煉獄行き鉄道

天地創造

1話 空に敷く線路

 汽笛が聞こえる。

 車輪が大地を廻り、石炭が燃える轟きがお腹の底に響いてきた。頬杖をついていた右手から頭がずり落ちて、情けない声がもれる。

「そろそろ起きてくれんかの? もう終点なのじゃ。妾、残業はイヤなのじゃ」

 隣に立っていた人に肩を揺すられて、私はここが夢の中だと気がついた。

 空の上を、汽車が走っていた。窓の下に見えるのは、ちらほらと電灯がつき始めた街並み。行き先は星の荒野だろう。これはとてもいい夢。

「あ、こら。はよう起きるのじゃ。帰れなくなっても妾知らんからの?」

「……なんだい? 夢の中だってんなら好きにさせとくれよ」

 もう一度頬杖をついた私の前の席に、彼女は座った。昔どこかの屋敷で見た日本人形みたいな、髪の長い子供だった。

 でも、なんでだろう。彼女は袴でもハイカラな洋服でもなく、駅員さんの格好をしていた。

「妾はなよ竹。この煉獄行き鉄道の乗員じゃ。早速で悪いんじゃが、お主はあと半月で死ぬ」

 あぁ、違う。これは悪夢のようだ。なぜ幼子の口から私が死ぬなんて聞かなければいけないんだ。

 なよ竹ちゃんは席から飛び降りて、ぶかぶかの駅員帽子を被り直す。汽車の奥を見ながら。

「本来ならこういうのは車掌の仕事なんじゃが、なにぶんヤツも忙しくての。明日の晩までにはお主の元に向かわせる。さ、そろそろお主は帰らなければならん。……おそらく、妾と話したことは覚めれば忘れるが、またすぐ会える。切符は持っておるな? 忘れ物はするでないぞ」

 気がつくと、汽車は地面すれすれを滑るように走っていた。空に線路なんてあっただろうか。いくら街の西洋化が進んだからといって、幼子まで働かせるのは如何なものか。

 まあいい。どうせこの夢のこともすぐ忘れるのだから。今朝は何を食べよう。

 でも、叶うならもう一度あの景色を見たい。宵に吸い込まれるように走る車窓を眺めて、眠っていたい。なにせこの世界は、眼を開けているには灼けてしまいそうなほど眩しくなってしまったのだから。

 汽車が蒸気を吐き出した。終点ですと誰かが言う。私が覚えているのはそこまでだった。




 お天道様に誘われて、窓を開けば花の街。ハイカラ浪漫と文明開化、ユーラシアを渡ってきた電気とガスが、薪と油の代わりな都。

 この大正の世は、あふれんばかりの浪漫と少しの不満とで満ちている。

 今朝のファッションは、海老茶色の袴に彼岸花の釵。白粉と紅を引いて、馬車と自動車が入り混じる道路を走る。朝方の都は、土煙と雑踏とでもうてんてこ舞いだ。

 背広を着たおじさんとすれ違う。綺麗な着物を着た芸者の姐さんが、茶屋で団子を食べていた。そんな人混みを駆け抜け、向かうは娼館、我が職場。絢爛豪華な装飾から覗く格子と闇が、私が生きていい世界の内側だ。

「ナツ、あんたまたそんな走ってきて。あぁ、せっかくの化粧が台無しじゃないかい。ほら、早く入って直しな」

 女将に手を引かれ、連れ行かれるは障子裏。鏡台と私の仕事道具一式が、今日も丁寧に揃えられている。

 手ぬぐいで汗を拭いたら、すっかり朝取り繕った化けの皮が剥がれていた。まあそんな事しなくても、私は十分この娼館の中で一番美しいのだが。

 袴を脱ぎ捨て、薄紅色の帯を締める。もう一度白粉を塗り、紅を引いて釵を刺せば、私の名は『花扇』。陽富ナツではなく、大乱の江戸を生きた伝説の遊女の名を借りる。

 娼館の表が開くのは太陽が眠ってから。それまでは芸事の稽古と勉学に励まなきゃならない。

「今朝は随分と急いでたじゃない。寝坊でもしたの、花扇?」

 私より一つ上の朝霧が、食べ放題の茶と菓子を頬張りながら肩を抱いてきた。

「なんだか今朝は寝起きが悪くてね。変な夢でも見てた気がするよ」

 欠伸を噛み殺しながら応えると、朝霧は熱い茶を持ってきてくれた。

「どんな夢か覚えてないの?」

「そうさねぇ、なんだかとても綺麗だった気はするんだけどね。まぁ、夢なんて忘れちまった方が身のためさ」

 甘い饅頭をかじれば、余計なことは忘れられる。見たくもない夢も、明日のことも、ずっと昔のことでさえ。

 午前は三味線と読み書き。お昼ご飯を挟んで何度か茶をしばきながら、夕方までに届いた恋文の返事を書く。この店は江戸から続くだけあって、遊女の格式だとか伝統だとかが他より何倍も高い。

 夜の客取りが始まる前に、私は必ずガラスケースに飾ってある釵と着物を見る。かつての花魁が使っていた一式がそこに保存されているのだ。

「……私にゃお似合いの姿だね」

 夜に淫れ、暁に眠る。私はそれ以上を望んではいけない。生きることを、誰より祈ってはいけない。それが私の、罪なのだから。

 大金を積んではいいスーツを着た若い男が私に溺れる。二時間と少しの間に、彼らは明日への活力を養う。

 それだけで私は満足だった。生きることを望んではいけない私が、誰かの生きる理由になれているのだから。

 外はもう秋の夜長。木の葉が空寒い風に吹かれて開いた窓から入ってくる。そんなことも気にならないくらい、私は熱かった。

「また来るよ、花扇。次は昼間に連れ出してもいいかな?」

「もちろん。主様がそれを望むなら、私はついて行くさ」

 口と心が別れたのは、仕事を始めて一月もかからなかった。胸が痛まなくなったのは、二日もかからなかった。

 部屋の掃除が終わって次のお客を待っていたら、彼が現れた。いや、彼はそこで、私が来るのを待っていた。

「あんた、そこで何してるんだい? 危ないから降りとくれ」

 もう東の空が薄ぼんやりとし始めた頃、彼は娼館三階にある窓の縁に腰をかけながら、月明かりで本を読んでいた。

 今夜は十五夜、灯りがなくても夜が映える。

「ワシは煉獄行き鉄道の車掌じゃ」

 聞き覚えのあるような、ないような、どこかざらついた声。振り返った彼は夜に照らされて、秋風になびく長い外套は死神のようだった。

「なよ竹から話は聞いておるはずなんじゃが……、まあいい。いいか? ワシはお主の……」

「説明なんて野暮じゃないかい。忘れてたなんてウソさ。ほら、こっちに来とくれよ」

 七年の経験が、私の身体を動かした。こういう客を相手にするのは稀じゃない。

 私は都合のいい恋人。客が望む永遠。女学生と教員、伯爵と侍女、父と娘なんて場面もあった。今回は車掌さんと乗客ってところだ。

 薄紅色の着物を翻し、車掌さんの肩を抱くように手を這わせようとした。私の両手は空を抱いた。

「まだお主は改札を通ってないからの。ワシには触れん。少しは話を聞く気になったか?」

 私が自分の両掌を見つめる内に、彼は窓を閉めた。目の前にいる車掌さんは、煙管の見せる夢幻じゃないらしい。

 頭が痛くなってきた。車掌さんはそんな私の困惑など関係ないようで、眉間にしわを寄せたまま手帳を開く。

「陽富ナツ、お主はあと半月の間に死ぬ。ワシらはその間に、お主が天国に行くか地獄に行くかを見定めるわけじゃ」

「……いきなりそんなこと言われて、受け止められるわけないじゃないかい。半月だって? それじゃ今月の給料が出る前じゃないか。働き損だよ」

 普段ならこんな態度を客にとればゲンコツと減給を喰らうが、車掌さんはどうにも客じゃないらしい。触れないようじゃ、私も仕事のやりようがない。

「ワシのことは気にするな。お主の生活には干渉せん。それがワシらの掟じゃからの」

「……なんか証拠はないのかい? 見せられれば納得するわけじゃないけど、どうにもアンタが来ただけじゃ実感が湧かないよ」

 西洋からは文化と産業だけじゃなくて、こんな変なのまで入ってきてしまったんだろうか。死神の噂だって、こんな仕事柄聞かないわけじゃない。

 車掌さんは「それもそうじゃの」と呟くと、私が淹れた煎茶をぐいっと飲み干した。

「夜明けまでまだ半刻ほどある。お主をここから連れ出すにはいくらかかるんじゃ?」

「そうだねぇ……。だいたい三十円くらいかね。ここは東京でも一番の店だから」

「……高いのか安いのかよくわからんの」

 懐から壱円札を何枚も取り出して、車掌さんはそれをベッドの上に捨てていった。本物なんだろうね?

 表から堂々と出られるわけもなく、泣く泣く書き置きだけを残して私たちは窓から木を伝い外に出た。

 明け前の街を見るのは久しぶりだ。湿気と眠気を孕んだ空気が、指先の体温を奪ってゆく。気づいた車掌さんが外套を貸してくれた。

「こんなに静かだったんだね、この街は。ねぇアンタ、私たち一体どこに向かってるんだい?」

「人のおらん所じゃ。目立つのは嫌じゃからの」

 草履の擦れる音と、硬い革靴が土を蹴る音だけが響く。随分と歩いた頃、私たちは山に来た。

 頂上に着くと、暁の陽が世界を照らしていた。薄紅の着物が朱色に染まる。朝と夜の隙間、黄金の時間。車掌さんは改札鋏をカチカチ鳴らした。

「今回は特別に切符はタダじゃ。これをワシに差し出せ」

 胸ポケットから出した切符の行き先は空白だった。乗車地点は『陽富ナツ』。私の名だ。

 車掌さんは切符を一度私に握らせる。もう一度返したら、端に鋏で穴を開けた。瞬間、切符は弾けて消えた。

「ワシら車掌は汽車を降りる時、三つのものを持つことを許可されておる。一つは人生時刻表。一つはお主を招くための改札鋏。そして最後がこれじゃ」

 車掌さんが首に下げていた笛を取る。耳をつんざくような笛音が、暁の空に響き渡った。

 私の目の前で、空にヒビが入る。硝子を破るように虚空を引き裂いて、鉄と鉛の線路が引かれた。

 汽笛が聞こえる。空まで伸びた線路の先から、黒い塊が真っ白な息を吐きながら走って来る。甲高い車輪止めの音で、眠気が吹き飛んだ。

「乗れ、ナツ。今日は快速、お主のための特別急行じゃ」

 差し伸べられた手をとる。汽車の中はどこか古びていて、けれど見たことがない装飾品や生地が使ってあった。

「間も無く、臨時急行が発車します。ご乗車の皆様は、くれぐれもお怪我のないように。行き先は、富士山頂、富士山頂でございます」

 ぶら下がった音管から、車掌さんのざらついた声が聞こえてくる。扉が閉まると同時に、二十の車輪が廻りはじめた。

 お腹の底に轟く汽笛と、少し鼻につく焼けた石炭の匂い。ぐんぐん街が小さくなっていって、汽車は雲の中に突入した。

 一人で外を眺めていると、隣の車両から女の子が走ってきた。後ろには車掌さんもいる。

「おおっ、今日は随分とおめかししておるの。ふむふむ、やはりかわいいの。妾も化粧を覚えたら変わるのかのう?」

 あぁ、ようやく思い出した。いつか夢で見た、日本人形のような女の子だ。

「変わるわけないじゃろ、なよ竹。せいぜいが落書きされたこけしじゃ」

「なんじゃと木偶の坊! 妾より年下のくせに! おい気をつけろよナツ。こやつ、観察の言い分で風呂までついて来るぞ!」

「んなことするか、ガキが。ほんとお前は頭の中だけ年増じゃの、クソババア」

 目にも留まらぬ速さの裏拳が、車掌さんの鳩尾を抉った。悶絶する彼を椅子にして、なよ竹ちゃんは笑顔を向けてくれる。

「妾たちはお主が悔いなく残りを過ごせるように尽くすからの。何かあったらいつでも呼ぶのじゃ。お試し切符も一つ渡しておこうかの」

 それから車掌さんの代わりだと言って、なよ竹ちゃんは煉獄行き鉄道の説明をしてくれた。

「何度も悪いんじゃが、お主はあと半月の間に死ぬ。いつかは教えられぬ。妾たちはその間お主を観察し、天国へ行くか地獄へ行くかを決める。あ、でも決定するのは妾たちじゃなくて上じゃけどな。

 妾たちがいる間、お主はこの鉄道でどこへでも行ける。煉獄行き鉄道は古今東西を問わん。このクソガキに言えば切符をもらえる。料金はお主の記憶じゃ。大事な部分は消えぬと思うが、保証はない」

 地上の鳥籠にいる私たちと同じで、乗務員さんも色々大変らしい。それからなよ竹ちゃんは、汽車の呼び出し方、出先に居られるのは暁までだということを教えてくれた。それと、車掌さんはナルコと言う名前らしい。

 窓の外から朱光が射し込んだ。雲が暁に染まり、お天道様が夜明けを告げる。私たちの時間はおしまい。

 ゆっくりしてくれ。そう言い残して、車両は私一人になった。天の轍が雲を切る。静かな所で一人になるのは、とても心地が悪い。

「……私が地獄以外にいけるわけないじゃないかい……」



 目的地の富士山頂を一回りすると、煉獄行き鉄道は東京へ戻った。なよ竹ちゃんと機関士のおじいさんは、車掌と違って降りてこられないのだとか。

 再び空へ消える汽車を見送って、薄紅色を翻す。仕事終わりの点呼には間に合った。疲れ切った顔の同僚が、重たい着物を脱いで畳に転がっていた。

 早々に世間話を切り上げて、大きな赤門をくぐる。車掌さんは木の葉が舞う庭で、一人本を読んでいた。

 ちらほらと人が起き始めた東京を、車掌さんと二人並んで帰路につく。今日の予定は特に無かった。疲れたし、何より早く頭を休めたい。

「私は帰ってすぐ寝るけど、あんたはどうするんだい? 私が起きるまで隣にいてくれるのかい?」

「そうじゃの……。寝とる間を見とっても仕方ないから、散歩でもしようかの」

 娼館から五分も歩けば、ハイカラな赤レンガの建物が見えてくる。錆びた鉄のドアをくぐれば、木張りの床、西洋渡来のソファ、ガラス張りの机。華の都に住むのだから、家具くらいはいいのを揃えな、と朝霧が用意してくれたものだ。

 仕事終わりには、いつもコーヒーを飲む。車掌さんは苦手みたいで、ただでさえ仏頂な面が虫でも噛んだみたいに渋くなった。

 そこから先はよく覚えていない。ただ、いつもと同じように袴姿のままソファに倒れこんだ。

 私は今日も夢を見る。大空に昇る火柱、むせ返るような焦げ臭さ、三十四人の家族の叫び声。

 私は人を殺した。家族を殺した。死んだ後も生きている間も、私がいるべきなのは地獄なのだ。

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