Ed

「手前ぇの汚ぇトイレで兄貴がクソなんかするかボケ」と家近に殴りかかろうとする東谷だが、八島はもう形振りを構っていられない。

「敏ぃ! も、もういい。いいから、椅子を押せ」

 そう言って、八島は俯きながらトイレの方向を指さした。

 立ち上がることすら困難な八島には、先ずはトイレにたどり着く必要がある。

 最早東谷に取り立て中に盛大にクソをしたと評判を流されても構わない。

 取り立て中に盛大にクソを漏らしたと触れ回られるよりは百億倍ましだと八島は思った。

「え⁉ 兄貴、トイレに押して行けってことですか? でもそれってどういう……」

「デモもストライキもねぇんだよ! 黙って押せ! お、俺がお前に間違ったことを言ったことがあったかよ!」

「へ、へい! すみません!」

 もう少し。ここまで来たらあと少しなのだ。問答する時間も惜しい。

 過去最大の剣幕で八島は東谷に指示を飛ばした。

 普段の八島の恐ろしさを知っている東谷は、堪らず椅子の背もたれを掴みトイレへと押し進め始める。

 次第にトイレが近づいてくる。屈

 みこみ、前もろくに見えない八島は、自身を救う楽園の気配を感じていた。

 トイレのドアからは光が漏れ、窮地に立たされた八島を歓迎しているようなイメージが内に広がる。

「兄貴、着きました」

 その声に反応し顔を上げる。

 ちょうどの前にあるドアノブに手を掛け、生まれたての小鹿のように八島は椅子から腰を浮かせた。

 頭まで見えかかっている怪物を最後の意地で押しとどめる。

 ゆっくりと、着実に、椅子から八島は立ち上がった。

 弱弱しくも確実にトイレに向かおうとするその姿を、東谷と家近はただただ見つめていた。

 東谷は無意識に、スマートフォンのカメラを起動させていた。

 そうして、八島は静かにドアを開けた。

 これで救われる。

 己から生まれ、そして己を苦しめ続けた怪物との永遠の別れの時である。

 あと履いているものを脱ぎ、便座に座り、即放出。

 そこまでにかかるアクション数と、自身に残されている下半身力の残量を確認し、ギリギリではあるが間に合うと八島は確認した。

 そして、その希望は打ち砕かれることとなる。

「う、あぁ……」

 目の前の光景に、思わずため息が漏れた。

 ついでに言うと怪物はその拍子に頭から首まで姿を現してしまった。

 八島の目の前に広がった光景は、まさに地獄絵図であった。

 電気が止まっているような生活ぶりを考えれば当然だ。

 水道が止まっているのである。

 標準的な洋式便座の中には、縁ギリギリまで汚水が溜まっていた。

 普段から掃除という概念が存在しないような手洗い内の床は、恐らくコースアウトしたであろう液体が作るカビで黒ずんでいた。

 リビング以上に湿度の高い手洗い内は、当然ながらそれらの全てが発する臭気で満ちている。

 八島がその光景を見た瞬間、ここでは用を足せないと脳が判断した。

 八島が乗り越えなければならなかった課題は、二つあった。

 一つは迅速に取り立てを終了させること。

 二つは清潔なトイレで用を足すことである。

 たった今、限界を迎えつつあった八島に二つ目の条件を乗り越えることは不可能となった。充満する臭気が八島の鼻孔に飛び込んで来る。

 吐き気に似た胃から喉にかけての反射運動。

 それは壊れかけていた下半身の戦線を壊滅させるのに十分な働きであった。

 怪物が胴体から先の姿を現す。

「ああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁ……」

 人生で上げたことが無いような、ため息と悲鳴を混ぜたような声が八島から漏れる。糞も漏れる。天を見上げ、脱力して両手は開かれていた。

 さながら、映画『ショーシャンクの空に』のパッケージ絵のようである。

 先ほどの声と相まって、その絵にタイトルを付けるとしたら『産声』であろうか。

 解き放たれた怪物の胴体から下はほぼ液状で、それは白いスーツというキャンバスに広大な大地を描き始めた。

 東谷のカメラが動画の撮影を開始する音が聞こえた。

 やがて広がりゆく大地が純白のキャンバスの縁までたどり着くと、それは裾から足先へと流れ始める。

 地崩れで発生する土砂の様に、それは床を侵食していった。

 近くにいた東谷の足元にも土砂は届いていたが、あまりの出来ことに東谷はそれを躱すことが出来なかった。

 トイレを起点として放射状に広がっていく新大陸。

 それが出来るさまを見ることも無く、情けない声を上げながら八島はただただ溜まっていたものを放出し続ける。

 しかし、それも数瞬のこと。十五秒もしない内にそれは収まり、それと同時に、カンと、軽い音が八島の足元から響いた。

 見ればそれは体内に隠していた印鑑であった。

 床に落とされた青色の宝石部分が、汚物に塗れながらもカーテンの隙間から漏れる陽光に当たってきらりと光る。

 それはさながら、八島の流した最後の涙のようであった。


 この日を境に、関東に新たな暴力団が誕生した。

 笹川会の流れを汲みながらも、中国華僑との闇取引を資金源に急速にその勢力を伸ばしていった組織は、やがて笹川会から独立。その名前は八島会といった。

 組織の者は全員例外なく黒のスーツを着用し、情報漏洩防止のために一切のSNS禁じられていた。

 歴史の闇の中で度々浮上するその組織のボスの名前は八島剣吾。

 とある七月の蒸し暑い日に産声を上げたその怪物の横には、常に家近という側近が控えていたという――。

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神様に祈る瞬間 字書きHEAVEN @tyrkgkbb

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