②
八島は覚悟を決めた。
出して楽になる覚悟ではなく、この修羅場を必ず乗り越えるという鉄の意志で門にさらに頑丈な蓋をする。
理不尽な暴力を振るい続ける東谷たちを後目に、肘掛けに手を掛けた。
八島が瞬時に組み立てた策は、両腕の筋力で緩やかに尻を座椅子部分まで運び、足から門までの緊張を緩めることなく慎重に下ろすことで、筋肉の弛緩を最小限に抑えるというものだ。
ここはトイレではない。ここはトイレではない。
尻を沈めて座るだけ。尻を沈めて座るだけ。
そう念じ、さながらヘリコプターの着陸のごとき慎重さで尻をメッシュ生地の部分に接近させる。緊張状態の維持も今のところ完璧だ。
尻がメッシュ生地に触れる。包み込まれるような感触に思わず緩みそうになる門を鉄の意志と筋力で補強する。
深々と八島の尻がリクライニングチェアに沈んだ。着陸は成功である。
東谷は変わらず家近をいたぶり続けている。
理不尽な暴力に慣れていない家近はべそをかきながら「やめてください。ごめんなさい」を繰り返している。
八島の背中に掘られている和彫りの般若も、緊張からくる脂汗で号泣している。
自慢のスーツも汗を吸い、心なし重く感じられた。
このまま続けば、話も出来なくなってしまいむしろ時間が掛かるだろう。
一旦東谷を抜きにして自分が交渉した方がもう早いかもしれないと思い始めた時、八島に電撃が走った。決して八島の下半身戦線が瓦解したわけではない。
東谷に煙草を買いに行かせればいい、そう八島は考えた。
東谷を一旦外出させ、その隙に、小休止だと称してトイレに行く。
流れとしては自然だ。
八島の愛用している缶ピースが売っていそうなタバコ屋は、このマンションから往復で二十分は掛かる。
その間に用を済ませ、家近との交渉も終えれば何の問題もない。
トイレの隙に家近が逃げ出して警察に駆け込む可能性もあるが、ここまで東谷が痛めつけ、恐怖を刻み付けている。
入り掛けに「逃げたら殺す」と脅しておけば下手なことはしないはずだ。
万が一逃げたとしても、それはそれでやりようは幾らでもあるのだ。
そうと決まれば迷っていられない。早速、八島は東谷に向かって口を開いた。
「おい、敏ぃ! その辺にしとけ!」
びくりと、家近の腹に追加の蹴りを入れる所だった東谷の体が止まり、気を付けの姿勢になる。
「へい兄貴! でも、良いんですか?」
「まだそいつはお客様だ。それ以上やったら金取る前に死んじまうよ。それより、煙草買って来い。お前が帰ってくるまでに話は付けといてやるよ」
そう言って八島はスーツの胸ポケットの財布から一万円札を取り、東谷へ渡した。
この後、煙草を一個買った東谷は釣銭を返すこと無く駄賃として懐に入れるだろう。
八島自身の面子、気前の良さを示すためとはいえ、常々無駄だと思っていた出費も、今この時ばかりは価値ある出費だと八島は思った。
むしろ財布の中の金を全て吐き出すことになっても気にならないだろう。
一万円を両手で東谷は受け取る。
その姿を見ている家近の目には暴力から解放された安堵、解放してくれた八島への僅かな感謝、そして、話を付けるという言葉に対する恐怖が複雑に混ざり合っていた。
「てんです! でも兄貴、まだ煙草入れに何本か残って――」
「うるせえんだよボケ! とっとと買って来い!」
焦りからか、やや食い気味に言う八島。兄貴分の大声に反応して、東谷の肩が跳ねる。
「てんです! いつもの缶ピースですよね⁉」
確認もそこそこに駆けだそうとする東谷。
目上の者からの依頼は迅速にという八島の教育の賜物である。
正直今の八島は可能な限りゆっくりと任務を遂行して欲しかったが、不自然になるので何も言わずに見送ろうとした。
これでようやく解放される。
後は何とか椅子から腰を持ち上げ、なるべく刺激を与えずにトイレまで迅速に向かえば一先ずは安全だ。
無限の様に感じられた我慢大会もここまでだ。
危機を切り抜けた己の閃きに八島が称賛を送ろうとしたその時である。
「あ! あの! その煙草なら僕持ってます!」
咄嗟に家近が声を上げたのである。
その手には両切りのピースが握られていた。
ついさっき八島が東谷へ頼んだ銘柄に相違なかった。
恐らく、自身の危機的状況を救い、且つ自身の処遇を握る八島に対して、少しでも媚びを売ろうとしたのだろう。
その為に自身の寿命が今まさに縮んだことも知らずに。
金も無ぇのに煙草なんか買ってんじゃねぇよボケ!
しかも生意気に両切りのピースなんて吸ってんじゃねぇ!
心の中で八島は叫んだ。
そしてそれと同時に、足から肛門にかけての警戒が緩むのを感じた。
尿意、そして便意は「もう出せる」と思ったその瞬間にこそ決壊を起こす。
決死に進行を食い止めていた腸中の破滅は、先ほどまで八島の中のイメージでは最終防衛ラインの二つ程手前に居た。
しかし、今の弛緩で一気に戦線の侵攻が進み、その一つ前に届こうとしている。
八島は必死に自身の体に「今は緊急こと態だ」と言い聞かせ、再び下半身の警戒態勢を構築した。
リクライニングチェアに座っているのに毛ほども落ち着けず、背筋はいつも以上に伸びていた。
このガキは金を取るだけじゃ終わらせねぇ。
一族郎党絞るだけ絞ってやる!
一気に八島の顔が憤怒の色に変わる。
そう思う八島をよそに、東谷は煙草を持つ家近に近づいて行った。
きっと「なんだよ気が利くじゃねぇか」と言って煙草を取り上げ、笑顔でこちらに差し出してくるだろう。
そうすれば煙草を吸いたいと言ってしまった手前、吸わざるを得ない。
喫煙で否が応でも再び弛緩の波がやってくる。
人生で一番緊張を伴った喫煙を八島が覚悟したその時、家近に悲鳴が上がった。
東谷が、再び家近の顔面に蹴りを入れたのである。
「クソガキがぁ! 調子に乗ってんじゃねぇぞ! 兄貴が手前の吸いさしなんざ吸う訳ねぇだろが! ぶっ殺すぞ!」
八島はその時、中学を出てフラフラしていた東谷を自身の舎弟として引き入れたことを心の底から良かったと思った。
馬鹿で粗暴だが使い捨ての駒には丁度いい、いずれは自身から離れて行く者だと考えていたが、ヤクザとして絶体絶命の危機を図らずとも救った第一の舎弟を、これから大事にしようと、一瞬で堅く心に誓う八島であった。
「大体手前ぇ! 金も無ぇのに煙草なんか買ってんじゃねぇよボケ! 死ね!」
今、俺の心は完全に目の前の舎弟と絆で繋がったのだと、八島はそう確信した。
八島が思うことは東谷が察し、その意思を実行する。
この極限状態において今後のヤクザ人生を生き抜いていくための最大の武器、強固な信頼関係がここに成ったのだ。
あとは先ほどと同じく八島が東谷を止め、そして煙草を買いに行かせればいい。
目の前の家近には一族郎党苦しむような地獄の追い込みを掛けよう、八島が下半身に血が行きがちな状況で頭を回転させ、取り立てプランを考え始めると、
「すみません! すみません! もう一缶買ってるんで、こっちは封も開いてない新品です! これで勘弁してください!」
そう言って蹴り転がされた家近が、テーブルの下からピースの缶を取り出したのだ。吸いさしではない、プシュッという音を立てて缶を開け、新品の煙草をそこから取り出し、東谷に差し出してくる。
数瞬前の八島であれば、このこと態に対して下半身戦線の警報を出していただろう。しかし、今の八島には全く動揺は無かった。
何故なら、今の八島には己の分身たる舎弟、東谷との信頼関係を確信していたからだ。
缶から出した新品だろうが関係ない。
既に家近が手を付けたものであれば、先ほどと変わらず東谷は吸いさしだと考えるだろう。
火に油を注ぐような家近の行為と、それによって引き起こされる東谷の更なる暴力を想像し、八島の肛門ではなく口元が緩む。
これ以上の加虐は不要だと八島が思い、「まぁ、待て敏」と穏やかに声を掛けようとする。
「なんだよ手前ぇ! それがあんなら先に出せやダボが! 兄貴、これならオッケーですよね⁉」
「光熱費も払えないくせに缶ピースなんて買ってんじゃねぇよ!」
吠える八島。豊臣秀吉の伝説にある一夜城のごとく急速に構築された東谷との信頼関係は、構築と同じく急速に瓦解した。
一瞬でも心の拠り所にしていたものを失い、意識に空白が生まれる。
それは、下半身に潜んでいた、己から生まれ出る怪物の進行を許してしまった。
「ふ! うぅん……」
思わず出てしまった大声、舎弟との偽りの信頼関係の瓦解、双方が八島の防衛ラインに亀裂を生んだ。
一気に怪物はその隙間から関所を突破し、強引に最終関門の目前まで迫る。
八島の感覚としては少しだけ開いた門から怪物の頭が覗いている。
毎朝、八島が率先して点数稼ぎのために掃除していること務所の神棚に本当に神が宿っているであれば、今自身の蠕動運動を止めてほしいと八島は思わず神に祈る。
おお、神よ、どうかこの内なる怪物を沈め給えという八島の祈りへの返答は無かった。
既に周りのことなど気になるような状態ではなかった。
先ほどから止めどなく溢れる脂汗は屈みこんだ顎先から床に滴り落ちている。
何故か便意を我慢していると出る足踏みが貧乏ゆすりとして発現していた。
「あ、兄貴! どうしたんすか⁉」
半分はお前のせいでこうなっていると、八島は思った。
「あの、もし具合が悪いようでしたら、トイレ貸しましょうか」
その一言で、先ほどまで八島の中にあった一族郎党まで巻き込んだ地獄の取り立て計画は、最悪借りた分を取り立てるものに変更された。
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