オロナイン

伴美砂都

オロナイン

 化粧水を変えたら、肌が荒れてしまった。お風呂場の鏡で見ると左の頬がうっすらと赤くなっていて、そっと触れると、ぴりぴりと痛んだ。明日はメイクできないなと思ったから、部屋に戻って、恋人に電話をした。二十三時、五分。遅い時間だったけれど、まちくんはすぐ電話に出てくれた。


 「こんばんは」

 「こんばんは」

 「さむかったね、今日」

 「うん、さむかった、……あのね」

 「うん」

 「顔が、肌荒れしちゃって、」

 「うん」

 「あした、ノーメイクで行っても、いいかな、わたし」

 「うん、え」

 

 まちくんが少し、戸惑ったような声を出したのは、わたしがそう尋ねると思っていなかったのだと思う。わたしとまちくんが出会ったのは高校のときで、高校までは学校でメイクは禁止だったから、わたしはずっとノーメイクだった。まちくんが大学に、わたしが専門学校に行くようになってから、ときどきはメイクをして会ったけれど、ノーメイクのまま一緒に出掛けることも何度もあったのに。

 でもまちくんは、うん、いいよ、もちろん、大丈夫だよ、と、いつもと同じ声で言ってくれた。もしかしたら、いつもよりも、力強い声で。電話の向こうは、静かだ。まちくんの電話は、いつも静かだなと思う。


 「でも、体調とか良くない感じだったら、延期しようか?」

 「ううん、それは大丈夫、化粧水でね、ちょっと荒れちゃっただけ」

 「そう?」

 「うん、明日行こう」

 「……、うん」



 空は晴れて、空気はつめたく冷えていた。まちくんと乗り継ぎの駅で待ち合わせをして、バスターミナルから一緒にバスに乗る。初めて乗る路線バス。いつもわたしが使っている市バスは一律料金で乗るときにお金を払うけれど、このバスは後ろの扉から整理券を取って乗って、前の電光掲示板に表示される料金を降りるときに払う。掲示板の数字が変わるのをわたしがじっと見ていたからか、まちくんは隣から、二百七十円だよ、おつりは出ないから、両替するといいよ、降りるときでもできるよ、と教えてくれた。

 バスは空いている。坂道をのぼって行く。狭い道だ。つぎは市営墓地前、というアナウンスが流れて、まちくんが降車ボタンを押した。

 今日はまちくんの、亡くなったお姉さんのお墓参りに行くことになっていた。命日は家族でお参りしているけど、お姉さんの誕生日は毎年、ひとりでお参りしていたのだという。今年は、誕生日のプレゼントを選んでほしいんだ、とまちくんが言ったので、わたしも連れて行ってもらうことにした。だから、肌が荒れていても、どうしても今日来たかった。


 誕生日プレゼントは深い赤色のアイシャドーと、それに合う淡いベージュ色のリップにした。このまえまちくんとデパートの化粧品売り場に行って、選んだもの。リボンをほどいて、箱から出して、お墓のまえに供える。

 ちょっとつけてみて、とまちくんが言うので、墓石の隅にほんの少しだけつけた。お墓にはお姉さんだけじゃなくてまちくんのおじいさんやおばあさんも入っているはずだった。だからこのお墓につけちゃっていいのかなと少しだけ思ったけど、まちくんが真剣な顔をしていたから、いいかなと思って、グラデーションに仕上げてみた。冬のやわらかな陽に、お墓の一角が、きらきらっと光った。

 まちくんのお姉さんは、生前、お化粧はたぶんしたことがなかった、とまちくんは言っていた。本当はしたかったけれど、事情があってできないでいるうちに、亡くなってしまった。高校のときにそう聞いてからずっと、お姉さんにお化粧をしてあげられたらよかった、と思っていたから、それが叶って嬉しいような気もしたし、でも、やっぱり生きているあいだにできたらよかったのにと思ったら、それは、悲しい気もした。



 バスで駅まで戻って、今度は、同じ方向の電車に乗った。まちくんは今、大学の近くでひとり暮らしをしていて、そこまで帰る途中にわたしの住む街の駅を通る。駅前に去年できた大きな本屋に行く予定だった。

 まちくんのアパートには、何度か行った。小さいけど、とても居心地のいい部屋。二人とも明日、朝から学校の授業があるから、今日はそこまでは行かずに、それぞれ家に帰ることになっていた。

 夕方で、電車は混んでいる。わたしの家の最寄り駅はこのあたりでは大きな駅で、これから夜ご飯を食べに出掛けたり、電車を乗り継いで帰路に着く人たちが、そこでどっと降りるだろうと思った。わたしが両親と一緒に住んでいる家は駅から少し歩いて裏通りに入ったところにあって、それを言うと都会だね、と言われることもあるのだけれど、駅が発展するずっとまえからある、ふるい街だ。

 まちくんと並んで、扉の横のところに立っていた。まちくんはわたしの左側にいて、窓の外を見ているようだった。ふいに、身体の右側がざわっとして、少しだけそちらを見た。向こうのほうの、数人で電車に乗っていた女の子たちのうちのひとりと、目が合った。かもしれなかった。知ってる人かもしれない、と思って、でも、それをたしかめるより前に、目を逸らした。あれ、妖怪じゃない、と誰かが言った、かもしれなかった。言わなかったかもしれない。まちくんに、右側に立ってもらえばよかった、と思った。もし、そう言ったら、まちくんはきっと何も訊かずに、右側に立ってくれるだろう。けれど混み合った車内で、むりやり場所を代わってもらう余裕はないように思えた。

 さっき駅のお手洗いで見たとき、左の頬はまだ荒れたままで、赤くなって熱をもっていた。右側は、どうかわからない。痛いような気はしたけれど、見た目ではわからない。わたしの顔の右側は、荒れているとかいないとか以前に、生まれつき、ひどい内出血をしたような赤黒い痣があって消えない。

 妖怪、というのは、わたしが子どものころ、呼ばれたあだ名だ。小学校ではみんなの前で、中学校のときは、近くを通るときだけ、小さな声で。


 「送って行くね、今日、家まで」


 まちくんが一度こちらを向いて、言った。ありがとう、とわたしは言った。小さな声しか出なかった。電車の中だから、あまりはっきりした声でなくても、きっと不自然ではない。きっと、たぶん。窓の外はもう、ほとんど暮れている。


 「おうちの人に挨拶とか、した方がいいよね、すごい、ラフな格好で来ちゃったけど」

 「……」


 すぐに、返事ができなかった。わたしに恋人がいることを、両親は知らない。ふつうの家族がどうなのか知らないけれど、わたしに恋人がいるかどうかということを、父親にも、母親にも、一度も尋ねられたことはなかった。

 急にまた左目の下が、ぴっと電気が走ったように痛んだ。右側で、笑い声が上がった。かもしれない。マスクをしようかな、と思った。でも、マスクは今朝、駅まで着けて歩いたら荒れたところが擦れてもっと痛くなってしまって、駅で外して、ホームのゴミ箱に捨ててしまったんだった。

 ノーメイクで人のいるところに出たとき、痣のことを言われることはよくあった。なにあれ、も、気持ち悪い、も、あった。通りすがりに見ず知らずのおばさんに突然、かわいそうに、と言われたこともある。子どもに、こわいと泣かれたこともある。なにも言わない人のほとんどは、なにか見てはいけないものを見てしまったような顔をして、目を逸らして去って行った。

 高校は、進学校を選んだ。ときどきは言われることもあったけれど、中学までのように心無い言葉をかけられることはなくなった。専門に上がってからは、わたしは毎日メイクをして学校に通っている。明日は、学校があるんだ、と思った。けれど、明日の朝も今みたいに肌が荒れていたら、メイクをせずに学校へ行かなければいけない。

 ヘアメイクの専門学校に通うことにしたのは、わたしのような、同じような人にメイクをするような仕事に就くため、でもあった。でも、なにより、わたしはわたしの痣を消したかった。でも、それは、わたしの痣を気持ち悪がったり怖がったり、見てはいけないもののようにして目を逸らした人たちと、同じだろうか。

 まちくんが何か言ったけれど、うまく聞き取れなかった。まちくんの名前は、真知男まちおという。いつだったかわたしが、真実を知る男だね、と言ったら、少し呆れたように、でも楽しそうに笑っていた。わたしの名前は、小町という。小野小町と同じ名前だ。小野小町は美女だったというけれど、もう昔のことでもちろん写真なんかないから、本当はどんな顔だったのかは、だれも知らない。でも、きっと、たぶん、わたしのような痣はなかっただろうと思う。


 ふいに、なにか右の頬に触れた。肩がびくっと震えてしまった。まちくんが、立っていたわたしの左側から手を伸ばして、わたしの右頬を包むようにして触っていた。

 一瞬だけぴりっとした痛みがあって、あ、やっぱり右も荒れてたな、と思った。まちくんの手は大きくて、しっとりしていて、痛みはすぐ引いた。強張っていた背中が少し緩んで、わたしはそっと、目線だけでまちくんのほうを伺った。下から見上げるような格好になる。まちくんは高校卒業間際から背がぐっと伸びて、このまえ、人より遅い成長期だったがついに止まったぽい、とメールが来たので笑ったのを思い出した。

 まちくんはこちらを見ていなかった。下を向いて、耳まで真っ赤になってしまっていて、眼鏡が少し曇っていた。

 まちくんは、人まえでわたしの身体に触れるようなことは、ふだん絶対にない。ときどき手をつなぐぐらいで、たとえば肩を抱くとか、頭を触るとか、腕を組むとか、そういうこともしない。とくに、顔に触れられたのは初めてのことだった。たぶんそれは、まちくんがそういうことを好まないというのもあるけど、メイクをしているときは、メイクが崩れないように、そして、メイクをしていないときは、まちくんがわたしの頬の痣を気にしていないことを、あらわそうとしてくれているのだと思う。


 まちくんの手はわたしの頬よりずっと熱かった。どこから伝わるのか、鼓動まで感じるほど。電車が、ホームに入り、降りる人波に押されるようにしてわたしたちも外へ出た。まちくんは黙ったままわたしの頬からそっと手を離し、そして、今度はわたしの右側に、寄り添うようにして階段を降りてくれた。



 駅前のスターバックスは混んでいたけれど、窓際の席に並んで座ることができた。


 「小町さん」

 「うん」

 「今日はありがとう」

 「え」


 今、ちょうどわたしが言おうとしていたことをまちくんが言ったので、びっくりしてまちくんの顔を見た。まちくんは今度はこっちを見ていた。コーヒーの湯気で眼鏡がちょっと曇って、またすぐ戻った。


 「え?」

 「ん、ううん、うん」

 「ねえちゃん、さ、喜んでたと思う」

 「ありがとう、まちくん」

 「え、うん、……顔、痛かったのに、ごめんなあ」

 「ううん、大丈夫、……でも、あのね、やっぱりちょっと、痛いから、あのね、髪、下ろしてると、当たって痛いから、くくってくる」

 「うん」


 お手洗いで、下ろしていた髪を後ろでひとつにくくって、まちくんの隣の席に戻った。まちくんはかばんの中をがさごそとしばらく探っていた。


 「塗る?」

 「え、なに?」


 まちくんは手に、黄緑色の小さなチューブを持っていた。やっぱり、真面目な顔をしている。


 「オロナイン」

 「え」

 「顔、痛いのに、効くよ、……でも、たぶん、病院で薬、もらったほうがいいね」


 いつも持ってるの、オロナイン、と訊くと、真面目な顔のまま、うん、と頷く。一回かばんの中でチューブの後ろ、破れちゃって大惨事だった、と言うので、笑ってしまった。笑った拍子に少し、涙が出て、わたしがハンカチを取り出す前にまちくんが、さっきストローと一緒に持ってきた紙ナプキンを差し出してくれた。


 「明日、学校終わったら、皮膚科行くよ」

 「それがいいね」

 「でも、今はそれ、塗ってほしい」

 「くさいけど、いい」

 「うん、いい」

 

 まちくんは慎重な手つきで、わたしの顔にオロナインを塗ってくれた。オロナインはしみなかった。なんだか懐かしいような匂いがした。フタを閉めて、これ、あげる、とチューブを手渡される。


 「もう一個あるから、家に」

 「そうなの」

 「うん」

 「ありがとう」



 駅前のイルミネーションは十二月いっぱいまでで、一月も半ばを過ぎた今は街路樹に点々と電飾があしらわれているだけ。それでも立ち並ぶお店の灯りや駅ビルの広告のネオンでじゅうぶんに明るい夜の街を、まちくんと並んで歩いた。乾いたビル風が時折思い出したように向かいから吹く。また少し涙が出そうになって、小さく鼻をすすると、ふっとオロナインの匂いがした。

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オロナイン 伴美砂都 @misatovan

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