彼は再び目を閉じた。しかし、瞼を閉じれば黒い
む、とグリアムは口元をへの字に曲げ、再びその目を開いた。
(……アイツ、誰なんだよ……。ウルとどういう関係だ?)
ウルに対して「可愛い」としきりに繰り返していた男──アンデルムの言葉を思い出し、更に苛立ちが募る。ふん! とグリアムは不服げに鼻を鳴らした。
何が可愛いだ、よく簡単にそんな事言えるよな。ウルの外見しか見てないからそう言えるんだ。あの女はなあ、見た目は可愛くても中身はヘドロなんだぞ! あーあ、趣味悪い。
そう自身に言い聞かせて鬱憤を晴らそうとするが、謎のモヤで
ちらりとさりげなく背後に視線を向けてみれば、相変わらずウルはベッドの端で彼に背を向けて眠っていた。近いようで遠いその距離感にも、グリアムの苛立ちは増して行く。
(……何だよ、いつも俺にくっ付いて寝てた癖に)
背を向け合う二人の間に出来た隙間は、測ってしまえばおそらくほんの数十センチ程度。ただそれだけの、手を伸ばせば届く、僅かな距離だ。
けれどその距離がどうにも遠くて、心底もどかしい。
「……」
グリアムは眉根を寄せ、ぐっと奥歯を噛み締める。そして、彼はとうとう口を開いた。
「……ウル……」
「……」
「……起きてるか……?」
静寂が満ちる中、恐る恐ると問い掛ける。しかし、彼女からの返事はない。グリアムはやがて振り向き、ウルの背を見つめた。
「なあ、ウル……」
「……」
「……お前、絶対起きてるだろ」
目を細め、グリアムは声を低める。だがやはりウルは答えず、背を向けたまま狸寝入りを続けていた。
むっ、とグリアムは眉間の皺を深く刻み、彼女の長い髪を軽く引っ張る。
「無視すんな、コラ」
「……」
「ウル」
「……」
「ウ~ル~」
──ゴッ!
「ごふっ!?」
しつこく髪を引っ張ったせいか、突如彼女の強烈な肘打ちがグリアムの
くそ、コイツ……! とグリアムは更に不満を募らせ、彼女の華奢な背中を睨む。次いで彼は腕を伸ばし、ウルの背中につう、と指を走らせた。
「──きゃう!?」
不意の刺激に驚いたのか、ウルは珍しく上擦った声を上げてビクッと体を震わせる。直後、彼女は恨めしげに振り返った。
「……っ、な、何するんですか、師団長……! セクハラですよ……!」
「……」
「……、師団長?」
唐突に黙りこくってしまったグリアムに、ウルは眉を顰める。「ちょっと、どうしたんですか師団長。体調悪いんです?」と続けた彼女に対し、グリアムはまたしても苛立っていた。
──“師団長”。
普段から呼ばれ慣れているはずのその名前が──なぜだか、とてつもなく気に入らない。
「……“師団長”じゃない」
「……、は?」
「……俺、今……お前の“旦那”だろ。師団長って呼ぶなよ」
ぼそりと告げれば、ウルは僅かに目を見開いた。だが程なくして訝しげに目を細め、彼女はじとりとグリアムを凝視する。
「……何を言っているんですか突然。さっき、私に『これが師団長である俺と、補佐であるお前の差だ〜』みたいな説教垂れてたの誰だと思ってるんです」
「……それはそれ」
「はあ?」
「とにかく、今はもう旦那だろ! ……師団長って呼ばれるの、なんか嫌だ」
そう伝えれば、ウルはますます怪訝な顔で目を細めた。
グリアム自身も「俺は一体何を言っているんだ?」と一瞬困惑したが、口から勝手に飛び出す言葉達はなかなか止まらない。
「……アイツの事は名前で読んでただろ。アイツとどういう関係なんだよ、お前」
「……は? アイツって……、まさかアンデルムの事言ってます?」
「……そう。そいつ」
アンデルム、と呼び捨てにする彼女がやはり何故だか
「……あの人とは何もありません。そもそも彼は帝国側の人間です。帝国の情報が記載された資料を見る機会が多いので、名前を知っているだけです」
「……本当か?」
「他に何があるんですか」
「……元カレとか……」
不服げに言えば、ウルは今度こそ死んだ魚のような目でグリアムを見据えた。何言ってんだコイツ、とその視線が
「……師団長、ふざけるのも大概にしてください。あんなクソ野郎と私が付き合うわけないでしょ」
「……どうだか」
「喧嘩売ってるんですか」
「じゃあどんなヤツとなら付き合うんだよ」
ムキになって彼が問うと、ウルは言葉を詰まらせた。彼女は視線を泳がせ、「……そんなの、知りませんよ」と小さく答える。
その返答が腑に落ちないグリアムは更に眉を顰めたが、ウルは「もういいでしょ」と背を向けた。
「馬鹿言ってないでさっさと寝て下さい。明日の朝起きれなくても、私は責任取りませ──」
──ぐっ。
呆れたように続けたウルだったが、その言葉は最後まで辿り着かない。彼女の声を
あまりに突然の事でウルは目を見開き、思わず声を上擦らせる。
「っえ!? し、師団長!?」
「……」
「……ちょ、ちょっと……いきなり何なんですか! あんまりふざけてると本当に殺しますよ師団ちょ──」
「師団長って言うな」
鋭い声で制され、ウルは口を閉ざす。
やがて背後から抱き寄せる腕に力が篭もり、肩口に顔を埋められた彼女は更に息を呑んだ。
「……えっ? や、あの……本当に、どうしたんですか……?」
「……ウル……」
「……?」
「……最近、何で……くっ付いて来ないんだよ……」
肩口に埋められた顔をそのままに、くぐもった彼の声が耳に届く。
どこか弱々しく問われたその言葉。
ウルはきょとんと瞳を瞬いた。
「は……?」
「……最近、離れて寝るだろ」
「……」
「……俺、背中、寒いんだけど」
どうしてくれんだよ、と続く声。
ウルは黙ったまま視線を泳がせる。
しかしやがて「……前は、離れろってうるさかったくせに」と皮肉を零した彼女に、グリアムはやや押し黙った後、「……それはそれ」とお決まりの台詞を返した。
はあ、とウルは嘆息し、ゆっくりと振り返る。すると仔犬のように寂しげな瞳を向けるグリアムの顔が思ったよりも至近距離にあり、彼女はつい言葉を詰まらせて
「……っ、ち、近い! あと何勝手に私の事抱き締めてるんですか、ばか!」
「……前まではお前の方から密着して来てたくせによく言うな」
「それはそれです!」
「あ、おい、それ俺の台詞だぞ。パクんなよ」
ベッドの上で密着したまま口論を繰り返していると、不意に近くで眠っている幼女が「んむ〜……」と声を上げた。二人はビクッ! と肩を震わせ、すぐさま傍にある小さなカゴの中を覗き込む。
そこで毛布にくるまって眠る幼女は、幸いにもまだ夢の中だった。ホッと胸を撫で下ろした二人だったが──その間も、グリアムはウルの体を抱き寄せたままで。
ウルは頬を赤らめ、密着する彼の胸を押し返す。
「……っも、もう……! いい加減に離して下さいよ、ばか!」
「……いやだ」
「はあ!?」
「お前、俺が離れろって何度言っても離れなかっただろ。だから仕返しだ、ざまーみろばーか」
早口で捲し立て、ぎゅう、とグリアムはウルの体を更に強く抱き締める。「きゃ……!」と小さく声を上げた彼女は彼の腕の中で目を泳がせ、困惑するばかりだったが──ふと、密着している彼の胸でばくばくと早鐘を刻む鼓動の音が耳に届き、ウルは顔を上げた。
「……」
「……」
「……何か、大胆な事してますけど……あなた、本当はめちゃくちゃ緊張してるでしょ」
「……うるさい」
赤く染まる顔を誤魔化すように、グリアムは更にウルの肩口に顔を埋める。一瞬その顔を拝んでやろうかと策略した彼女だったが、月明かりに照らされた彼の耳や首が真っ赤に染まっているのが分かってしまい、思わずウルは「ふふっ」と笑ってしまった。
程なくして彼女もグリアムの背に片手を回し、優しく抱き締め返す。そのまま彼の背中に指を走らせれば、グリアムはビクッ! と肩を震わせた。
「……っ、お、お前な……! 背中にいきなり文字書くのやめろ! この前もやっただろ、俺の膝に乗ってきた時!」
「あなたこそ、さっき私の背中いきなり触ったでしょ」
「そ、それはそれ! ……て言うか、お前……あの時、背中に何て書いたんだよ……?」
「んー?」
尋ねれば、ウルは微笑んだまま目を閉じてグリアムの首元に頬を寄せる。暫し間を置き、「内緒」と悪戯に笑った彼女に、グリアムは口元をへの字に曲げた。
「……内緒が多い」
「女はそういう生き物です」
「へえ……」
「そんな事より、早く寝て下さい。明日、寝坊しても知りませんよ」
ウルはそっと言い聞かせ、やや上体を上げるとグリアムの耳元に唇を寄せる。微かな吐息が不意に耳にかかり、彼の心臓はどきりと跳ね上がった。
そして、彼女は告げる。
「──おやすみ、グリアムくん」
微かな声で囁いて、数秒。
グリアムは思わず硬直し、ややあってウルの碧眼と目が合うと、元より熱かったその頬が更に熱を帯びた。
耳に届くのは、早鐘を刻む己の鼓動。
まるで太陽の光が目に染みた時と同じような、眩しいとすら錯覚してしまうその感覚に、彼の胸の奥がきゅうきゅうと狭くなる。
「……おや、す、み……」
やがてようやく絞り出した声の後、目の前で細められていた碧眼はゆっくりと閉ざされた。互いに抱き合って密着したまま、再び暗い部屋の中に静寂が戻る。
彼の腕の中には、ウルの華奢な体。
もちろん彼女の豊満な胸も久しぶりに押し当てられているわけだが──彼の脳内は、そんな事も気に留めていられない程に別の感情に支配されてしまっていた。
(……え、待って……いや、あれ……? 待てよ……ウルって……、こんな顔してたっけ……?)
腕の中で目を閉じる、長らく共にいる彼女の顔をちらりと見下ろす。
長い
見慣れているはずのその顔が、なぜだかいつもと違って見えて。グリアムはつい目を奪われた。
……あれ? なんか、コイツ……、
(……可愛……)
と、そこまで考えてグリアムは即座に首を振る。イヤイヤイヤ、違う違う違う!! と
いやいやいや、ありえない。絶対に違う。
(こんなヤツが、可愛いだなんて……! そんな……、そんな事……!)
──有り得るわけがない……!
そう叫んだ心の中は、彼の意に反して既に得体の知れない謎の感情で埋め尽くされてしまっていた。脳裏に浮かぶウルの姿を必死にかき消し、グリアムは何度も己に「違う!」と言い聞かせる。
ドキドキと心拍数ばかりが加速する中、あれほど寒いと感じていた背中が確かな温もりで満たされている事に──彼は、まだ気が付かない。
〈第4章 …… 完〉
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